第71話 その甘さに、付け込ませてもらうわ ★――キンセンカ(リリアン)

 ――その夜、わたくしは一晩中うなされた。


 夢では空一面を覆いつくすほど巨大になった大神官が、「ほっほっほ」という笑い声を響かせながら、ずっとわたくしを追いかけてくるのだ。

 サキュバスの力と翼を全開放してどこまで飛んでも、大神官は太陽のようにぴったりとくっついて離れない。


 どこまでもどこまでも追いかけてくる大神官の姿に、永遠に聞こえる「ほっほっほ」という笑い声。わたくしは得体のしれない恐怖に、泣きながら逃げ続ける――という夢だった。


「初日だというのに、なんて最悪な夢見なの……」


 言って、わたくしは目の前に立っていた衛兵を突き飛ばした。

 わたくしに見つめられ、こんこんと気を吸い取られた男がふらふらと廊下に崩れ落ちる。


 昨夜の夢見があまりに悪すぎてひどい顔色になっていたから、急遽そのへんにいた男で栄養を補給をしていたのよ。

 本来ならわたくしは一か月に一度の補給で事足りるのに、ああ、予期せぬ男に触れてしまうだなんて気持ちが悪い……! 後でしっかり手を洗わないと。


 そんなちょっとした事件があったことなどみじんも感じさせない顔で、わたくしは初の出仕を迎えた。


 ドアをノックして王妃の部屋に入るなり、ふわりと金髪を揺らせたエデリーン王妃がわたくしに向かってにこやかな笑みを浮かべる。


「おはよう、リリアン。早速今日からね。昨夜はよく眠れたかしら?」

「はい、おかげさまで」


 ――本当は一晩中、「ほっほっほ」と笑う大神官に追いかけられて最悪でしたなんて言わない。


 わたくしは微笑んでから、念のため部屋の中に視線を走らせた。


 部屋にいるのは王妃エデリーンに、聖女アイ。それから昨日わたくしに説明してくれた侍女のアンと、アンが言っていた二人の侍女。ラナとイブという名だったわね。

 さらにふたり、双子と思われる騎士が立っている。彼らは恐らく、マクシミリアンが言っていた聖女アイの護衛ね。


 ……よかった。あの大神官はいない。


 大神官ホートリーの不在に、わたくしは知らず詰めていた息をほっともらした。

 一方の王妃エデリーンは、おだやかな顔で聖女アイの頭を撫でている。


「よかったわ。何かあったらすぐに言ってちょうだいね。せっかくご縁があって繋がった仲ですもの。仲良くしましょう」


 王妃エデリーンの言葉に、わたくしは思わず目を細めた。


 ……ふぅん? この王妃様は、ずいぶんと善人でいらっしゃるのね?


 通常王族にとっての護衛騎士など、ただの動く盾にしか過ぎない。

 そもそも王族はいちいち使用人の名前など覚えたりしないし、護衛騎士が彼らのために命を散らしたところで、「名誉の中で死ねてよかったでしょう?」なんてことしか言わない。


 実際わたくしが後宮を乗っ取って女帝としてふるまっていた頃も、反逆の芽が出ていないか気に掛ける以外の部分で、家来たちに気を配ったことなどない。


 その上わたくしリリアンは、王妃エデリーンを捨てた元婚約者マクシミリアンの遠縁で、国王ユーリに何度も色目を使っているのを王妃エデリーンも見たはずよね。


 それなのに『仲良くしましょう』なんて……どれだけお人好しなのかしら。


 それとも、偽善?


 わたくしの瞳がきらりと輝く。


 国王に色目を使ったわたくしに対し、あえて寛大な態度を見せることで、王妃としての器の大きさを示そうとしているのかしら?


 ……とはいえそっちの方が賢い選択と言えるわね。わたくしとしては、醜く嫉妬に駆られて取り乱してくれた方がありがたいのだけれど……。


 わたくしが考えていると、王妃エデリーンが、聖女アイの背中をそっと押した。


「アイ、彼女はママの新しい騎士よ。ママのことを守ってくれるのですって。ご挨拶できるかしら?」


 うながされて、聖女アイが頬をピンクに染めながら前に進み出る。


 今日聖女が着ているのは、全体が薄いクリーム色の、鮮やかな黄色の付け衿がついたドレスだ。胸元には衿と同じ素材で作られた大きなリボンがついており、ドレスの裾には、ウサギや花の刺繍が入っている。


 聖女アイはドレスの裾をつまみあげると、小さなお辞儀カーテシーを披露した。


「……ごきげんよう。だいいちおうじょの、アイと、もうします」


 鈴のように高くやわらかな声音。緊張気味ではあるものの、よどみなく言われた言葉は、なるほどこれが国民を虜にする聖女、と思えるほど可憐だ。後ろでは王妃エデリーンが、この上なく嬉しそうな顔でニコニコと微笑んでいる。


 これが噂の、聖女アイね……。


 わたくしは微笑みながらも、目の前の幼女をじっくりと観察した。


 アイは聖女だけあって、幼いながらにもとても愛らしい顔立ちをしている。このまま順調に育てば、将来はさぞ美しい少女になるのでしょう。……育てば、だけれど。


「にゃあん」


 そこへ、わたくしを牽制するように猫の鳴き声が響いた。


 見れば聖女アイの足元に、ショコラが何食わぬ顔でまとわりついている。

 けれどぱちりと合った金色の瞳は、確かに『ちび聖女に手を出したら、ただじゃおかないわよ!』と語っていた。


 ふん、わかっているわよ。本当子猫ちゃんもしつこいわね。


 わたくしはその視線を受け流してから、なるべく優しく見えるよう、優雅な笑みを浮かべる。


「エデリーン陛下の護衛となりました、リリアンでございます。以後お見知りおきを、聖女アイ様」


 胸に手をかざし、スッと腰を折り曲げる騎士の挨拶をすると、聖女アイの瞳がきらきらと輝いた。

 わたくしは今長い髪をポニーテールにし、騎士服を着ているから、はためからは男装の麗人に見えるのだろう。聖女アイのまわりには、あまりいなかったタイプかもしれない。


「リリアンさまは、きしさま! かっこいいねぇ!」


 邪気なんて欠片も感じない、無垢な笑みで聖女アイがわたくしを褒める。


「お褒めに預かりありがとうございます。アイ様も大変お可愛らしゅう姫でございますね」

「おかわいらしゅう……?」


 難しい言葉に首を捻る聖女に、王妃が囁く。


「とても可愛い、と言う意味よ」

「かわいい……? えへへっ」


 その言葉に、聖女アイがぱっと顔を輝かせた。

 大きな目が微笑みできゅっと細くなり、小さな顔いっぱいに、嬉しいような、照れたような愛らしい笑みが広がる。

 周りにいた侍女や王妃も、釣られるようにニコニコとしていた。

 特に王妃エデリーンは、顔がとろけたのかと思うほど目尻を下げている。


 ……上機嫌そうね。なら、今がチャンスだわ。


 わたくしはここぞとばかりに、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「わたくし、此度はエデリーン陛下に仕えることができて、大変光栄でございます」


 その言葉に、王妃の微笑みがこちらに向けられる。


「そういえばあなたは、自分から護衛騎士に志願したとユーリ様に聞いたわ」

「はい」


 胸に手を当て、精一杯誠実そうに見える笑みを浮かべて王妃エデリーンを見つめる。

 わたくしの魅了は男にしか効果はないけれど、笑顔自体は、性別問わず人の心を溶かす武器になるのを知っていた。


 わたくしは王妃エデリーンを口説くつもりで、言葉に全力を込めた。


「わたくしは……ずっとエデリーン陛下に憧れていました」

「私に? ……ユーリ様ではなく?」


 目を丸くする王妃に、くすりと笑って見せる。


「もちろん、ユーリ陛下にも憧れております。けれどそれは騎士としての憧れ。ですが、エデリーン陛下に対しては女性として、人として憧れているのです」

「まあ、ありがとう。……といっても、私は王妃の地位にいるだけで、そんな大層な人間ではないのよ」

「いいえ、陛下は素晴らしい方ですわ」


 熱っぽく言いながら、わたくしはぐいっと身を乗り出した。


「王都に来た時、わたくしは聞きました。聖女アイ様は召喚された直後、とても弱っていらしたのでしょう? それをエデリーン陛下がかいがいしく世話をし、傷を癒したおかげで、今の健やかな姿があるのだとか。まさに聖母の如き優しさだと、民たちの間で話題になっておりましたわ」


 これは本当の話だ。

 わたくしが王都に潜入した時、平民から貴族までさまざまな男たちを利用して聞き出したのだけれど、王妃エデリーンの評判はすこぶるよかったのよ。

 一部、聖女じゃない者が王妃になっていることを不満に思っている人はいれど、それも彼女の父である侯爵に反発を覚えている側面が強い。


 聖女アイがこの国の支えとなり信仰となっていることはまちがいないけれど、王妃エデリーンも聖女と同じぐらい、民たちに愛されていたのだ。


 わたくしの言葉とうるんだ瞳に、王妃エデリーンが頬を赤らめる。


「大袈裟よ。わたくしはただ、アイを放っておけなかっただけ。あなたもあの場にいたら、きっと同じことをするわ」

「そうでしょうか? わたくしがその場にいても、きっとオロオロして陛下の指示を仰ぐことしかできませんでしたわ」


 これも本音よ。だって子どもなんて、どう接したらいいかわからないんだもの。

 わたくしは男は得意でも、魅了がかからない女と子どもは苦手なの。特に泣いている子どもは、主様に頼まれたって近づきたくないわね。


「ふふ、ありがとう。ならあなたの誉め言葉は、嬉しく受け取っておくわ」


 照れながらも、王妃エデリーンは微笑んだ。


 ……よし、悪くない反応ね。

 「媚びるのはよしてちょうだい」と冷たくあしらわれる可能性も考えていたけれど、反応からして、もしかして本当に善良な人物なのかしら? だとしたらその甘さに付け込ませてもらうわ。


 わたくしが企んでいると、王妃エデリーンが「そうだ」と顔を上げた。


「そういえばリリアン。あなたには何か好きな食べ物はあるかしら?」

「好きな食べ物……ですか?」


 なぜ急にそんなことを?


「いえね、せっかくだからあなたを歓迎するために、内々だけのお茶会でも開こうと思って。あなたが主役なら、やっぱりあなたの好きなものを用意しなくちゃでしょう?」


 その言葉に、わたくしは咄嗟に言葉が出なかった。


 だってわたくしの……たかだか護衛騎士のために王妃が直々にお茶会を開催するですって? そんな話聞いたことがないわ。しかも、何の食べ物が好きかって?


 わたくしの動揺に気付くことなく、王妃エデリーンが穏やかな顔で言う。


「あっ、けれどお茶会だからって、別に甘いものでなくてもいいのよ? しょっぱいものでもすっぱいものでも、好きなものを用意させるわ」


 追加の言葉に、わたくしはマキウス王国にやってきて一番困った。


 だって――わたくしはサキュバス。

 生命維持に繋がらない食べ物になんて、これっぽっちも興味がなかったのよ。

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