第54話 一体、何をやっているんだあいつは ★――???

 ずるり、べちゃっ、ずるり。


 重い体が、今日も冷たい石床の上を這う。


――遅い。遅すぎる。


 アネモネを送り出してから早一ヶ月。その間何も連絡がないが、一体どうなっているのだ?


 我はイライラしながら尾を床に叩きつけた。ドォン、という音とともに、飛び散った粘液が辺りの壁を溶かす。ジュウウウという音が聞こえる中、我は声を張り上げた。


「アイビー!」

「ここに」


 我が呼ぶと、すぐさまアイビーが姿を現す。奴は今日も黒い髪に紫の目の、若い人間の男の恰好をしている。全身を包む真っ黒な服に、手を胸の前に置いて頭を下げて……相変わらず執事ごっこは続いているらしい。


「アネモネとはまだ連絡がつかないのか!」


 魔界の主である我は、どんな魔物ともいつでもどこでも意思疎通ができる。それは上位魔物であるアイビーやアネモネにも備わっている能力だ。だが、アネモネを送り出して以降、やつの声だけはぱったりと聞こえなくなってしまった。存在は確かに感じるのに、声だけはなぜか聞こえないのだ。


「再度接触を試みます。……おや、どうやら今日は繋がるようですよ」


 アイビーが手を振ると、我の前にフッと丸い鏡が浮かび上がる。それはいつも聖女を監視するために使う鏡と違って、表面が黒く塗りつぶされていた。


 闇を流し込んだような黒い鏡の表面が、ゆっくりと波打つ。それからぼんやりとした何かが映し出されるのを、我はそれをじっと見つめていた。そして――。


「……アネモネ、貴様は何をしておるのだ?」


 人間どもが使うソファーの上で、腹を丸出しにしてごろんごろんと寝転がっている黒猫は、紛れもないアネモネだ。隣では、ちび聖女がニコニコしながらそのお腹をもっふもっふと撫でまわしている。


「……おい、アネモネ。聞いているのか!」


 我はカッと怒鳴った。その瞬間、アネモネ目がぎょっと見開かれる。


『あ……主さま!?』


 頭の中に直接響く声。鏡の中ではアネモネがしっぽをピンと立て、あわてて姿勢を正していた。かすかに聞こえた、「ショコラ、どうしたの?」という声は小さい聖女だろう。


『こ、此度こたびはいかがされたのですかあ~!?』


 取り繕うような猫撫で声に、我のこめかみにぴくぴくと青筋が浮かんだ。


「どうしたも何も、任務を忘れたのか! 貴様は何のためにそこにいる! 隣でピンピンしている聖女は、一体どういうことか!」


 怒鳴ると、部屋の中をビリビリとした衝撃波が走った。届いていないはずの向こうの世界で、アネモネが怯えたように耳を伏せている。それからごまかすようにへらへらと笑った。


『実はですねぇ、やっぱり聖女の周りってなると、ちょっとばかし警戒が厳重でして。おまけに、王族のやつらもバケモノ級の人間がごろごろいるんですよ! だから様子を見ている最中でしてぇ……』

「様子見? ふん。腹を見せて飼い猫のように撫でられることが様子見なのか?」


 我が皮肉ると、黒猫は心外とばかりに眉をひそめてみせた。


『やだなぁ。相手を油断させるのも作戦の内じゃないですか。そもそも、あたいを最初に呼んだのも、それが理由でしょう? 見てくださいよこのちび聖女の様子を。あたいを信用しきって、毎晩一緒に抱いて寝ているくらいなんですから』


 アネモネが自慢げに言ったそばから、ちび聖女の手がにゅっと伸びてきて黒猫をぎゅーっと抱きしめる。……なるほど、確かに奴は、ちび聖女の信頼を勝ち得てはいるらしい。


「……それで? その様子見とやらは、いつまで続ける気だ? 我は貴様に、一刻でも早い聖女の始末を命じたはずだが?」

『それなら、もうすぐだとお答えしましょう』


 黒猫は自信ありげに、にやりと笑った。……いかにも悪い笑みだったが、ちび聖女に頭をわしゃわしゃ撫でられながらだったから、まったく威厳はない。


『もうすぐ、人間どもがみんな浮かれて油断する時がやってきます。そう、“聖女式典”という名のね! そこで、事故を装ってどかんとやってやるのが、あたいの策ですよ!』

「ほう。聖女式典で」

『ええ、ええ! 聖女式典は人間にとって大事な儀式。その儀式の最中に、主役である聖女に凶事が起これば、奴らは恐慌状態に陥るでしょう! 聖女の始末に加えて、人間たちに絶望を振りまく、まさに絶好のチャンスなのです」

「ふむ……一理ある」


 我は、人間にとって輝かしい場であるはずの聖女式典が、血に濡れる様を想像した。たくさんの人間たちの悲鳴を想像して、つかの間、心の平穏を得る。


「よかろう。では、聖女式典で聖女を抹殺し、人間たちに混乱を与えるのだ。いいかアネモネ、我の堪忍袋の緒はもう限界だ。しくじるでないぞ」

『はぁい、それはもう! あたいにお任せくださいませ!』

「それから、意識は常に繋げておけ。連絡が取れぬではないか」

『ああ、今回うっかり閉めそこね――じゃなかった、開けそこなっておりました! 大変申し訳ありません主さま!』


 うん? いまこやつ、閉めそこねたとか言いかけなかったか? ということは最近連絡がとれなかったのは、こやつが意図的にやったことなのか?


「おいアネモネ、どういうことだ。まさか我からの連絡を絶とうなどと――」

「あっ! 大変申し訳ありません主さま! どうやらちび聖女がお散歩の時間のようでして! あたいも偵察のために今すぐ同行せねばッ!』


 そう言うと、我が答える間もなく、瞬く間に鏡の表面が真っ黒に塗りつぶされた。


「……主さま。どうやら、アネモネがまた意識を閉ざしたようです」


 事務的に答えるアイビーをギロっとにらみ、我はまた怒りに任せて尾を床に振り下ろした。

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