12 神庭みたき
「やってくれたわね、孝太郎くん」
神庭家の蔵の中で、みたきは声を発する。本がぎゅうぎゅうに押し込まれた空間は、地下書庫と同じ匂いがした。
「……何が?」
「ふふ、わかってるくせに。私の信者をたくさん捕まえてくれちゃって」
畳の上に置いた、オセロの盤面。黒い石を、彼女はいじっている。
前々から思ってはいたが、本当に思考が読めない。
シンパが壊滅的な状況に陥っても、みたきはむしろ楽しそうにしている。
なんだ? この掌で踊らされている感覚は。
「……みたき、どうして世界を終わらせようとするんだ?」
俺は、盤面に白い石を打った。
今ならば、答えてくれる気がした。
「どう言えば、あなたは納得してくれる? 世の中に絶望して? 何かの復讐? いいえ、何を言っても無意味だわ。だからね、本当のことだけ教えてあげる」
色素が薄い長い髪は、小窓から差し込む夕焼けに照らされて、銀色に輝く。
前髪から覗く紅玉の瞳は、背筋が寒くなるような光を秘めている。
「孝太郎くん、あなたは高く積み上げられたジェンガを見たとき、どうにかバランスを保っているそれを、思いきり崩したいって思わない? あるいは、記録更新を目指して並べられているドミノを、途中で倒したいって思わない?」
「…………」
俺は口を開けなかった。話がだいぶ嫌な方向性に向かっていることがわかったからだ。
オセロ盤に黒い石が置かれる。
「人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべき――確かにそうよ。だからね、人生を滅茶苦茶にするのは楽しいの。ありとあらゆる可能性が潰えていく様が見たいの」
「ま、まさか、全部そのためにやったのか?」
信者を集めて狂わせるのも。多くの人を殺させるのも。
全て、人生をぶち壊すために?
黒色に挟まれた白い円が、ひっくり返される。それは、見慣れた光景だった。そういうルールなのだから。
「そうよ。それまで辛うじて日常生活を営んでいた人間が、ほんのひと押しで転落するの。反社会的で、陰惨な方向に。あるいは、それまでふつうに暮らしていた人が、ある日突然事故のように殺されてしまうの。いきなり家族を奪われた人は? 大切な人を奪われた人はどうなると思う? 多くの人生が狂っていくの。最高でしょう?」
「……本気で言ってるのか?」
そんなの、性根が腐っているどころの話ではない。この世に存在してはならないほど、悪鬼羅刹の所業だ。
「私の
「理解できないよ、俺には」
「ふふ、そうかしら?」
一緒にしないでほしいんだが。
「幼稚園で初めてあなたと出会ったとき、私にはすぐにわかったわ。あなたは私と同じタイプの人間だって。他人の価値を理解できない人間は話にならない。価値ある存在だからこそ、滅茶苦茶にする意味がある。何の才能もない人間が落ちぶれていったってカタルシスはないわ。あなたにはそれが理解できるでしょう?」
一体俺をなんだと思ってるんだ。
他人の生涯を踏みにじって、楽しいはずがない。
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ。
「ねえ、あなたはどうして韮沢瀬名にそこまで執着するのかしら? 誰にも分け隔てなく、ある種無機質に接するあなたが、どうしてそこまで韮沢瀬名に囚われているのかしら? 私にはなんとなく理解できるわ」
その口で、瀬名の話をしないでほしかった。
みたきが前の世界で瀬名にやったことの理由が、今わかってしまったから。
瀬名を狂った殺人鬼にした理由が。
「だって彼女って、すごく自分のものにしたくなるタイプだもの。滅茶苦茶に、壊してしまいたくなるタイプ」
「…………」
「あなた、彼女のためを思っているようなふりをしているけど、余計自分に依存するように仕向けているじゃない。きっと韮沢瀬名が自分から離れていきそうになったら、その道を塞ぐわ。自分なしじゃ生きていけない人間を見るのは、楽しいでしょう?」
「……違うよ」
俺が瀬名を特別に思っているのは、彼女が俺に依存しているからなんて理由ではないし、簡単に支配してしまえるからなんて理由でもないし、ましてや物理的にも精神的にも容易く殺せそうだからという理由でもないし、絞め殺したくなるほど綺麗で細い首をしているからという理由でもない。
「嘘吐いても無駄。全部わかるんだから。思ってもいないことを言うのと、偽ることは全く別物なのよ」
幼馴染は――世界に破滅を振り撒く悪魔は、口の端を釣り上げる。
等間隔に印刷された線が四角を形作る板の上で、応酬が始まる。白い石と黒い石の置き合い。手番は交互にやってきた。
「あなたのおかげで、韮沢瀬名を利用するのはすごく簡単だわ。きっとあなたの元いた世界では、すごいことになったんでしょう?」
脳裏に思い出したくもない記憶が蘇る。あれは、すごいなんてもんじゃなかった。
「ラネットを使って人を消すことを覚えた人間は、だんだん精神に異常をきたしていくのよ。まぁ、元々素養のある人を選んで教えているっていうのもあるけど。だって、あんなお手軽に他人を消せたら、抵抗感なんてなくなっていくし、人を殺してるっていう実感も抱かないもの。そうしている内にね、次第に目の前の存在が人間に見えなくなってくる。ふふ、そうなったら行き着く先なんて目に見えているわよね?」
「でも、そうやって好き勝手に人を殺させていたら、世界に歪みが広がって、終わってしまうんだぞ? そうなったら、お前のその趣味もできなくなる。いいのか?」
これ以上瀬名の話を続けたくなくて、話を変える。
「別に、世界が終わっても構わないわ」
「……え?」
耳を疑った。だが、彼女は平然としている。
「世界が終わろうが、逆上した信者に殺されようが、なんだっていいの。他人の人生が滅茶苦茶になるのが楽しいのと同じように――いいえ、それ以上に、自分の人生が滅茶苦茶になるのは楽しいとは思わない?」
みたきの破壊願望は、自分にも向けられているのか……?
それは良く言えば平等で、悪く言えば性質の悪い無差別だった。
「これは驕りではなく真実を述べているだけなんだけど、私という人間は本来多くの価値がある存在なの。私の力を使えば、有意義なことはいくらだってできるし、世の中をいくらだってよりよくできるでしょう。時間を操る力も、ラネットを操る力も、神庭の家ですら私に及ぶ者はいない。一体どれだけの人を幸せにできるかわからないくらいだわ。でもね――それでは満たされないの。少なくとも、自分の能力をドブに捨てることよりは」
前の世界で瀬名に自身を殺させたのも、ただ破滅したかったからなのか?
世界の狭間にとどまって、半ば幽霊の存在になることが、みたきの望みだったのか?
「時間の歪みがどれくらい広がれば世界が終わるのか、それは予測できないわ。だって、これまで世界が終わったことなんてないもの。だからね、いつ
笑顔を浮かべたまま、みたきは語る。
その言葉は、嫌でも真実なのだと感じさせるものだった。
彼女は、本気でそう思っているのだ。
いくら人生が無意味だと感じていても、俺には生殺与奪権を他人に渡すことなんて耐えられないが。
「ああ、これはあなたにはわからないかもしれないわね。でもね、私は
世界の狭間で、か。
盤面は、すっかり黒色が占めるの方が多くなっていた。石が置けるスペースも限られ、打てる手立ても少ない。
「私の人生は一体誰に、どんなふうに終わらせられてしまうのかしら? 全て予定調和の退屈なこの世界、抗えないほどの強大な力で無残に引き裂かれることしか楽しみがないの。そうして初めて、私は自らの生を愛おしく、惜しく思える」
彼女が世界の終末を目指しているのは……全世界を巻き込んだ快楽自殺のようなものなのだろう。
誰かに阻まれて、みたき自身が殺されるないしは破滅させられてもいい。
成就して、世界が終わってももちろんいい。
なんて……最悪な二択なのだろう。
「……民俗学研究会にヒントの手紙を送ったのは、お前だろ?」
信者の犯行を予言した手紙。
犯人すらわからなかった研究会が、神庭みたきに辿り着くよう仕向けられた手紙。
「そうよ。だって、彼らったらダメダメなんだから。いつまでも私に辿り着かないし。少しは障壁になってくれないと面白くないわ」
俺がみたきのシンパを捕まえ、妨害する行動すらも、みたきにとっては喜ばしいことだったのだ。
自分の信者が監禁されることも、自殺することも、この女は諸手を挙げて歓迎している。手先が減り、自身が追い詰められるということだから。
もう災厄としか言いようがない人間だった。
ただ破滅のみを求めて、周囲を、世界を、どん底に叩き込む。
「人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべき――ねえ、孝太郎くん。私のことも尊重してくれるわよね?」
赤い瞳の少女は、くすくすと笑う。
「……別に、お前の生き方を否定はしないよ。大勢の人間と対立するのは必至だし、その場合俺はみたきの味方ができないけど」
そういうあり方でしか幸福になれないのだとしたら、なんて難儀なのだろう。
「私ね、あなたのことをすごく評価してるの。あの体たらくだった民俗学研究会も、あなたが加わってからは格段に敵として強くなったわ。そもそもね、ラネットについて長らく何も知らなかったような人間が、いきなり時間移動して適応するのはとても難しいことなのに、あなたは難なくやってのけてる。ふつうはもっと精神に悪影響を及ぼすものなのよ」
「俺だって、最初の頃は五年の隔たりに戸惑ったよ」
「その程度で済むのが、稀有だと言っているの。時間移動はふつうの人間にとっては、精神を摩耗させ軋ませるものなのに。ほとんど全てのことに関心がないあなただから、平然としていられるけど」
みたきは俺の目をじっと見据えて、言った。
「あなたは、人の生涯を滅茶苦茶にする才能がある」
彼女の手が、こちらの頬に触れる。
だが、俺は一切怯まなかった。
みたきが俺を殺すことなどないと、わかっているから。
「あなたは、他人を尊重するというスタンスをたまたま選んだから優しく接しているだけで、やろうと思えば真逆のことだってできるでしょう?」
たとえばそれは、人間を全て踏みにじろうとするような。
「随分買ってくれてるみたいだけど、俺はやっぱりお前とは違うよ。俺は、嫌いな人間を殺したいと思わない」
「ふふ、そうでしょうね。だってあなたは、好きになった人間を殺したくなるんでしょう?」
俺の背に腕を回す幼馴染。
もう恋人じゃないんだから、そんなことはしないで欲しかったが。
相変わらずみたきの身体は冷たくて、死体のようだった。
好きな人を殺す。
そんなこと、するはずがないだろう。
不都合が生じない限りは。
「あなたとなら、私、どこまでも落ちていける。きっと、今以上――いえ、今以下のものになれる。だからあなたのことを愛してる」
それは、愛の告白だった。
これまでに告白されたことは何度かあるが、こんなのは初めてだった。
きっと――と思う。
無数に広がる並行世界の中で、ひとつくらいはみたきに応じる世界もあったのではないだろうか。
ふたりでどこまでも破滅を追求する世界が。
だけど、今の俺には全くそんな気が起きなかった。彼女から身体を離しながら、言う。
「悪いけど、世界を終わらせようとする人は無理かな」
付き合っている人がいるとか、好きな人がいるとか、そんな理由以外で断るのも初めてだった。
みたきは一切動じていなかった。
まるで、俺の答えが最初からわかっていたかのように。
「残念ね、あなたならわかってくれると思ったのに」
一体どんなふうに思われていたのかは、甚だ疑問だった。
盤面に白い石を打つ。それは、最後の手番だった。
これまで何度もみたきとオセロをしてきたが、全て黒一色で終わってきた。
今回は違う。黒い石の中に、白い石が数個残っていたのだ。
「でも……」
俺は口を開いた。
「お前に破滅を与えることはできるよ」
みたきは笑みを浮かべた。
夏休みは、もう終わろうとしていた。
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