メリーゴーラウンド・ジェイルハウス
3話「サナトリウムの幸福4」(https://kakuyomu.jp/works/16816927859242100080/episodes/16816927861063620256)の韮沢瀬名さん視点です。
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窓の外からは、新しい朝日が降り注いでいた。
空には晴れ渡った清澄な色が広がっていて、東の空の縁は朱鷺色を残し、雲まで染め上げている。
まるで、この時を祝福してくれているようだ。
ずっとこんな綺麗な色だったらいいのに、と思った。
空の色が移り変わらずに、いつまでも美しい朝焼けを湛えていれば、どれほど幸福だろう。
今日もわたしは先輩のためにごはんを作る。
毎日三食先輩のために食事を用意するのは、わたしの仕事だった。
特に、彼をどこにも行けないようにしてからは、一層腕によりをかけて作っている。だって、先輩はもうほかの人が作った料理なんて食べられないから。
先輩の好きな料理を作る。味付けも、全部彼の好みに合わせる。
一日五十品目用意して、栄養バランスも考えて。全部、先輩に喜んでもらうために。
毎日すごく時間がかかるけど、先輩のためだったらこれくらい労力の内にも入らない。
先輩のためにできることは全部やりたいし、やらないといけない。
朝早くから準備をしていたから、料理が完成する頃にはすっかり朝焼けは見る影もなく、一面の晴天があるばかりだ。
皿をトレイの上に並べて、先輩の部屋に向かう。
扉の何重もの鍵を外していく。
大切なもの、かけがえがないものは、厳重に守っておかねばならない。
大事に仕舞い込んで、誰にも奪われないように――どこにも行けないように、しないと。
解錠を終えて、部屋の中に入る。
やっぱり、わたしの大好きな人はそこにいた。
その顔を見た瞬間に、自分の中にあたたかさが広がる。
「先輩、おはようございます。今日も、とってもいい天気ですよ」
「あ、ああ……おはよう」
そういえば、この部屋からは空が見えない。窓なんてないから。
でも、まぁいいか。
先輩がわたし以外を見る必要なんてないのだし、邪魔なだけだ。
ちゃぶ台の上に料理を並べる。
熱を帯びた作りたての料理。冷める前に、早く先輩に食べてほしい。
……なんだか、先輩のお嫁さんになったみたいだ。
毎日先輩のために家事をして、身の回りのことを全部やっているのは、わたしだ。なんて幸せなのだろう。
先輩を独り占めして、先輩と添い遂げて。
お嫁さんになるってこんな気分なんだ。
わたしは、胸の中に広がる感情を噛みしめる。
先輩を閉じ込めてよかった。そうしなければ、今頃先輩はわたしを置いて行ってしまっただろう。
こんな幸せも存在し得なかった。
先輩とずっとずっと一緒にいるために、もっと頑張らないと。
わたしは料理を一口掬って、先輩の口元に運ぶ。
だけど。
先輩は食べてくれなかった。
口を開いてくれなかった。
え?
彼の空色の瞳はわたしに向けられていなかった。
どこか違うところを見ていて、意識も彼方にあった。
わたしが向けているスプーンに気づかれていなかった。
どうして?
がたがたと、床が、世界が揺れていた。
全てが崩れ去る予兆だった。
今先輩の目の前にいるのはわたしなのに。
ほかに誰もいないのに。
先輩の好きな料理ばかりを作ったのに。
先輩の好きな味を分析して、先輩の好きな味付けにしたのに。
毎日五十品目用意してるのに。
毎日、日が昇る前から起きて、何時間もかけて、心を込めて作っているのに。
わたしはこんなに先輩のことが大好きなのに。
たくさん頑張ったのに。
先輩に見てもらうためなら、なんでもしたのに。
先輩を縛り付けて、どこにも行けないようにして、二度と他の人を見ることも、他の人と話すことも、できないようにしたのに。
それでも、先輩はわたしを見てくれない。
「許せない許せない許せない……」
理由は明白だった。
全部知っている。
先輩がわたしといても何も楽しくないことも、わたしと話しても何も面白くないのも、何もメリットがないことも。
先輩が、わたしのことなんて何とも思っていないのも知っている。ましてや、わたしのことなんて好きなはずがないことも。
彼にとっては、他の人間と何ら変わりがなくて、少しも特別じゃないってことも。
わたしは、先輩がこの世で一番大好きで、先輩がいないと生きていけないのに、彼はその一パーセントほどの感情も返してくれない。
どこまでいっても一方的だ。
だけど、それは当然だった。
わたしが何の価値もない出来損ないだから。
先輩がわたしを選ぶ理由も、特別に思う理由も、どこにもないから。
どうしよう。
わたしに取り柄なんてないのに、先輩の役に立てる数少ないことがごはんを作ることなのに、それですら見てもらえなくなったら、どうすればいいんだろう。
ほかの誰も見られないようにしたのに、それでもわたしのことを見てもらえないのなら、どうすればいいんだろう。
結局何をやったところで、先輩には見てもらえないんだ。
このままだと先輩に見捨てられてしまう。
取り返しがつかなくなってしまう。
そうだ――邪魔な人間がいるからいけないんだ。
邪魔な人間がいるから先輩はほかのことに夢中になるし、わたしを視界に入れてくれない。
早く消さないと。
手遅れになってしまう前に。
絶対に誰にも渡さない。誰にも邪魔させない。
わたしは部屋を出た。
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邪魔な人間は、消えてなくなった。
わたしの目の前で、黒く染まって灰になった。
わたしは、見事目的を達成した。
消したのは、先輩の両親だった。
家は知っているし、顔だってとっくの前から知っている。調べたから。
ふたりで連れ添っていたから、一度に消すことができた。
これで先輩に見てもらえる。
先輩とずっとずっと永遠に一緒にいられる。
問題は全部なくなった。
先輩はわたしのことだけを見てくれるし、わたしのことだけを考えてくれるし、わたしを見捨てたりしない。
ほっとして、幸せな気持ちが溢れてくる。
「あは……」
先輩に必要としてもらえる。先輩に喜んでもらえる。
よかった。
これで何も心配しなくていいんだ。
どうすれば先輩と一緒にいられるか分からなかった頃のわたしとは、もう違う。
何もできなかった頃のわたしとは、違う。
もっと邪魔な人間を消したい。そうすれば、もっと幸せな気持ちになれる。
「先輩……先輩……」
わたしは、家路に着く。
先輩に出会えてよかった。
こんなに大好きで大切な人、他にはいないから。
先輩に会ってから幸せなことばかりだし、先輩がいない世界なんて想像すらしたくない。
わたしは先輩に出会うために生まれてきたんだ。
早く家に帰って先輩に会いたい。
先輩の顔が見たい。先輩の声が聞きたい。先輩にわたしの全部を委ねたい。
そうだ、先輩のためにケーキを焼こう。
以前、先輩の誕生日のときにケーキを作ったら、すごく喜んでくれた。
あのときの笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。
また先輩に喜んでもらいたい。
先輩の笑った顔が見たい。
ケーキを作ったら、きっと、それが叶う。
「先輩……先輩……先輩……」
自分の中に浮かんだ名案に、ふわふわと心が舞い上がる。
もっと先輩に必要としてもらいたい。もっと先輩に認めてもらいたい。
早く、一刻も早く。
先輩に食べてもらうケーキを思い描く。
なめらかなクリームをコーティングした、真っ白なケーキが相応しい。甘くて、スポンジはふわふわで、いちごの赤色や酸味がアクセントになるような。
わたしはスーパーで材料を買い込むと、足早に家に帰る。
すぐにでも先輩の顔を見たいところだったけど、それよりも早くケーキを作らないと。
先輩がいる部屋には寄らず、真っ直ぐキッチンに向かう。
監視カメラのモニターに映った先輩の姿を見ると、胸が高鳴る。
先輩はわたしと一緒にいてくれる。どこにも行ったりしない。当たり前だ。どこにも行けるはずがないんだから。
「先輩、わたし、先輩のためにもっと頑張りますね」
モニター越しの先輩に声をかけて、調理を始めた。
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ホイップクリームを味見すると、甘い味が広がる。
とろけるような、幸福の味。
胸の奥まで満たされる。
もっと食べたいけど、我慢しないと。
お菓子は特別な日にしか食べてはいけないし、先輩のために作っているんだから、全部先輩に食べてもらいたい。
砂糖をまぶして、わたしの気持ちをたくさん込める。
先輩に喜んでもらえると、わたしは生きていていいんだって思える。見放されたりせずに済むって安心できる。
先輩に必要とされているんだって実感できる。
先輩に喜んでもらうのは、先輩と一緒にいるための対価だ。
こんな無価値なわたしとでも一緒にいてもらうには、対価が必要だ。先輩はわたしと一緒にいても楽しくないし、何のメリットもないけど、わたしはもう先輩がいない世界なんて考えられないから。
何かを買うには、その値段に見合った分のお金が必要なように、ずっと先輩を繋ぎとめておくためには、それに値するだけのものを差し出さないといけない。わたしが浪費してしまう、先輩の労力や時間に釣り合って余りあるだけの、ものを。
それなのに何も対価を払わずにいたら、すぐに見捨てられてしまうことは目に見えていた。そもそも、わたしなんかに時間を費やしてもらうお礼を何もしないなんて、そんな恥知らずな真似はできなかった。
わたしなんかとずっと一緒にいてもらうためには、たくさんの、たくさんの対価が必要で、それをずっとずっと払い続けなければいけない。
でもわたしが差し出せるものはひどく限られていて、その中から必死に先輩に喜んでもらえることを探す必要がある。
そうやって頑張ったところで、そもそも受け取ってもらえないと意味がない。
だから、受け取ってもらえること自体が、すごくありがたいことだ。
出来損ないのわたしなんて、最初から歯牙にも掛けず見捨てるのが、ベストな選択だから。
それなのに、わざわざわたしに時間を割いてもらえて、可能性を与えてもらえるなんて、とても幸せなことだ。
わたしは、わたしにできることはなんでもしないと。
わたしが持っている全てのものも、時間も、先輩のために費やさないと。
それでも、まだ全然足りないから。
……子どもの頃は先輩のお嫁さんになりたかったけど、わたしにはおこがましい夢だった。
わたしは先輩と一緒にいられれば幸せだし、それで充分すぎるくらいなんだから。
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時間がかかったけど、ようやくケーキは完成した。
早速切り分けて、先輩のところに持っていく。
「えへへ、先輩のためにケーキを焼いたんです。いっぱい食べてくださいね」
フォークで一口分を取ると、先輩の口元に運んでいく。
甘やかで濃密な西洋菓子を、彼の口内に入れる。
瑞々しくて甘酸っぱい果実も。
たっぷりのクリームをコーティングした、ふわふわのスポンジが彼の舌先に乗って、嚥下されていく。
熱に触れたホイップクリームが溶け出していく。きめ細やかなスポンジ生地が、口に含まれる。
彼の喉が鳴る。飲み下される。
わたしは、すぐに次の一口を食べさせる。
何回も何回も、繰り返し。
たくさん味わって食べてほしい。忘れられなくなるくらい。彼の血肉になるくらい。
ホールケーキ一個分に込めた、収まりきらないほどのわたしの気持ちを。
先輩は全部食べてくれた。
よかった。
安堵感で心が満たされる。
先輩はわたしを受け入れてくれる。可能性を与えてくれる。
世界で一番特別で――大切な人。
ふと部屋の中を見回すと、そこには惨状が広がっていた。
割れた皿の破片。床にぶち撒けられた料理の残骸。あまりにも無残な光景。
「あれ?」
なんだろう、これは。どうしてこんなことに?
これは――わたしが、先輩のために作った料理?
それが、全部床に投げ捨てられている?
状況が理解できなかった。
誰が、一体何のために?
先輩は身動きできないし、まさか第三者がやったはずもない。誰もここに入れないことは、わたしが一番把握している。
ふつうに考えれば、わたしがやったと考えるほかない。
「わたし、どうしてこんなことをしたんでしょう? お皿の破片で先輩が怪我でもしたら大変なのに……」
先輩と永遠に一緒にいられて、すごく満ち足りているのに。
こんなことしたって何にもならないし、こんな空間で過ごしていたなんて、先輩はさぞ居心地が悪かったことだろう。
「先輩、お怪我はありませんか?」
「い、いや……ないよ」
わたしは、急いで部屋の中を掃除した。ゴミを捨てて、床を拭いて。これで、綺麗になった。
何も問題はない。
次は先輩のためにどんなことをしよう。
どうすれば先輩にもっと喜んでもらえるんだろう。
そうだ――と、またいい考えが頭に浮かぶ。
かねてより、気がかりなことがあった。
先輩と永遠に一緒にいるために必要なものはいくつかあって、その中のひとつが生活費だった。
先輩に、質がいい食材を口にしてもらうのも、快適な日々を過ごすのも、先立つものがなくてはならない。
わたしもいくらか貯蓄はあるけど、永遠に見合う量ではないことは明らかだった。
まさか先輩に質素な暮らしや我慢を強いるわけにもいかない。
もっと先輩に喜んでもらうためにも、蓄えはあればあるほどいい。
だけど、収入を得るために時間を割いたら、先輩と一緒にいる時間が大きく損なわれてしまう。
でも、簡単に解決できる方法があった。
わたしの両親から、相続を得る方法。
それが一番効率的で、手っ取り早い。
先輩と永遠に一緒にいるために、わたしの両親を消さないと。
相続に邪魔になりそうな者も、全部。
もっと早く気がつけばよかった。行方不明者が失踪宣告されるまで、七年もかかるのだから。早く行方不明になってもらわないと。
先輩の両親や、わたしの両親といった、身近な人間ばかり消していると疑われそうだから、カモフラージュに他の人もいっぱい消そう。
これでもっと先輩に喜んでもらえる。先輩とずっとずっと一緒にいられる。
先輩のために、さらに頑張らないと。
胸に広がる幸福を感じながら、わたしは準備を始めた。
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