第33話 あたしの、心残り ◆――園子

「まったく、おまえは心配しすぎなんだよ。あたしゃ確かに足は悪いけれど、それ以外はぴんしゃんしてるんだよ」


 息子の手を借りてタクシーを降りながら、あたしはぼやいた。

 息子たちの住まう町は、ひとりで住んでいた所よりずいぶんとあたたかい。冬の朝だと言うのに、吐く息が白くならないんだからね。


「そうは言ったって、母さんだってもういい年なんだ。離れて暮らすよりは一緒に住んだほうがいいって。それに、こんな親孝行な息子もそういないだろ?」


 そう言って得意げに親指を立てる息子の背中を、ばしっと叩く。


「いてっ!」

「なーーーにが親孝行な息子だ。連日説得にやってきたのは、ずっと夏美さんだったのを忘れたのかい? 聞けば、あたしとの同居を言い出したのも夏美さんだそうじゃないか。全く、バカ息子によくあんなできたが嫁さんに来てくれたもんだよ」

「バカ息子はないだろ~! これでも俺、一流企業でトップ営業としてがんばってるんだぜ?」


 あたしはもう一度バシッと背中を叩いた。隣では、出迎えに出てきた嫁の夏美さんがくすくすと笑いながら見ている。


「ばかもの。その間家を支えてくれたのは誰やと思ってるんね? あんたの服や靴下を洗ってくれたのは? 坊主たちを“わんおぺ”で育て上げたのは? 自分だけの力だと思ったら、大間違いじゃい」

「ふふっ。お義母さん、もっとこの人に言ってやってください」

「おうおう、まかしんしゃい。バカ息子の尻は、かあちゃんが拭ってやらんとな」

「おいまて。世間では嫁と姑って言うのは仲が悪いのが定石じゃなかったのか。同盟を組むなんて聞いてないぞ!」


 あたしと夏美さんはカラカラ笑った。


「そんなの時代遅れさ。ナウでヤングな最先端は、みんな仲良しなんじゃ」

「母さん、その言葉が絶妙に時代遅れだよ……」


 げんなりとする息子の向こうには、彼らが住み、そしてあたしがこれから住む一軒家が見えていた。以前住んでいたボロアパートとは比べるまでもなく、ぴかぴかの新築だ。


「お? どうだ。俺たちのマイホーム、立派なもんだろ?」

「そうさねえ……。本当に、立派なもんだよ」


 言いながら、あたしは全然別のことを思い出していた。


――以前住んでいたボロアパートにいた、小さな少女だ。


 その子は、いつもぼろぼろの服を着て、いつも体にあざを作り、そしていつもお腹を空かせていた。風呂にもなかなか入れてもらえなかったようで汚れきっていたけれど、つぶらな黒い瞳だけはずっとキラキラ光る、利発でかわいらしい子だった。


「あの子は元気にしとるんかねぇ……」


 つぶやきが、冬の寒空に吸い込まれていく。


 あの子を助けたくて、あたしは児童相談所に電話したんだ。その後何度か役所の人が来ていたんだが、その矢先に、あの家族は丸ごと姿を消した。多分、夜逃げ同然だったのだろう。


 あと一歩のところで、あの子を救えなかった。

 それはちくりと、胸に刺さったトゲのように記憶の片隅に残っている。


 ……残っていると言えば、もうひとり。

 あたしの中で、あの子ともうひとりの女の子の顔が重なった。


 あたしにはずっと昔、桜ちゃんという友達がいた。とっても優しくてとってもかわいくて、桜ちゃんはあたしの一番の友達だった。ひどい母ちゃんと父ちゃんを持ったせいでいっつも苦労していたけれど、それでも常に人を気遣える、優しい子だった。


 そんな桜ちゃんは、高校卒業を間近に控えた矢先、こつぜんと姿を消した。


 町のみんな総出で探し回ったが、靴ひとつ、持ち物ひとつ出てこない。ちょうどその頃、桜ちゃんの就職先に両親が怒鳴り込んでえらい揉めていたから、町のみんなは、その勢いで桜ちゃんを手にかけたんじゃないのかって、疑惑の眼を向けていた。


 ……でも本当は、あたし見ちゃったんだよ。


 いつも気丈な桜ちゃんが、その日、遮断機の降りた線路の中に立っているのを。


 一瞬で全てを悟ったあたしは、死ぬ気で駆け寄った。もう、電車が視界の端に映っていたからね。


 でも、あたしがどんなに走っても間に合わないこともわかっていた。

 神さま助けて! って思った次の瞬間だったよ。桜ちゃんの後ろに光り輝く白い渦が現れて、そのまま吸い込まれていったのは。

 驚きに満ちた、美しいかんばせ。それがあたしが最後に見た桜ちゃんの姿だった。


 間髪を容れずに、ゴッと通り過ぎる電車。


 あわてて風に煽られた前髪をかき分けてみれば、そこに桜ちゃんの姿はなかった。靴ひとつ、髪の毛一本、残っちゃいなかった。

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