第44話 油断する方が悪いのよ ◆――アネモネ(ショコラ)

 よしよし、運があたいに向いてきたわ……!


 ガタゴトと揺られる馬車の中、かごに入ったあたいは満足げにふんふんと鼻を鳴らした。どうやら人間たちは、森にピクニックしに行くらしい。


 名所だかなんだか知らないけれど、森と言う以上、自然のトラップが山ほどあるはずよ。崖に、池に、沼に、湖。どれもこれも事故を装うのにぴったりじゃない!


 自分がこれからどんな目に遭うのかも知らず、ちび聖女も楽しそうに歌を歌っている。

 ぐえ、苦しいって! 目が合って、ちび聖女があたいのことを両手でぎゅーっと抱きしめてきたのよ。


「ショコラもいっしょに、はっぱあつめようねえ」


 全く、葉っぱの何が楽しいんだか。つくづく、花やら葉っぱやらを愛でる人間の気持ちがわからないわ。そんなもの、食べても全然おいしくないじゃない。猫草は別だけど。


 やがて浮かれた一団は、小ぢんまりとした小さな森にたどり着いた。他にも葉っぱを見に来た人間たちがちらほらいるみたいで、皆がちび聖女だけでなく、付き添う大人にもうやうやしく頭を下げている。ふぅん……やっぱり偉い人間たちなのよね。


「わぁっ! みてみて~いろんないろがいっぱい!」


 ダッと、興奮したちび聖女が走り出す。あたいは下僕が抱えるかごの中にゆったりと座りながらそれを見ていた。


 黄色、赤、オレンジ、ゴールド……。色鮮やかに色づいた葉っぱが、滑らかなグラデーションを描きながら青い空に広がっている。そのくっきりした色は、まるで神さまが色を塗ったみたいに鮮やかだ。


 あたいたちがいる魔界の葉は、みんな灰色をしている。花なんかないし、土はただひたすら黒く、かさかさに乾燥している。色がついているのは空に浮かぶ赤い月だけ。ま、それがあたいたちにとっては居心地がいいから気にしたことなんてなかったんだけど……。


 でも、ま、たまにはこんなにたくさん色があるのも悪くないわね。

 飛び込んできたたくさんの色に、あたいは目をぱしぱしまばたかせる。でも不思議と目に痛いわけじゃない。なんというか……しっくり。そう、しっくり馴染んでくる感じ。不思議と懐かしさすら感じるのはどういうことなの? あたいは人間たちみたいに“情緒”を感じたりなんかしないはずだけど、紅葉はなかなかやるじゃない? 


「噂には聞いていたけれど、素晴らしいわね……! まさに自然が織りなす色のハーモニーだわ」

「見事だな。ここまで整えるのは大変だっただろう。これを植樹したのは?」


 人間たちも感動しているようだ。すぐさま大きなラグがあちこちに敷かれ、色んな食べ物が並べられる。ちび聖女は母親と一緒に、木の幹にがしっとしがみついて笑っていた。


 あたいも、のっそりとかごから抜け出して、ふんふんと辺りの匂いを嗅ぐ。少し湿った、豊かな土の匂い。それから少し離れたところから、藻の混じった水の匂いもするわね。池があるのかしら、好都合だわ。


 それからあたいは、ちび聖女のそばでじっくりとチャンスをうかがった。人間たちがお昼ご飯を食べ始め、あたいも茹でたシャケを少しわけてもらって、あぐあぐ食べる。

 このシャケ、ちゃんと猫用に作られてるらしくて味がほとんどないのよね。あたいは魔物だから塩ぐらいどうってことないのに……。あたいはちらっと恨みがましく、ちび聖女を見た。


 おちびはあたいのと違って、しっかり味付けがされたシャケを挟んだパンを今まさに食べているところだった。パンが少し大きいらしく、小さい口をこれでもかと大きく開けて、ぷるぷるしながら先端にもしゃっとかぶりつく。


 ……でも口が小さいから、具のシャケまで全然たどり着けていないじゃない。ああ、茹でられてほんのりとオレンジに染まったシャケの、なんておいしそうなこと……。


 あたいはうずうずした。――それから、大人たちが見ていない一瞬の隙をついて、シャケめがけてすばやくネコパンチを繰り出した。


「あああっ!」


 おちびが悲鳴をあげる。シャケが見事な曲線を描いて宙に飛ぶ。


 あたいのパンチは狙い通り、見事シャケだけを遠くに吹っ飛ばしたのよ。何事かと振り向いた大人たちに捕まえられる前に、あたいは素早くシャケを咥えて遠くに逃げて行った。へへん! この世は弱肉強食なのよ!


「うわあん! ショコラにおさかなとられたあああ!」


 すばやく木の後ろに隠れたあたいとは反対に、ちび聖女はべしょべしょと泣きべそをかいて母親の女に慰められている。


「大丈夫よ、私の分をわけてあげる。猫ちゃんはお魚が好きだから、もっと注意して見てあげればよかったわね……」


 そうよそうよ。油断する方が悪いのよ。猫は本能には勝てないもの!


 あたいは戦利品のシャケをはぐはぐと食べた。うん、やっぱりこの塩気、最高! 普通の猫だったらよくないんでしょうけれど、魔物のあたいには関係ない。それにしてもこれ、骨も全部丁寧に取り除いてあるし、身がふっくらしてほくほくだし、ぺろっと食べられちゃうわね。


 ……いけない、そんなことを言っていたら、召使いっぽい人間が、あたいを探しにやってきたわ。捕まる前に全部食べちゃわないと! はぐぐっ!


 やがて抱きかかえられて連れ戻されたあたいの前で、母親の女がパンを食べやすい大きさにちぎって、おちびの口に入れていた。涙はもう引っ込んだらしく、パンとシャケとレタスが、ちび聖女の口に吸い込まれる。


「おしゃかな、おいしーねえ」


 シャクシャクと音を立てながら、おちびがにこっと笑った。……いい音じゃない。レタスも一緒にかっさらえばよかったわ。


「秋の鮭は、身がさっぱりとしていて一番おいしいのですって」


 女が言いながら、おちびの頭を撫でる。その眼差しは柔らかくって、おちびのことが可愛くて可愛くて仕方ないって感じの顔だ。


 ……ふうん、人間って、そんな顔もするんだ……。


 女の隣ではあたいと同じ黒髪の、やったら背の高い男が、女とおちびのことをじっと見ていた。この場で一番偉い男みたいだけど、こちらはどうやら、おちびたちとはまだ少し距離がある感じね?

 

 あたいはぺろりと唇を舐めた。ちょっぴり残ったしゃけの塩気が、やけにおいしかった。

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