18 束の間のトランキライザー
俺は、また第二民俗学研究室にやってきていた。
葦原教授以外の人間はいない。事前にアポを取っていたから、当然だ。
「ええと、私の時間操作の腕が知りたい……という話だったかな」
コーヒーを一口含んでから、教授は声を発する。
「ええ、そうです」
今の民俗学研究会のメンバーと関わるようになって、およそ一年が経つ。
各人の性格や人柄、そしてラネットや時間操作の能力も、ある程度把握できている。
一番時間操作の能力が高いのは、空間停止の使い手の笠沙さんだった。
また上木さんのラネットキャンセラーの技術も特筆すべきだ。
だが、葦原教授の能力だけは不明だった。研究会員たちも、最初から教授を頭数に含めずに話を進めてきたから、余計にわからない。
「……実を言えば、時間操作において研究会内で一番熟練している者は、私でしょう。学生たちを指導する側ですからね。笠沙くんくらいの空間停止ならばできますし、時間操作も――ある程度は」
やはり、想像通りだった。
教授がラネットについてからっきしというのは、考えにくい。
「ですが、私にはおいそれと行使できない理由があります」
「行使できない理由……ですか?」
「時間操作は人の意志によって実現できる。では、強い意志は何によって実現できるでしょう?」
教授からの質問は、妙に身が引き締まる。下手な答えはできないという気分にさせられる。
「そうですね……当人にとっての高い深刻度とか、ですか?」
「ええ、それも正解です。とはいえ、もっと直接的な手段があります。命を削ることですよ」
「命を……?」
「無論、時間操作するには絶対に必要というわけではありません。特に、神庭家の者などは全く代償を支払わずに行なっている。ですが、
研究室の中に、浅煎りのブルーマウンテンの香りが漂っている。ミルクや砂糖は用意されていなかった。コーヒー本来の香りや味を楽しめ、ということだろう。
「私の場合も、そうです。長年の研究の結果、命を削って時間操作する方法を身につけました。逆に言えば、対価がなければ使えないのです。学生たちも、それを知っているから、私に時間操作を求めません」
命を削る。
それが葦原教授の時間操作なのか。
「時間を動かす力なんてものは、世界を救おうと意気込む希望に溢れた人間よりも、対極に位置する人間の方に備わりやすいのです。才能がある、と言うべきかな」
とはいえ、それで命を削るなんてのは、割に合わないにも程がある話だった。
「君は――私に時間操作を行うことを求めて、今回やってきたのでしょう?」
「……ええ。ですが、今の話を伺うとさすがに――」
「それで、神庭みたきを止められますか?」
「…………」
コーヒーの酸味と苦味が、口内に広がる。
ブルーマウンテンは飲みやすく、味のバランスがいい豆だと言われている。特に浅煎りだと、すっきりとした風味が際立つ。
だが、今日はやけに苦い味だった。
「一万人、いやそれ以上の人間の命が懸かっているのです。手段を選んでいる場合ではありませんよ」
だからといって、葦原教授を犠牲にするわけにはいかなかった。
特に今回の規模だと、対抗するにもかなりの時間操作を行う必要があるだろう。それでは、彼の命全てを燃やし尽くしてもおかしくない。
「私も歳を取りました。若い人たちほど身体は動かず、目だって霞む。残り少ない人生を使うのは、惜しくありません」
年配よりも、若者の方が命の価値は重いのだろうか。
一人の命より、一万人の命の方が大事だと、簡単に片付けていいものだろうか。
そうやって人間の生命に値打ちをつける資格は、一体誰が持っているのだろう。
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなのに。
「葦原教授は、以前仰いましたよね。決して、こちら側からの犠牲は出さないように、と」
「ですが、それで多くの犠牲が防げるのなら――」
「葦原教授という犠牲を出してしまったら、約束を守れません。だから、俺は方法を探します。あなたに時間操作をさせない方法を」
俺は、真正面から葦原教授の目を見た。
確かに、若い頃と比べ視力は衰えているかもしれない。
だが彼の瞳は、しっかりと前を見据えていた。血も涙もない怪物に抗する意志の力が宿っていた。
「君は……一貫してますね。誰の生命も等しく扱う。人殺しすらも、同じように」
――あなたにとって、全ての人間は同じ意味しか持たないってこと。
いつか幼馴染に言われた言葉が、頭をよぎった。だが、全ての人間が同じだなんて、もちろんそんなはずはなかった。
▶ ▶
夏休みに入った。
それは、みたきの計画の実行日が近づいていることを意味する。諸々の準備も、いよいよ佳境を迎えていた。
以前した瀬名を俺の家に招くという約束が、今日だった。なかなか都合がつかず、ここまでもつれこんでしまった。
こんなことをしている暇はあるのか――と思わなくもないが、息抜きも必要だった。
それに、瀬名の方をおろそかにするわけにもいかない。世界のためにも。
午後の陽光が、人工的に二十七度に冷やされた室内に差し込んでいる。
生まれたときから暮らしている家に、珍しく小さな後輩の姿があった。
「ソファ座って」
「は、はい」
一階にあるリビング。そこのソファに瀬名は美しい所作で座る。だが、落ち着かなさが滲んでいた。
こうした庶民的な住居にいるのが似合わない少女だ、と思った。
前の世界では、狭いアパートに住まわせてた俺が言うことではないが。
今日は親が出払っているので都合が良かった。いや、別にやましい気持ちがあるわけではないが、単純にひやかされるのが嫌だったのである。
瀬名を家に招いてるところを見られたら、きっと母さんは恋人だと囃し立てるだろう。そんなの、瀬名を困らせてしまう。
「瀬名、そんなに肩肘張ることないよ」
「その……親しい人の家を訪ねるのは初めてで、こんなときどうすればいいのか……」
「やることはいつもと変わらないだろ?」
「そ、そうですね……」
紅茶と、用意していたお茶菓子を出す。瀬名が持ってきてくれた手土産のお菓子も添えて。
「……とってもいい香りです」
彼女は紅茶のカップを口元に持っていく。そして、少し傾けた。
「このチョコフレーバーティー、おいしいですね」
かすかに笑みを浮かべる瀬名。少しは緊張がほぐれるといいんだが。
「ああ、これ母さんが好きなんだ」
「先輩の、お母さん……」
眼の前の少女は、手中の褐色の液体をじっと見つめる。その水面には、きっと大きくて丸い瞳が映っていることだろう。
「ん? どうしたんだ?」
「ふふ、どんな人なのか少し気になって」
「ちょっと変わってるけど、悪い人じゃないよ。絵本作家をやってるんだ」
「ああ、そういえば昔そんなことを聞いた覚えがあります」
言ったことあっただろうか。記憶が定かではないが。
「前に図書館で、先輩のお母さんの作品を見たことがあります。代表作も」
テレビの下の棚にカラフルな背表紙が収められている。どれも母さんが作った絵本だ。俺はそこから、一冊の本を取り出す。
『ドーナツしっぽのいぬ』。母さんの代表作といえば、この作品だ。
ほかの動物とは違う「ドーナツしっぽ」を持った犬が、だんだん受け入れられていくまでを描いた物語。
「あ、その絵本です。すごく感動的な話でした」
「……これ、俺が小さい頃入院してたときに作ったものらしいんだ」
「入院……ですか?」
「ああ、生まれつき心臓が悪くて、小さいときに手術したんだ。今はもう健康そのものだよ」
「心臓って、生死に関わる……」
「そうだな、一時は本当に死ぬかと思ったよ」
あまりしたくない話だったのに、なぜしゃべってしまったのだろう。もう過ぎたことだし、何の意味もないのに。
きっと、前の瀬名には話の流れで教えたからだ。
「先輩が無事で、本当によかったです」
安堵したように、彼女は息をつく。
「先輩のいない世界なんて、もう考えられませんから」
俺に出会って、瀬名は弱くなったように思うが。
いや、張り詰めていた糸を緩めただけか。
俺が当時病気で――あるいは自分の手で死んでいたら、どうなっていただろう。
あのとき死んでいた方が良かったとは思わない。
まぁ、前の世界で瀬名に殺された人々にとっては、俺などいない方がよかっただろうが。
何はともあれ、『ドーナツしっぽのいぬ』は、入院中の息子を勇気づけるために作られたものだという。
ほかの人にあるものが欠けていても生きていけると、伝えるために。
「お母さんに、大切に思われているんですね」
瀬名はそっと微笑む。
そこには嫉妬も悲しみも浮かんでいなかった。美術館に展示された素晴らしい絵画を見ているときと、同じ表情だった。
▶ ▶
その後も、絵本をめくったり雑談していたら、あっという間に時間が過ぎていった。
「そ、その、先輩の家に遊びに来られて、良かった、です」
「あはは、ふつうの家だけど、楽しんでくれたならうれしいよ」
いつものように彼女の家まで送ろうと、一緒に玄関に向かう。
だが俺がドアを開ける前に、玄関の鍵ががちゃりと解錠された。
解錠? 外に誰かがいる?
一瞬訝しんでいると、扉が開く。その向こうにいたのは、俺の母親だった。
「か、母さん、今日は帰ってこないんじゃなかったのか!?」
今日は仕事の都合で泊まりだと言っていたのに。
「何よ、孝太郎のために戻ってきたんでしょ? さすがに両親ふたりともいないんじゃ寂しいと思って」
「俺を一体いくつだと思ってるんだよ……」
母さんは頭がファンタジーな人で、行動が読めないところがあった。ときどきこうして困らされる。
行動が突飛な絵本作家は、目敏く俺の背に隠れていた瀬名を見つける。
「へーえ」
それから、にたりと嫌な笑みを浮かべた。
「親がいない日に、家に女の子を連れ込むなんて……はーん、なるほどね」
「ち、違うよ! 今帰ろうとしてたところだし……」
まずい、面倒なことになった。
母さんはわりと人の話を聞かないタイプなのだ。
瀬名は真っ赤になってうつむいている。
さすがにこの状況じゃ、よそいき用の冷たい表情ができないらしい。
「とってもかわいい子じゃない。孝太郎とは不釣り合いなくらいだわ」
「か、母さん、冷やかすのはやめてくれ。この子はそういうのに慣れてないんだ」
今この場で母さんの誤解を解くのは相当骨が折れそうだった。その間、ずっと瀬名を立ち会わせるのも忍びない。
「と、とにかく、俺、家まで送っていくから。ほら、行こう」
瀬名は俺についてくるが、真っ赤になったままだった。
▶ ▶
夕方の住宅街を、後輩の家に向かって歩く。
「ごめんな、瀬名。居心地悪い思いさせちゃったよな」
「い、いえ、その……」
ただでさえ細い瀬名の声が、余計に小さくなっている。
「ご、ごめんなさい、その、きっと先輩のお母さんに勘違いされましたよね……。わ、わたしなんかが、その、先輩の……いっ、いえ、えっと、あの……」
自分で言っていて恥ずかしくなったのか、横を歩く女の子は更に縮こまる。顔はずっと真っ赤だし、このままじゃオーバーヒートしてしまいそうだ。
「大丈夫だよ、あとで俺がなんとかしておくから。それに、瀬名が謝る必要なんて全くないよ。俺はそう思われても全然嫌じゃないし」
瀬名は急に立ち止まった。
「瀬名?」
彼女は、こちらを見上げる。
耳まで朱色に染まった顔と、少し潤んだ瞳。
何か言いたげに口を小さくあわあわと動かすが、やがて諦めたようにまた目を伏せた。
「うう……もう、先輩ったら……」
ここまで言わないと、帰った後の瀬名が落ち込んでいる様子しか想像できなかったのだ。
俺の母さんについて延々と悩み続けるより、ほかのことである程度上書きした方が気が楽になるだろう。
そうこうしている内に、瀬名の家の前に着く。
これ以上歩き続けても仕方ないので、立ち止まって向かい合う。
「せ、先輩、その……」
相変わらず目をこっちに合わせてくれない。小動物みたいだ。
元々照れ屋なところはあるが、普段はここまでではない。俺の母さんに恋人だと思われるという状況が、ピンポイントでダメージを与えたのだ。
俺とふたりきりの出来事だったら、ここまで長く照れてはいないだろう。
家の門を開きながら、瀬名はささやきのような声量で話す。
「わ、わたしも、その、そう思われても、嫌じゃ、ないです……」
俺の母さんに。そういう仲だと思われても。
「ま、また明日、です……」
彼女は小さく手を振ると、逃げるように去ってしまった。
▶ ▶
「さっきの子、すっごくかわいいじゃない! あんなに綺麗な女の子初めて見たわ」
家に帰ると、母さんが喜色満面で話しかけてくる。
「孝太郎、あそこまでかわいい子、絶対逃がさないようにするのよ」
逃がさないというか、俺が逃げられないというか……まぁいいや。
「部活の後輩だけど、母さんが思ってるような間柄じゃないから。母さんがからかうから、見ていて心配になるほどずっと真っ赤だったんだぞ」
「りんごみたいで、すっごくかわいかったじゃない! あたし、ああいう娘が欲しいわ〜一緒に買い物に行ったら、絶対楽しいもの」
既に夢想の世界に入っている。一切人の話を聞く気がなかった。
誤解を解くには、だいぶ時間を掛ける必要がありそうだ。
一周目瀬名は、俺の両親を殺したらしい。この世界では仲良くしてくれるといいんだが。
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