15 崩壊
年度が変わり、先輩は高校二年生に、わたしは中学三年生になった。
春日藤織は同好会をやめるかと思っていたが、そうではなかった。むしろ、なんと久我原と付き合い始めたという。行動原理がひとつもわからない。これも「沽券を保つため」なのだろうか。
象潟は同好会に顔を出さなくなった。サッカー部が忙しいとのことだったが、真意は推して知るべしだろう。
藤織となずなは一切言葉を交わさない。それでも、先輩の仲裁でどうにか同好会は成り立っていた。
同好会に新規入会者はいなかった。陰でわたしが妨害工作を行っていたからというのもあるが、会長たる先輩があまり勧誘活動に乗り気ではなかったことが一番大きい。
彼自身、この状態の同好会に、新たな人を招くのは躊躇われたのだろう。
今日も活動場所に行くと、既に見慣れた面々は来ていた。五月に行われた模試の結果について話しているようだった。
藤織となずなと象潟は高校三年生だから、なおさら重要な関心事だろう。
「受験なんて、物心つく前にしかやったことないから、今更やれって言われても困るよな」
先輩の言葉に、なずなは口を開く。
「わ、私は、高校からの編入組なので……」
そういえば夜臼坂学園は、数は少ないが中等部や高等部からの編入を受け付けている。なずなもその口だったのか。
道理で内部生とは少し雰囲気が違うわけだ。
「瀬名ちゃんは学年トップなんだから、受験のときも楽勝そうだね」
藤織が、そう言ってくる。
「皆さんより年下ですから。大したことではありません」
「あはは、俺は中学のときでも、学年一位は全然取れなかったけどな」
その後も、彼らは模試について話していた。
やはり先輩は、国語の成績がすこぶるいいらしい。国語に限って言えば、全国トップレベルだ。古文はもちろん漢文もお手の物だし、現代文もできる。
「鴇野くん、本当にすごいね。元々古文にものすごく詳しいと思ってたけど、ここまでだったとは」
「あはは、ありがとう」
藤織に褒められて、先輩は彼女に笑顔を向けている。三年生は、早く同好会を引退すればいいのに。どうしてまだいるんだろう。
そのとき、がたりと大きな物音がした。教室の中が、水を打ったように静かになる。
部屋の端で本を読んでいた久我原が、突然立ち上がった音だった。彼はずかずかと教室を出ていく。
「久我原さん、どうしたんでしょう?」
わざわざあんなに大きな音を立てるなんて、明らかに意図的だ。
「ああ、久我原くん、模試の成績が悪かったらしくて」
恋人である藤織が、説明する。 なるほど、それで模試の話を快く思わなかったのか。しかも、交際相手がほかの男を褒めていたのだから。
それにしても、いつも読書や勉強をしている印象があるのに、成績が奮わなかったとは。意外だった。
……これは、何かに活かせるかもしれない。
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後日、久我原とちょうどふたりきりになったタイミングを見計らって、声を掛ける。
「そういえば久我原さんって、春日さんとお付き合いしているんでしたっけ」
「ああ」
そっけない返事。無口な男だった。藤織は、どうやってこの人間を口説き落としたのだろう。
「春日さん、以前は鴇野先輩のことが好きだって言っていたんです」
「…………っ」
彼の顔色が変わった。
「でも、失恋してしまったみたいで……。久我原さんと親しくなれたようで、よかったです」
「…………」
久我原は、口を開かないまま立ち去った。しかし、その表情から怒りを読み取るのは容易だった。
そりゃそうだろう。
藤織は、先輩への思いが成就しなかったために、代わりに久我原に秋波を送ったような形になるのだから。元々、春日藤織は先輩の次に象潟に近づき、最後に久我原に至ったのだし。
有り体に言ってしまえば、同好会内での異性の優先順位として一番下だったのだ。
彼は、先輩を嫌ってくれるだろうか。
先輩を苦しめるために、行動を起こしてくれるだろうか。
わたしは、それを願っていた。
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同好会を終えて、家に帰る。疎ましい暑さが付き纏ってきた。もう夏は始まっているようだった。
見慣れた道を歩いていると、やがて見慣れた白い外壁が視界に入ってくる。
一般的な家屋とは違う気取った外装。
無機質な壁。高い柵。厳重な警備。
全て監獄を想起させる。
いや、間違いなく監獄だった。
毎日決められたノルマとカリキュラムを与えられて、ただそれをこなすことだけが是とされる。逃れられない場所に、わたしは入った。
自室に荷物を置き、夕食を摂ろうとダイニングルームに向かう。
だが、入ることも扉を開けることもできなかった。そこには既に先客がいたからだ。
わたしの両親が、食卓に向かっている。ふたりが一緒に食事しているのなんて、いつ以来だろう。
しかも、もうひとりいた。
快活そうな少年。三人が食事を摂りながら、談笑していた。
両親は、養子を迎えようかと考えているらしい。恐らく彼がその養子候補だ。
遠縁の子どもで、わたしより少し歳は下だけど、比べものにならないほど優秀だという。文武両道な上に社交性も備わっていて、申し分のない人間。
たぶん今日は、親睦を深めるための食事なのだろう。
彼を婿にするという選択肢もあるが、わたしのような出来損ないの子どもはいらないようだ。
婿養子にするまでもない。
彼らの家系図に、わたしは必要ないのだった。
わたしは自室に引き返した。
あんな人たち、どうでもよかった。
どうでもいい人たちがどこでどうしていようと、どうでもよかった。
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「先輩」
公園に着くと、既に彼はいた。わたしを見ると、笑みを浮かべてくれる。
「瀬名」
彼の空色の瞳は、真っ直ぐわたしに向けられている。
ほかの誰にも向けられていない。
「そういえば、瀬名とこうして公園で話すのも、もう五年くらいになるのか」
「ええ、そうですね」
小学四年生からだから、確かに今年で五年になる。
「振り返ると、随分長い付き合いになったもんだな」
「ふふ、最初に会ったときには、想像すらしていませんでした」
よく話の種が尽きないなと思うが、彼は会話の引き出しがとても多かった。それに、先輩とはいつまでも話していられる気がした。
これからも、ずっと。
先輩は、最近どことなく疲れているように見えた。ぼうっとしていることが増えた。
同好会では、一触即発の藤織となずなが衝突しないように立ち回っているし、それ以外の場所でもわたしが裏で面倒事を振り撒いているから、きっと心労も多いだろう。
彼がほかの人と関わらなければ、それで済む話なのに。
早く諦めてくれればいいのに。
ほかの人なんて、必要ないから。
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季節は秋となり、三年生の引退も間近に迫った頃。以前メンバーが参加した短歌コンクールの結果が発表された。同好会のみんなで集まって、その結果を見る。
久我原が、短歌のコンクールで大賞を取ったらしい。珍しい。今まで一度もそんなことがなかったのに。
だが、彼が書いたという短歌を見て、わたしは言葉を失った。
「え?」
確かに、見覚えのある作品。だが、これは久我原が作っていたものではない。
この短歌は、先輩が書いたもののはず――
横にいる先輩に目を向けると、険しい顔をしていた。
それはそうだろう。自分が作った短歌を一番よく知っているのは、彼自身なのだから。
コンクールへの投稿手続きは、同好会を代表して久我原が行っていた。本人がやりたいと自分から言い出したのだ。
だからきっと、そのときに入れ替えたのだ。久我原が書いたものと、先輩が作ったものを。
先輩の短歌を自分の名義で出して、大賞を取る。
これは言い逃れしようもないくらいの剽窃で、卑劣な行為だった。
藤織もなずなも事態を察して、押し黙っている。
先輩は立ち上がると、落ち着いた声で、久我原に二言三言話しかける。
「久我原さん、これはどういうことですか?」
だが久我原は黙り込んで、本に目を落としたままだった。
先輩の声を、黙殺していた。
恐らく、嫉妬だろう。
久我原がこんなことをしたのは。
先輩は短歌のコンクールで入賞したり、論考が雑誌に掲載されたりと、既に文学の方面で頭角を現している。久我原は、一学年上でいくら真面目に取り組んでも、めざましい成果を挙げられないのに。受験を控えた時期になっても、模試の成績すら優れないのに。
ましてや、自分が今交際している恋人ですら、先輩に好意を抱いていた。
そもそも人望自体も、先輩と久我原とでは雲泥の差だった。
人間としてあまりにも差がありすぎることを悟った人間は、最後の悪あがきとして愚行に及んだのだ。
そうしないと自分が保てないから、一矢報いるために。
でも、まさか、ここまでするなんて――
先輩は、やがて諦めたように教室を出ていく。
わたしは慌てて後を追った。
廊下を早足で歩く彼になんとか追いつくと、
「先輩、あの――」
振り向いた先輩の表情は、見慣れた穏やかな顔だった。
「ああ、瀬名。大丈夫だよ。気まずい思いさせちゃってごめんな」
「い、いえ、わたしは別に……」
どうして先輩は怒らないのだろう。逆に、わたしを気遣うことができるのだろう。
どうしてそこまで、自分を律することができるのだろう。
「先輩、その、怒っていないんですか?」
「俺が? 怒ってないよ」
本当だろうか。自分の力作を剽窃されて、努力を踏みにじられて、一切負の感情を抱かない人間が、いるはずない。
「人は、いつも是とされる行動を取れるとは限らない。でも、それは俺が口を出す領分じゃないよ」
そんなふうに割り切れるものなのか。
彼の顔には、確かに怒りも負の感情も浮かんでいない。でも、だからこそ何も見えなくなる。
なんだろう、この感覚。
先輩のことがよくわからない。
彼は今、どんな感情を抱いている?
何を考えている?
「このことをきちんと明らかにすれば、きっと久我原さんの大賞は取り消されますよ。わたしも協力しますから――」
「それをやったら、同好会は終わりだろうな」
「先輩……」
「いや、もう終わってるか」
一瞬、彼の表情がひどく冷たいものになった。だが、すぐに笑顔に戻る。
「今日の同好会は早退するよ。それじゃ、また」
先輩はそう言うと、足早に立ち去ってしまった。
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同好会の教室に戻ると、既に久我原と藤織はいなかった。荷物もないし、帰ったのだろう。彼らが今後交際を続けるか別れるか、事こうなってはどうでもよかった。
教室の中には、なずなしかいない。
「ねぇ、鴇野の顔見た? すごい傑作だったね」
彼女は嬉々として話しかけてくる。
「…………」
「よりにもよって大賞をほかの人に盗られちゃうなんて、面白すぎるよ。普段調子に乗ってるから、こんなことになるんだよね。いい気味」
わたしは、夜来なずなの身体に触れた。
「瀬名ちゃ――」
彼女の身体は一瞬で真っ黒に染まり、次の瞬間には塵ひとつ残さず消えた。
わたしは、ついでになずなの荷物も消す。痕跡を消して、足取りを掴ませにくくするために。
このまま生かしておいても邪魔になるだけだろう。わたしがこれまでやったことを口外する可能性もあった。それに、この女がこれ以上先輩を侮辱することを防げた。
別にひとりくらいなら行方不明になったとしても大事にはなるまい。彼女の家庭環境では、神庭みたきのように、失踪になっても大事になるまい。
夜来なずなは、もう必要なかった。
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夜、わたしの足は真っ直ぐあの公園へと向かっていた。
先輩はやはりそこにいた。彼の横に、腰掛ける。
「先輩、古典文学同好会のことなんですが……」
「ああ、同好会はもう終わりにしようと思ってる」
わたしは先輩の顔をまじまじ見る。やはりそこには、怒りも敵意も浮かんでいない。どちらかと言えば、あるのは諦観だった。
なずなも藤織も久我原も三年だから、もうすぐ引退するのに、それでもやめるつもりなのか。
「これ以上続けても、きっと誰のためにもならないよ。ごめんな、これまで見学に来てくれてたのに」
「いえ……仕方がないですよ」
先輩が気にしていないはずがない。そうでなければ、わざわざ早退しない。
古文や和歌の研究は先輩の大事な夢なのに。その成果物のひとつである短歌を、大賞を、簒奪されるなんて。しかも、信用して作品を預けた人に。
先輩が苦労して作って、維持してきた同好会が滅茶苦茶になって、嫌じゃないはずがない。
彼はただ、表に出していないだけだ。
たぶん、周囲の人間に負の感情を見せるのは、その人のためにならないと考えているのだ。人間を、尊重しているから。
それが、余計負担になっているだろうに。
久我原は、先輩相手なら
なんて――なんて汚い男だ。
「その……先輩は、たまに言っていますよね。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだって」
「ああ」
「もちろん、その尊重されるべき人の中には、先輩も含まれていますからね?」
「…………」
先輩の顔から、表情が消えた。
彼はじっとわたしを見つめる。何も言わないまま。
「ほかの人のことを尊重するのはすごいことだと思いますし、なかなかできないことですけど……先輩自身も、大切にしてほしいです」
「どうして?」
「え?」
「どうして、そう思うんだ?」
「それは、その――先輩が、大切な人だからです」
わたしは、この世で一番先輩のことが大嫌いだから。
この世でわたし以上に先輩のことが嫌いな人なんて、いないから。
「先輩、その、わたしには、たまには愚痴を言ったりしてもいいんですからね。先輩がひとりで苦労するなんて、見ていられませんから」
「本気でそう思ってるのか?」
「あ――はい、そうです。先輩、もっとわたしのことを頼っていいんですよ?」
彼は何も言葉を発さずに、こちらを見ていた。
「大丈夫です。わたしは、先輩のことを裏切りませんから。ほかの誰が裏切ったとしても、わたしだけは先輩の味方です」
先輩の表情は変わらなかった。だけど、不意に抱きしめられた。
「――――」
思わず固まって、動けなくなる。先輩は、暖かかった。
恐る恐る、彼の背中に腕を回した。
突き飛ばしたりなんかしたら、先輩のことが嫌いだって知られてしまう。警戒されないためには、ここは無難に流しておかないと。
しばらくそうしていたが、先輩はやがて身体を離す。
「瀬名には……いつも助けられてるな。これじゃあ、どっちが先輩か分からないよ」
「困ったときはお互い様ですよ」
「あはは、そうだな」
先輩は、いつも通りの笑顔だった。
「瀬名だけは、俺を裏切らないでくれよな」
それは冗談めかした口調だった。
「はい、当たり前ですよ」
貼り付けた笑顔で、わたしは答えた。
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