第53話 憎い憎い、人間のひとり ◆――アネモネ(ショコラ)

「にゃあん」


 幼く、弱く、いかにも無知な猫のようにあたいは鳴いた。甘い声に振り返った男が、驚きに目を見開くのが見える。


「なっ、なんで!? おまえ、傷が回復して!? ……いや、千切れた体が戻るわけがない。じゃあ、別の猫か……?」


 そう、あたいは、あんたが散々なぶった末に捨てたあの猫よ。千切れた体は不思議なことに、勝手に戻ってしまったのよねえ。


 けれど男は勝手にあたいを違う猫だと決めつけたらしい。はぁ、はぁと生臭い息を吐きながら、脂と血にまみれた汚らしい手を伸ばしてくる。


「よーしよし……おいで……。俺がかわいがってやろう……」


 かわいがる? あんたの可愛がるというのは、ずいぶん残忍な方法なんだねえ。


 でも、それがあんたの流儀というなら、あたいもたっぷりとをしなくちゃね?


――あたいがにんまりと微笑んだ次の瞬間、ヒュッと風を切る音がして、男の手首から先が消えていた。


「あ……?」


 何が起こったのか理解していない男の前で、真っ赤な血だけが勢いよく噴き出す。


「あ、あああああああ!?」


 にぶい男だねえ。ようやく自分の身に何が起こったのか悟ったらしい。けれど、楽しい時間は始まったばかり。あたいがやられたことを全て、お返ししてあげないと。


 あたいは舌なめずりをした。それから猫がねずみを弄ぶように、この男があたいを弄んだときのように、たっぷりとをしてあげたのさ。


 響き渡る男の悲鳴が、飛び散る血しぶきが、たまらなく心地よかった。


 やがて男がぴくりとも動かなくなった頃、そこに立っていたのは一匹の魔物だった。かつての弱いあたいは消え失せ、魔物として生まれ変わった強いあたいだけが立っていた。







――ドクン。


 自分の心臓の音に、あたいはビクッと身を震わせた。


 回想を終えたあたいの目の前では、毒が入った水を、おちびが今まさに飲もうとしていた。


 あたいのくちから、ハッ、ハッ、と荒い息がもれる。


 その水を飲めば、聖女など関係ない。おちびは間違いなく死ぬ。そして聖女の死は主さまや、あたいが待ち望んでいたこと。魔界の安寧を壊す人間の、それも力のある人間の死は、魔物にとってこの上ない歓びなのだ。


 ……だと言うのに、この動悸は何?


 ドクドクと心臓が暴れ、まわりの動作がすべてのろのろと動く。おちびの長いまつげがゆっくりと上下する動きに合わせて、空気が揺らぐところすら見えるみたい。コップの中で緩慢に揺れる毒水が、おちびの唇に吸い寄せられる。


 ハッ、ハッ、ハッ。


 呼吸が、荒い。


 あたいは気持ちを静めるためにゆっくりと唾を呑み込んで、それから自分に言い聞かせた。


 ちび聖女は人間よ。憎い憎い、人間のひとりよ。だから、殺しても構わない――!


 ドクン。


 またもや心臓が鳴った。


 そして聞こえるのは、おちびの甘い、あどけない声。


『アイがなでなでしてあげるねえ!』


 あたいを撫でる、優しい小さな手の感触。


『ショコラはおひさまのにおいがするねえ』


 ふんわりと香る、ミルクのような甘いちび聖女の匂い。


『ショコラはかわいいねえ』


 ぎゅっと押し付けられた頬の、あたたかな体温。


――そして。


『ショコラ、だいすきだよ。ずっといっしょにいてね』


 世界中の光を集めたような、きらきらと輝く小さな瞳は、あたいをまっすぐに見ていた。




「――にゃああああああ!!!」


 気づけばあたいは、猛然とちび聖女にとびかかっていた。


「わあっ!?」


 おちびの叫び声とともに、ガチャン! とコップが落ちて砕ける音。

 当然毒水はすべてこぼれ、絨毯に吸収されていく。


 ……なんで!? なんであたいは、自分で貴重なチャンスを潰してしまったの!? 


 わからない、わからない、わからない!


 混乱が、あたいの体の中を稲妻のように駆け巡る。その勢いに突き動かされるように、あたいは全力で部屋の中を縦横無尽に走り回った。


「にゃあああああ!!!」

「きゃあっ!」

「アイさまをお守りしろ!」


 ガシャン! ドスン! バタン! ビリリ!


 あたいは無我夢中になって、手あたり次第体当たりをした。大きな水差しが倒れて割れる。侍女が転ぶ。椅子も倒れる。シーツは破れる。


 はあっはあっ……。


 やがて息が切れたあたいは、全身の毛を逆立てて、ベッドの上で荒い息を繰り返していた。ぎりぎりと爪をシーツに食い込ませていると、おちびの声が聞こえる。


「ショコラ!」

「アイさまおまちください! いまは危険です!」


 護衛騎士が止めるのも聞かず、おちびはするりと騎士の腕の中から脱出した。そのまま青ざめた顔であたいの元に駆け寄ってくる。


「ショコラ! どうしたの!? だいじょうぶ!?」


 あたいはさっきまで狂ったようにあばれていたのに、おちびは微塵もためらうことなく、あたいに手を伸ばしてくる。


 そのままふわりと、あたいは小さな手に包み込まれた。


「おばけのゆめ、みたの? だいじょうぶだよ。おばけがきてもアイがいるからね。アイが、おばけをやっつけてあげるからね」


 言いながら、とん、とん、とおぼつかない手つきであたいの背中を叩いてくる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ……なにもこわくないよ」


 とん、とん、とん……。


 その小さなリズムを聞いているうちに、あたいの息は落ち着いてきた。


 ……何よ。いま言ったの、全部この間こわい夢を見て泣いていたおちびが、母親の女に言われていたことじゃない。あたい、見てたのよ。


 そう思うのに、その小さな手から離れようとは思わなかった。


 だって、人間にこんなに優しくされたのは、初めてだったんだもの。

 人間の手がこんなにやわらかくて、こんなにあったかくて、こんなに気持ちいものだって、知らなかったんだもの……。


 あたいは控えめに、少しだけ、すり……とおちびの手に頬をこすりつけてみた。すぐさまそれに応えるように、小さな手が一生懸命あたいの頭をなではじめる。


「ショコラはあまえんぼさんだねえ」


 ふん。まったく同じ台詞をあんたに返してやるわよ。


 だんだん落ち着きを取り戻してきたあたいは、ざり、と舌でちび聖女の頬を舐めた。


「わあ、くすぐったあい!」


 ……ふん。今回あたいが止めたのは、やっぱり卑怯な手はよくないって思ったからよ!


 心の中で言い訳しながら、悔しまぎれにもっとざりざり舐めてやる。


 あたいは一流の上位の魔物として! やっぱり最初の方針通りやるのが一番だって思ったの! それまでちょーっとばかり時間はかかるかもしれないけれど! ちび聖女は! アイは! きっとあたいが食べるのよ!


 ざりざりざり。舐める舌は止まらない。


 べっ、別に居心地がいいわけじゃないんだからね!? おちびはあたしのごはん! おいしいものは最後に食べるって、決めてるだけなのよ!


 あたいはおちびを押し倒すと、必死にそのやわらかいほっぺを舐め続けた。


「やめてえ! ちょっといたいよう!」


 ちび聖女の叫び声に、騎士があわててあたいを引きはがす。

 べろんべろんと、抱え上げられて舌が宙を空振りしても、あたいはずっと舐め続けていた。

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