第75話 ……で、さっきのは一体何なんですの?
「すごいですわ……!」
入った温室で、私は思わず感動してはしゃいでしまった。
まわりを雪に囲まれた北宮の温室には、幻想的で清らかな光景が広がっていたのだ。
繊細に組み立てられ、透き通るガラスの向こうには一面の雪世界が広がっているのに、温室の中は燦々と太陽光が差し込んであたたかく、冬であるのを忘れさせるほど。
温室は決して大きな建物ではないものの、中で楚々と咲き乱れているのは真っ白なスノードロップだ。白く、どこかぽってりとして愛らしい花びらに、瑞々しい緑の葉。
おとぎ話に出てきそうな可愛らしく清らかな姿に、知らず笑みがこぼれる。
「ふふ。これ、アイに見せたらきっと喜ぶでしょうね。そうだ、今からでもアイを……」
そこまで言ってから、私はハッとした。
いけない。何かあるとすぐにアイに見せたがる癖がついてしまったけれど、今は私とユーリ様のデートの時間なんだったわ!
きっとサクラ太后陛下も、私がすぐにアイを連れて行きたがることを想定したからこそ、『私がアイとしばらく遊びます』と言っていたのだろう。そのことに気付いて私はこほんと咳払いした。
「それにしても、まさか王宮にこんな場所があったなんて知りませんでしたわ」
せっかくサクラ太后陛下が気を遣ってくださったんだもの。ここは夫婦として、きちんとデートしなければ! ……って意気込むのも変な話だけれど。
私が花を眺めていると、いつの間にか穏やかな顔に戻ったユーリ様が隣に立つ。
「サクラ太后陛下が教えてくれたのだが、ここは太后陛下がみずから作った温室らしい」
「まあ、そうだったのですね」
前国王陛下に裏切られる前のサクラ太后陛下は花を好み、よく育てていたのを聞いたことがある。最近はそういう話も聞いていなかったのだけれど……。
「ほっほっほ。実は私がサクラ太后陛下に、この温室の管理を任されているのですよ」
「ホートリー大神官!?」
そこへ聞き覚えのある声がして、にこにこ顔のホートリー大神官が現れた。
かと思うと後ろでドスンッ! と音がする。振り返ると、なぜかリリアンが地面に尻餅をついていた。その上ものすごい形相で、ホートリー大神官を見ている。
……どうしたのかしら? ホートリー大神官が突然現れて驚いたにしては、少し驚きすぎな気がするけれど……。
「今日のことは太后陛下から聞いていますよ。温室の鍵は開けておきますので、心行くまで見ていってくださいな。奥にはテーブルと、カウチもありますぞ」
ふさふさの髭を揺らしながら、大神官が機嫌よく続ける。その声に、私はまた大神官に視線を戻した。
「お気遣いありがとうございますわ。それにしてもこんな立派な温室があったなんて、全然知りませんでした」
「もう長いこと、私以外の人は来ていませんでしたからな。それに、ここは太后陛下にとっていわば最後の砦でもあったのです。離宮に移ると同時にあちこちの庭や温室を閉鎖した際、ここだけは残っていましたから」
言って、大神官はほっほと笑った。
「だから今日ここに両陛下が来ると聞いて、大層驚いたものです」
私とユーリ様は顔を見合わせた。
まさかこの美しい温室にそんな秘密が隠されていたなんて。
そう言われると、静かに優しく咲いているスノードロップの一輪一輪が、まるでサクラ太后陛下の真心を表しているようにも見えてくる。
同時にここに招き入れてくれたということは、まるで太后陛下の心の内に招かれたような気持にもなっていた。
「あの、わ、わたくし、そんなすばらしい庭園に足を踏み入れるわけには行きませんから、温室の入り口で待っておりますね」
そこへ、なぜか顔を青ざめさせたリリアンが控えめに申し出た。
「気にしなくていいのよ、あなたは私の護衛騎士なのだから、太后陛下もきっと気にしないわ。それに、外は寒いじゃない」
「そうですぞ、リリアン殿」
ホートリー大神官がそう微笑みかけた途端、なぜかリリアンの顔はさらに青くなった。
「いえ! わたくしは入り口で大丈夫でございます!」
半ば叫ぶようにして、リリアンがそそくさと離れていく。私は目を丸くした。
いつも優雅な笑みを浮かべているリリアンらしくない動揺っぷりだ。今日はユーリ様といいリリアンといい、みんな一体どうしてしまったの?
困惑していると、また「ほっほ」とホートリー大神官が笑って言った。
「どうやら愉快な騎士をお持ちのようですな。それでは私も退出しますゆえ、どうぞ好きなだけお過ごしください。テーブルのお茶は私が用意しましたゆえ、ご心配なく」
それだけ言うと、ホートリー大神官はゆるりとした歩みで温室を後にした。
残された私とユーリ様は、お言葉に甘えてふたりでのんびりと温室内を見て回った。
スノードロップは指で触れるとふるりと揺れて、とても可愛い。それに奥にはホートリー大神官の言う通りテーブルとカウチがあり、そこにはティーセットが用意されていた。
私たちはカウチに横並びになって座ると、ありがたくお茶に口をつけた。
中身はどうやら、カモミールティーのようだ。口に広がる爽やかな味わいを楽しみながら私は微笑む。
「こうしてふたりでお茶を飲むのはいつぶりでしょう? いつも必ずアイを挟んでいたから、ずいぶん久しぶりな気がしますわ」
「新年を迎えてからは、初めてかもしれないな。祝賀会の準備も忙しかったから」
「本当ですわね」
そこまで言ってから、私はきらっと目を光らせた。
「……で、さっきのは一体何なんですの?」
途端に、ユーリ様がぎくりと体をこわばらせる。
「さ、さっきの、とは……?」
「とぼけないでくださいませ」
私はじとっとした目でユーリ様を見た。今度こそ、逃がさないわ!
「先ほどサクラ太后陛下と話していたことです。言われたのは、きっとデートのことだけではないのでしょう?」
「う……」
「私にも関係があることのようですから、もったいぶらずに教えてくださいませ!」
私がぐいっと詰め寄ると、ユーリがまた顔を赤くする。
「それはっ。……言ってもいいが、君も困ることになるぞ?」
「私が困ること、ですか?」
言われて私はきょとんとした。
……私が困ることって、何かしら?
もしかして、勉強するからアイと過ごす時間が減るということ? それとも、母親として私も手伝えということ?
でも……それがユーリ様の赤面とどう関係があるのか、全然結びつかない。
しばらく考えたけど答えが出てこなくて、私はまたユーリ様を見た。
「よくわかりませんが、何を言われようとも受け入れますわ! さぁ、どんと来てくださいませ!」
そう言った瞬間、ユーリ様の瞳がなぜかきらりと光った気がした。
その光はまるで獲物を前にした肉食獣のような獰猛さがあり――私は目を見張った。
「本当、だな……? その言葉に、二言はないな?」
「あ……ありませんわ!?」
なぜだか身の危険を感じて、私は自分の怖気を跳ね返すように、わざと強く答えた。
それを見たユーリ様が、一度うつむき、ふーっ……と息をつく。
それから再度顔を上げたユーリ様を見て、私の心臓がドクッと跳ねた。
――私を見つめたユーリ様の顔は、驚くほどの色気を湛えていたの。
長いまつ毛に彩られた瞳が、他の誰でもない、私のことをまっすぐ見ている。ゆらゆらと揺れる深い青の瞳は海面のようで、私のすべてを飲み込んでしまいそうな切実さを湛えていた。
真剣で、それでいてどこか切羽詰まった表情で、ユーリ様が私を見ている。
「ゆ……」
名前を呼びかけた私の唇に、ユーリ様の人差し指が置かれる。
「エデリーン。先ほどサクラ太后陛下に言われた本当の言葉はこうだ。『――あなたたちはもう夫婦になってずいぶん経つけれど、全然進展がないそうね。温室を貸してあげるから、さっさと口づけのひとつやふたつ、交わしてきなさい』と」
「!?」
その言葉を聞いた瞬間、私の顔が真っ赤になった。
なんっ……!? サクラ太后陛下はなんってことを言うの!? く、口づけなんて……!
ひとり動揺していると、さっきとは打って変わって落ち着き払ったユーリ様が、伏目がちに言う。
「だが、私も太后陛下の言葉に賛成だ」
その表情もまた匂うような色気にあふれ、まつ毛を伏せる動作すらも美しかった。
ううっ、そうだった! いつも忘れるけど、この方、とんでもない美形なんだった! こういう時になってようやく思い出すなんて……私の不覚!?
「前も言った通り、私は君と本当の夫婦になりたいと思っている。体だけではなく心も通い合わせるような夫婦に、だ」
ふたたびユーリ様が私を見る。
深い青い瞳に絡めとられて、私はその場からぴくりとも動けなくなっていた。
「エデリーン。君に口づけしても、いいだろうか?」
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