9 核心
「『忽に三途のやみにむかはむ時』――これは、『方丈記』の一節だ」
「え、『方丈記』?」
俺の言葉に、朝霧は反応する。
「それって確か――鎌倉時代辺りの随筆よね?」
「ああ」
「タイトルは知ってるけど、さすがに内容までは分からないわね。そう、『方丈記』だったの」
「『行く川のながれは絶えずして』みたいな有名な文じゃないしな」
「……いや」
横で聞いていた尾上が、腕を組む。
「一瞬見た文を『方丈記』だとすぐに断定できるなんて、それこそ古文オタクでもないと無理だろう」
「あはは……」
褒められているかどうかは微妙だった。
「事件現場に『方丈記』の一節が残されていた理由――それは、ある種シンプルだ。この事件自体に、『方丈記』が密接に関わっているんだ」
「……どういうことだ?」
俺は、携帯電話の画面に『方丈記』の原文を表示させる。今は、インターネット上でいくらでも参照できる。
いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。
「これは、『方丈記』の安元の大火についての記述だ」
俺は、携帯電話の横に、行方不明者のリストを置く。
「見比べてみて、何かに気づかないか?」
「え? 何かって言われても……」
朝霧は、戸惑い混じりに目を落とす。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12 アビゲイル・リンド 女 19歳
13
14
15
「あれ、なんか使ってる漢字が似てるような……」
「そうなんだ。たとえば、風見淳太は『風烈しく』、望月志づ香は『しづかならざりし夜』、巽誠二は『都のたつみより』といったように、被害者の名前と『方丈記』の記述が関連している。しかも、順番も大体一致している」
行方不明になった厳密な順番を割り出すのは難しい。消えた順番と、行方不明だと判断された順番が一致するとは限らないのだから。
それでもここまで順番が一致しているというのは、揺るぎない事実だった。
ひとつふたつ被っているという程度ではない符合が、そこにはあった。
「これは単なる偶然なんかじゃない。意図的なものだ。『方丈記』の安元の大火についての記述になぞらえて人が消されている――いわば見立て殺人なんだ」
見立て殺人。童謡の歌詞や何らかの筋書きに沿って、殺人を犯していく手法。ここでは、『方丈記』が用いられている。
「……お前、『方丈記』の全文を暗記しているのか?」
「暗記ってほどじゃないよ。大体を覚えてるくらいだ」
比較的短い作品だし。
「行方不明事件が始まったのは五月頃。行方不明になったと周囲が判断するまでにいささかの時間が必要であることを考えると、ここに書かれた四月二十八日という日付にも符合する」
四月二十八日。安元の大火が起きた日だ。ここまでわざわざ被せてあるのは、作為的なものとしか言いようがない。
「でもこの四月二十八日は宣明暦で、現在の暦に直すと安元の大火は六月三日なんだ。犯人はあまり古文に詳しくないと見える」
「だったらなんでわざわざ『方丈記』に見立ててるのよ?」
「……それは、わからない」
犯人がなぜ『方丈記』を用いたのか? そんなのは、犯人に訊いてみないと如何ともし難いだろう。
「お前の論には無理があるな」
黙って聞いていた尾上が、口を開く。
「『風烈しく』になぞらえて風見淳太を消すなんて、一文字しか合ってないだろう。いくらなんでもつじつま合わせが強引すぎる。見立て殺人としてはおざなり極まりない。それに、アビゲイル・リンドはどうやって説明するつもりなんだ?」
「そ、それは……」
「実際に犯人がこれに則って人間を消して回っているとしたら、相当頭がイカれているな。こんな見立て殺人とも呼べないようなこじつけで、殺す相手を決めているというのだから」
確かに、無理がある点も存在する。
いい考えだと思ったんだが……ダメか。
「でも、すごくいい着眼点だわ。わざわざ『方丈記』の文を残してるんだから、必ずそこには何か理由がある。それこそが、犯人につながる糸口かもしれないわ」
朝霧の優しい言葉が響く。
最後の被害者は樋口ほたる――「火本は樋口富の」から取られているのだろう。
ならば、続く文章は「小路とかや、病人を宿せるかりやより」だ。
この法則性から見るに――
「恐らく次の行方不明者の名前は『小路』か『かりや』。表記は違うかもしれないが、音は合ってると思う」
▶ ▶
結局考えが行き詰まったため、今日の話し合いは切り上げた。
「いいところまで行ってる気がするんだけどなぁ……」
とはいえ、何かが足りない感覚があるのも事実だ。
「先輩、おかえりなさい」
「ただいま」
家に帰って瀬名の笑顔を見ると、絡まっている思考がほぐれていくようだった。
俺はリュックを下ろし、首から下げていた竹紐を外す。
これは、以前お守りとしてもらったものだ。ムーンストーンのような白く濁った石に紐が通されていて、ネックレスのようで気恥ずかしい。だが、肌身離さず着けるよう言われたので、いつも服の内側に入れて着けている。
今日の夕食はカンパチの塩焼きだった。
「市場に行ったらカンパチが特売だったので、買ってきたんです」
「え、わざわざ卸売市場まで行ってきたのか? 結構遠いだろ?」
「バスがありますから」
そうは言うものの、結構な労力だろう。
焼き魚は、骨が小骨まで全て取り除かれていた。恐らくとげ抜きで丁寧に取ったのだ。
旬のカンパチは、さっぱりとした味だが脂が乗っていておいしい。素材がいいのもそうだが、調理が完璧だからより引き立つ。
「瀬名の焼き魚は最高だなぁ」
「そんな……ただ魚を焼いただけです」
「焼き加減も塩加減も絶妙じゃないか。丁寧に小骨も抜いてあるし」
「……もう、先輩ったら」
目の前の少女は、照れたようにうつむく。肌が白いから、赤くなるとすぐにわかる。少し褒めただけでこんな反応をされると、褒め殺したくなる。
「瀬名、味噌汁の出汁は何を使ってるんだ?」
「え? えっと、かつお節と……魚の骨、です」
魚の骨。つまりはあら汁仕立てということだろう。焼き魚を作るときに余った部分を再活用したのだ。カンパチのあら汁なんて料亭みたいだ。
「下処理、大変だったんじゃないか? きちんと臭みを取らないと、こんなにおいしい出汁にはならないだろ?」
「い、いえ、塩を振って寝かせた後、霜降りにするだけです。別段凝ったことは……」
生真面目に謙遜してくるから面白い。他にも魚のぬめりを取ったり、色々と手間がかかっただろうに。
「瀬名って料理上手だな。いつも味噌汁ひとつにも趣向を凝らしてて、毎日飲んでも飽きないよ」
「せ、先輩……」
彼女は二の句が継げないようだ。文字通り頭から湯気が出ている。
「か、からかわないでください」
「思ったことを言っただけだよ」
「もう……」
そろそろ満足したし、からかうのはこれくらいにしておくか。
そのとき、付けていたテレビからニュースの声が聞こえてきた。
「新たな行方不明者は、雁屋新太さんで――」
雁屋?
思わず、テレビに視線が向く。
連続失踪事件の続報だろう。そして、新たな被害者は雁屋新太という人物。
――恐らく次の行方不明者の名前は『小路』か『かりや』。
それは、まさしく自分が発した言葉だった。
やはり間違っていなかった。連続失踪事件は、『方丈記』の見立て殺人なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます