第82話 ふわりと口に広がるのは ◆――キンセンカ(リリアン)

 思い出してぎゅっと手を握った。


 ……今まで何度か、食べ物を『おいしそう』と思わなかったことがなかったわけではないのよ。

 湯気を立てるほかほかのシチューや、ぷるんとなめらかなゼリー、他にも色々な食べ物を摂取する機会があったのだけれど……結果は、全敗。


 どんなにいい香りを出していても、どんなにおいしそうな見た目をしていても、口に入れたものはすべて砂の味に変わる。

 なめらかなゼリーですら、口に入れた瞬間、血濡れた臓物を食べているような気持ち悪さに変わり、嗚咽をこらえるのに必死になるのだ。


「アイねっ! アイねっ! このぽんぽんまるいのがいい!」


 そういって聖女が手にとったのは、小さな丸がたくさん連なったような形のドーナツだ。


 でもドーナツといってもその見た目からして、あまり重みは感じない。なんだか全体的にふわふわとして、軽そうだ。


 わたくしがじっと見つめる前で、聖女の口が「あーん」と大きく開かれた。

 ドーナツはそのままはむっと、小さな口の中に吸い込まれ、もっもっという音が聞こえてきそうな勢いで、ぷくぷくにふくらんだほっぺが動く。


 その顔は幸せそのもので、口の端についたドーナツのかけらすら、幸せの象徴に見える。


「ドーナツ、おいしーねえ!」

「喉に詰まらせないよう、気を付けなさい」


 はむはむとドーナツにかじりつく聖女を、国王ユーリが見たことがないほど優しい瞳で見つめている。彼はと言えば、皿の上にドーナツ……ではなく、四角いパイのようなものを載せていた。


「リリアン、あなたもどうぞ食べてちょうだい。遠慮なんかしていたらあっという間に全部食べられちゃうから、早めにね」


 王妃の言葉通り、目の前では使用人たちによるお上品なドーナツ争奪戦が行われていた。

 皆、国王夫妻の目の前だから仕草は気を付けているようだけれど、サッ、サッ、とものすごい速さで皿からドーナツが消えていく。

 わたくしはためらいながらも、目の前の皿から、聖女アイが選んだドーナツと同じものを手に取った。


 本音を言えば、食べたくない。


 けれど人間としてふるまうため、おいしそうな顔をして見せなければ……。


 不思議な形のドーナツは、手に取ってみると、何やらつやつやした白い膜のようなもので覆われていた。

 蜂蜜……より色は白いし、手にとっても蜂蜜ほどはべたべたしない。


 何かしらこれ。でもなんだっていいわ。どうせ口に入れば全部同じ、砂の味だもの。


 そう思いながら、わたくしはドーナツをひとくちかじった。


 ――その瞬間、もちっ、ふわっ……とした感触とともに、砂の味ではない、優しい“甘み”が口の中いっぱいに広がったのだ。


「っ……!?」


 わたくしは咄嗟に口を押えた。


 ぴりぴり、と、嫌悪感とは違う震えが全身を走る。


 な、なに……!? この味は……!?


 衝撃のあまり、体が動かない。


 それでいて、ドーナツを持つ手がふるふると震える。


 わたくしはなんとかごくりと口の中のドーナツを飲み込むと、震える手を押さえながら、もうひとくちだけかじってみた。


 ――ふわり。

 ほのかに感じる、優しい甘みと香ばしさ。

 噛むたびにドーナツはもちもちと口の中で弾み、新たな甘さが染み出してくる。


 ――それはまるで、枯れ果てて砂漠と化した大地に、一輪の花が咲いたようだった。


 小さな花は咲いたかと思うと、瞬く間に不毛の大地に緑を塗り広げていく。気付けば茶色かった大地は緑一色になり、白や黄色、ピンク色の花が、さわさわと通り過ぎる風に撫でられて、気持ちよさそうに太陽を仰いでいるのだ――。


「――……アン、リリアン、大丈夫?」


 王妃エデリーンの声に、わたくしはハッとした。


 どうやら食べかけのドーナツを持ったまま、わたくしは幻覚を見ていたらしい。


「あ……」

「どうしたの? もしかして、口に合わなかった? だとしたらごめんなさい。今、お茶と代わりのお口直しのものを用意させるわね! ハロルド――」

「あっ、いえ、大丈夫ですわ!」


 おろおろと焦って手をあげようとした王妃を、わたくしはあわてて制した。


「違うんです。その、あまりに……あまりにおいしくて……」


 “おいしい”


 自分の口から出た単語を、わたくし自身が一番信じられない気持ちで聞いていた。


 何故かしら……このドーナツを食べた瞬間、確かに“おいしい”と思ったの。

 それに、この味が“甘い”というのも、自然とわかったのよ。まるで生まれたての子猫が、母猫の出すお乳は甘いとわかるように。


「りりあんおねえちゃん! ドーナツ、おいしいねえ!」


 いつの間にか、黒茶のつやつやしたものがたっぷりかかったドーナツにかじりついていた聖女が、ほっぺを膨らませながらニコニコとわたくしに話しかける。


「アイのいったとおりでしょ? なべのおじちゃんのごはん、すっごくおいしいんだあ!」

「はーいそこ。俺はおじちゃんじゃないって言ったの、これで六百五十六回目でぇす」


 すかさず声をかけてきたハロルドの様子からして、聖女が言っている『鍋のおじちゃん』とはあの男であるらしい。王妃が目を丸くし、国王がなぜかうなずいている。


「ハロルド……あなた全部数えてたの?」

「ハロルドは見た目こそあんなだが、意外と細かいことを気にするからな」

「はーいユーリさん。見た目こそあんなってどういうことですかあ」


 そんな彼らのやりとりを見ながら、わたくしはまたドーナツを食べた。


 はむり。


 一口ごとに広がるのは、圧倒的“おいしい”だ。


 食べても食べても、ううん、食べれば食べるほど、おいしいはどんどん増えて、続いていく。


 ひとくち。もうひとくち。


 気づけばわたくしは次のドーナツに手を伸ばし、無我夢中でほおばっていた。




***

実は!!!

『5歳聖女』2巻の発売日決定に伴って、表紙も公開されました!

発売までまだ少し先なのですがぜひ購入していただけると嬉しいです~!詳細は近況ノートにて。

https://kakuyomu.jp/users/miyako_/news/16817330659835884872

\ちなみにドーナツ回はまだ終わらない/

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