第90話 ひとりで食べていた時よりずっとおいしい ◆――リリアン(キンセンカ)

 目の前では国王や王妃、聖女たちが笑っている。

 私は手の平に載せられた"ちぎりパン"というものをじっと見つめていた。


 ――あの日、初めてドーナツを食べてから。

 わたくしは、食べ物の"味"がわかるようになっていた。


 ドーナツはどれを食べても甘くおいしく、その上ドーナツの種類によっては違った味がするのよ。少し癖のある甘い粉は何かと侍女のアンに尋ねたら、『ああ、これはシナモンよ!』と教えてくれたし、濃厚な甘みの黒っぽいつやつやは『これはチョコレート。おいしいわよね。私も大好き』と言っていた。


 驚いたことに、そのどれもが信じられないほどにおいしくて、気付けばわたくしは任務も忘れて夢中でドーナツをほおばっていた。


 今までどんなに珍しい菓子も、どんなに高価な果物も、口に入ればすべて砂の味。

 付き合いでつまむことはあれど、自分から手を伸ばしたのは初めてだ。


 その上、王宮に来てからずっと無視していたまかないも、恐る恐る食べてみたら……これも驚くほどおいしかったのよ。

 パンも、お肉も、スープも、野菜も、全部違って、全部おいしかったの。


 未知の味とおいしさに、これは何? こっちは? と夢中で食べていたら、気付いたら他の人の分まで食べてしまって、このわたくしがぺこぺこと謝るはめになってしまったわ。


 それ以来ずっと、王妃エデリーンの警護をしていても、頭の中は食べ物のことばかり。


 ああ、聖女がいつも食べているそれは何? 一体どんな味がするの!?


 聖女たちの朝食風景を、じぃぃいいっ……と見つめていたら、後になって例のハロルドとかいう男に呼び出されてしまった。


 まったくもう……何よ。めんどくさいわね。


 わたくしは美しいから、こういう風に男に呼び出されることはよくある。だったら気だけ吸い取ってやろうかと思っていたら、男は厨房でふたりきりになるなり言ったわ。


「ほら、食え」

「……はい?」


 目の前に差し出されたのは、ふかふかの白いパンだ。……先ほど聖女がかぶりついて、わたくしがじいいっと見つめていた、あの。


「なっ……!」


 凝視していたものが突如目の前に現れて、わたくしは動揺した。


「あ、あなたの狙いは何!? まさかそんなことでわたくしの気を引こうだなんて」

「はあ? なんだそりゃ。さっき王妃サマたちは気づかなかったみたいだけど、お前死ぬほど食べたそうな顔してただろ。朝飯くいっぱぐれたのか?」

「えっ」

「今日のあまりはこれしかないけど、食べ終わったらさっさと戻れ」


 言うなり、男は興味なさそうにわたくしに背を向け、厨房を出ていく。残されたのはぽかんとするわたくしと、白いふかふかのパンだけ。


「何なのよあの男……?」


 ぽつとりと呟いた瞬間、返事をするようにわたくしのお腹がぐぅぅと鳴った。

 あわててバッとお腹を押さえ、辺りに他の人がいないか確認する。


 ……だ、大丈夫みたいね!?

 まったく、お腹がなるなんてサキュバス人生で初めてよ! 味覚のことといい、わたくしの体は一体どうなってしまったの!?


 それからちら……と皿の上に載せられたパンを見る。

 あれは聖女が先ほどまで、夢中でもぐもぐと食べていたもの。


 ……まかないで食べるパンとは少し見た目が違うけど、でもパン……よね? あの男は食べていいと言っていたし、それなら本当に食べたっていいのでしょう?


 私はそぉっと手をのばした。


 おそるおそる触ったそれは、まかないで食べるパンよりもさらにやわらかい。ちょっとでも力を籠めたら、すぐにぺしゃんこになってしまいそうなほどのやわらかさ。

 ぱく、とひと口かじると、白いパンはふわふわで、ほんのり甘かった。


「おいしい……」


 自分以外誰もいない厨房で、わたくしはぽつりとつぶやいた。


 それからも男――ハロルドは、ちょくちょくわたくしに余りものをくれた。

 何故分けてくれるのか理由がわからず、ある日わたくしは、サンドイッチにかぶりつきながら聞いてみた。


「あなた、なんでわたくしにこんなに優しくしてくれるの? わたくしに気があるの?」

「寝言は寝ていえ。お前はなんでそんなに勘違いが激しいんだ?」

「なっ!」


 バッサリ切り捨てられてわたくしは顔を赤くした。

 勘違いも何も、サキュバスであるわたくしに逆らえる男は――今のところ加護を受けた(はずの)国王以外いないのだから、別に勘違いではないと思うわ。

 実際、このハロルドという男は国王と違って、私の視線が効果があるんだもの。

 じぃっと見つめると、気付いたハロルドが一瞬ぼぅっ……とした顔になり、それからあわててわたくしから視線を外した。


「あーやめろやめろ! 俺の好みはもっと芯が通ってる凛としたタイプなのに……クソ、なんだこりゃ」


 それからガシガシと頭をかく。


「いやまあ、確かにお前は魅力的だと思うが、俺はそういうのはこりごりなんだ。お前に声をかけたのは、俺の中の『はらぺこ』探知機が作動しただけ!」

「え? はらぺこ?」


 今度はわたくしが首をかしげる番だった。


「そうだ、はらぺこだ。お前……なんでかしらんがいっつも腹を空かせているだろう? この王宮にいる以上、使用人のまかない管理も俺の仕事だ。なのにお前だけだぞ、いつも腹空かせて、物欲しそうにユーリたちのメシを見ている人間なんて」


 その言葉にわたくしはカァッと顔が赤くなった。


 そ、そんな卑しい行動を、わたくしがしていたなんて……!


「そこはっ……申し訳ないと思うわ。次から気を付けます」

「そうだな、気を付けろ。そして飯が足りないなら言え。この王宮は使用人を飢えさせるほどケチじゃないぞ」

「……」


 その言葉には、何も言えなかった。


 だって、飢えとか飢えないとかじゃないんだもの。少し味がわかるようになったところで、わたくし(サキュバス)の生命維持に食べ物は影響しない。


 ただ……目の前にある料理がどんな味なのか、気になるだけ。

 黙るわたくしに、ハロルドがまためんどくさそうにガシガシと頭をかいた。


「とにかく、王妃サマからも『リリアンは大丈夫?』って聞かれているからな。そこのところ、ちゃんと説明してやれ。ずいぶん心配していたぞ」


 王妃にまで気づかれていたなんて。私は顔を赤くした。



 ――回想を終えたわたくしの目の前では、王妃エデリーンが国王ユーリの作ったおどろおどろしいパンと自分のパンを交換して、何やらくすくす笑っている。

 そんな彼女が先ほど言っていた言葉を、わたくしは静かに思い出していた。


『みんな同じ材料だから味も同じはずなのに、交換して食べると、なんだかもっとおいしく感じるわね?』


 それから手の中にある、ふたつのくまさんを見る。片方は聖女からもらったもので、片方は王妃からもらったもの。


 ゆっくりと、食べてみた。


 白パンに負けずおとらず、ふわふわのちぎりパン。聖女のものも、王妃のものも、わたくしが作ったものも、多少の違いはあれど、ほとんど同じ味だ。


 だというのに、なんでかしら……。


「おねえちゃん、おいしい?」


 ぴょこんと現れたのは、聖女アイ。いつの間にか近くにやってきたらしい。


「うん。ひとりで食べていた時より、ずっとおいしいわ……」


 気づけば、素直な言葉が口からこぼれ出ていた。


「おいおいおい。お前、なんか最初来た頃とキャラ全然ちがくねえか?」


 茶化すような声は、ハロルドだ。


「おじちゃん。"きゃら"ってなに?」

「そうだなあ、違う人みたいってことかなぁ」

「ちがうひと」


 その言葉に聖女が考え込む。それからパッと顔を上げた。


「でもアイ、いまのりりあんおねえちゃんもすきだよ!」

「おうおう。姫さんはピュアッピュアだなあ」


 言いながらハロルドが、ガシガシと聖女の頭を撫でる。それからわたくしを見た。


「どうだ、おいしいだろう。俺の考えたらぶりぃ☆くまさんちぎりパンは」

「ひどい名前だけどおいしいと思うわ」

「おまっ……! なんでだよ! 可愛い名前だろうが!」


 そこに、くすくすという笑い声が響いてくる。見ると、目尻に涙をためるほど笑っている王妃だった。


「リリアンったら、いつの間にハロルドと仲良くなったの? よかったわ。突っ込み役が私しかいなかったから時々流していたけれど、リリアンがいてくれるなら心強いわね」

「別に仲良くなったわけでは……」

「ねえリリアン、もしあなたがよければだけど、またこうして時々みんなでお料理しましょうね。私も王妃として料理するなら、中途半端にかじるのではなく、皆に振舞っても恥ずかしくないくらいの腕前をつけようと思っているのよ」


 そう言った王妃の顔は晴れ晴れとしていた。

 彼女は今料理を覚え、そして王宮に広めようとしているのだ。

 正直なんでそんな無駄なことを、と思うのだけれど、聖女に加えて、ハロルドもどうやらかかわりがあるらしい。


『料理を、誇れるものにしたいのよ。それが新しい時代ってものでしょう?』


 ふぅん。変なの。人間の考えることは、よくわからないわ。

 でも……みんなで料理をするのは楽しかったから、もう一回くらいなら、してもいいかもしれないわ……。


 作ったちぎりパンを見つめながら、わたくしはじっと考えていた。

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