第52話 身を焦がす憎しみ ◆――アネモネ(ショコラ)

 この毒は、あたいだけが使える特殊能力。自然界にあるどんな毒よりも強力で、人間がこれを飲めば、聖女とてひとたまりもない。その上時間が経てばただの水に変わるから、魔物の仕業だとまずわからず、人間たちを疑心暗鬼に陥らせることもできて一石二鳥というわけ。


 ……本当は毒なんていう姑息な手段使いたくなかったけれど、このままだと永遠にらちが明かないと思ったのよ。当初の予定よりだいぶ長く人間界に滞在してしまっているんだもの。主さまだって、そろそろじれているかもしれない……。


 やがて、あたいが見つめる前で寝ていたおちびがもぞりと動く。それから目が開き、ぽやんとした顔のままむくっと起き上がった。気づいた侍女が、にこやかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。


「おはようございます、アイさま。よく眠れましたか?」


 その手は早くも水差しに伸びていた。侍女も、おちびが寝起きにレモン水を飲むのを知っているのだ。そのまま小さなカップにたっぷりと注がれるのは、毒入りの水。もちろん、その存在はあたい以外知らない。


「どうぞ。アイさまの好きなレモン水ですよ」


 ちび聖女がごしごしと目をこすりながら、侍女が差し出したカップに手を伸ばす。


 その様子を、あたいは息を呑んで見つめていた。


 おちびの小さな両手が、中身をこぼさないようカップをぎゅっと握っている。そのふちに、つんと尖らせた唇が吸い寄せられていく。


 そう、そのまま飲むのよ。そうすれば、おちび、あんたは、死ぬ――。


 あたいがゴクリと唾を呑んだ次の瞬間、突如脳裏に過去の記憶がよみがえってきた。


――それはあたいがまだ、本当に“猫”だった頃の記憶だった。







「ニ゛ャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーッ!」


 熱い。痛い。苦しい。


 閉じ込められた小さな檻の中で、文字通り、炎があたいの体を焼いていた。

 想像を絶するような痛みにもがき苦しみ、少しでも苦痛から逃れようと、あたいはやたらめったらに檻に体を打ち付けていた。


 目の前では、格子越しに縦にも横にも大きな体をした男があたいを見ている。あたいの目は目ヤニでほぼ塞がれている上に、逆光だったから顔はほとんど見えなかったけれど、黄色い歯でニヤニヤ笑っているのだけはわかった。……苦しむあたいを見て、楽しんでいるのだ。


 ガンッ、ガンッ。何度檻に体当たりしても、鉄の柵はびくともしない。けれど体当たりしていれば、体の痛みが少しは相殺される気がして、あたいは止まることなくぶつかり続けた。


「本当に、よわっちいなあ」


 面白くてたまらない、という声で男は言った。


 なおもガンッガンッと体を檻にぶつけながら、あたいは、どうしてこんなことになったんだろう……と遠のく意識の中で考える。


 少し前まで、あたいは確かにママと兄弟たちに囲まれてぬくぬくと過ごしていた。そりゃあ野良猫だったから、時にはひもじい思いや寒い思いもした。けれど、少なくとも野良猫としてちゃんとした生活を送っていたんだ。


 それが変わったのは、あたいがこの男の仕掛けた罠に捕まったときから。


 あたいを捕まえた男は、思い出すのもおぞましい方法で、あたいの身を切り刻んでもてあそんだ。


 熱い、痛い、苦しい。

 もうそれ以外、何も考えられない……。


 怖いよ、ママ。助けて、ママ。

 ママのあったかい体はどこ? 兄弟たちも、みんなどこにいるの? 怖いよ、ここは痛くて苦しいよ……。


 やがて、あたいは力尽きた。ぐったりとして動かなくなったあたいを、大きな手が乱暴に檻から引きずり出す。


「なんだ、もう終わりか」


 そのままごみを捨てるように、あたいはぽいっと土の上に放り出された。


 どのくらい、その場に横たわっていたのだろう。かろうじて息を残していたあたいは、突然全身をかみ砕かれるような強烈な痛みを感じた。


「ニャアアアアア!」


 最初は、またさっきの男が戻ってきてあたいをいじめているのかと思った。だが無理矢理かっぴらいた目の先にいたのは――全身真っ黒の、獅子のような姿の魔物だった。


 ズグ……と魔物の太い牙が、あたいのお腹に食い込んでいる。その強烈な痛みは、眠ろうとしていたあたいの精神を強烈に揺さぶった。


――あたいは、こんなことのために生まれたの?


 ぽつりと思い浮かんだ言葉に、全身が震える。


 人間に幸せを奪われ、ボロ雑巾のように弄ばれ、捨てられ、最後は魔物にかみ殺されておしまい。


 そんなことのために、あたいは生まれてきたの?


 そんなことしか、あたいには許されなかったの?


 身を引き裂く痛みは、そのまま強烈な怒りへと変わった。ドクドクと体中をめぐるのは血ではなく憎しみ。あたいはギリッと歯ぎしりした。


――違う。あたいは、弄ばれるために生まれてきたわけじゃない……!


 あたいを家族から引きはがした人間が許せない。

 あたいを切り刻んだ人間が憎い。

 あたいを助けてくれなかった、すべての人間が大嫌い。


――絶対に、やつらを許さない。


 そう誓った瞬間、目の前が真っ赤に染まる。気づけばあたいは、目の前の魔物の首元に牙を立てていた。無駄なあがきだとはわかっている。それでもせめて、何か一矢報いたかったんだ。


 ぶしゅ、と噴き出す血は黒く冷たく、あたいの全身をしとどに濡らしていく。


 だが、不思議なことにその血を浴びると体の痛みが消えた。それどころか、幸せだった頃のように、体にどんどん活力が戻ってくる。


 かすんでほとんど見えなくなってきた視界も、霧が晴れるようにどんどん澄み渡っていく。やがて視界がくっきりと鮮明になった時、あたいは自分の異変に気付いた。


 いつもあたいの背丈よりずっと高い所にあった草木や建物が、あたいと同じ高さにあったのだ。


 どす……と踏み出した脚は変わらず黒いが、まるで丸太のように太くたくましい。手を広げてみると、見たこともないほど鋭い爪がぎらりと光った。


 これが、あたい……?


 信じられない気持ちで、あたいは近くの水たまりを覗いた。


 そこに映っていたのは、獅子の姿をした黒い魔物だった。


 は、はは……。あたい、魔物になっちゃったんだ……!? さっきの魔物に噛みついたから? それとも、血を浴びたから?


 ……どのみち、理由なんてどうでもいい。大事なのは、あたいがを手に入れたってことよ。


 水たまりに映る獅子が、しゅるると縮んで元のあたいの姿に戻る。


 まるで、最初から魔物として生まれたようだった。誰に何を教わらなくても、どうすれば変化できるのか簡単にわかる。あたいに新しく備わった数々の能力も、まばたきするよりも簡単に使えた。


 あたいは鼻を上げて、匂いを探す。


 すぐに目的の匂いは見つかった。


 あたいをずっとなぶりつづけた、忘れたくても忘れられない、あの男の腐ったような匂い。


 あたいはその醜悪な匂いを追って、一歩足を踏み出した。

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