11 鬼事の夜



 俺たちは持ち場を離れるわけにはいかないので、捕らえた信者は、手が空いた研究会員に車に運び込んでもらった。


 消されてしまった扉は……どうしよう。ライブハウスの人も困るだろうに。

 あとで、みたきのところに修理代を請求するか……。


「信者たちが動き出しました」

 イヤホンからの声に、はっとしてタブレットのカメラ映像に目を遣ると、会場の様子が変わっていた。


 暗いホールの中、何人かが首元に黒いタオルをゆるく結び始める。

 あれも、事前情報の通りだ。


 今回の敵の計画は、ライブ会場の逃げ道を塞いで人間を消して回るという最悪の鬼ごっこ。

 人を殺す際に誤って仲間を消さないように、味方同士でわかりやすい符牒が必要となる。それがあのタオルだ。


 ライブハウスでタオルを首に巻いていても、特に不自然ではない。ほかの観客には目印だと気付かれにくいが、信者には伝わるという仕組みだ。

 俺たちは以前不破たちからそれを聞いているため、タオルの結び方に特徴があることもわかるが。


 みたきのシンパたちは気づいていない。その符牒が、民俗学研究会の人間にとって敵を見分けるマークとなり得ることを。

 信者が動き出すと同時に、研究会員がそれぞれ行動を開始する。


 黒いタオルの男が、傍らにいた人間に触れる。それは、人を死に至らしめる行為だった。

 しかし、哀れな被害者は生まれなかった。男が触れても、隣の観客は黒色に染まらなかったからだ。


 入場時に研究会員がスタッフに紛れて配った、使い捨てリストバンド。それがラネットキャンセラーであることには気付かれていないようだ。

 信者と思しき人間は、困惑した顔で横の人に何度も触れ直し、怪訝な表情をされている。これも、作戦通り。


 しかし全てのシンパがきちんとリストバンドを着けているとは限らないし、外すこともできる。

「笠沙さん――」

「はい、行きます!」


 焦りも恐れもない声で返事をした笠沙さんは、機械に向かって能力を行使した。

 会場内では、手首に何も着けていない信者が手を伸ばし、周囲の人に触れようとする。その瞬間、世界は凍りつく。


 ホール内は黒一色に染まっている。五百人もの人間が、微動だにしない。時間が止まっているのだ。

 ライブハウスを丸ごと包むほどの空間停止。突然のことに、民俗学研究会の人間のみが慌ててきょろきょろしている。


 そう、止まった空間の中でも、研究会員だけが動ける。

 このフレキシブルさを実現するのが、笠沙さんの空間停止だった。


「やりましたね、笠沙さん!」

「あ、ありがとうございます」

 さて、俺も信者たちを捕らえる作業を手伝おう。笠沙さんは空間停止を維持するために、ここから離れられないが。


「上木くんの東側、長髪でパーカーを着た男も捕らえてください」

 ホール内をつぶさに観察していた葦原教授が指揮を取る。


 シンパをラネットキャンセラーで拘束し、ホールの外まで運び出す係。

 ワゴン車に乗せる係。

 事前に決めた役割分担に沿って、作業は円滑に進んでいく。


 身動きが取りにくい会場内で行うには、複数人でやっても時間がかかるが、静止した時間の中では問題にならない。

 永遠にも思える作業の後、黒いタオルを首に結んだ人間を全てワゴン車に乗せ終えた。


 運転手が、洋館に向かってエンジンをかける。

 ワゴンが走り去っていくのを見届けた後に、ライブ会場の止まった時間は再び動き始める。


 いきなり隣の人間がいなくなって、不審に思う観客もいるかもしれない。

 会場の外では普段通りに時間が進んでいるため、ずれが生じていることに気づく人間もいるかもしれない。


 だが、全てはライブの熱気がかき消してくれるだろう。

 まさか、時間を止められる人間がいるとは思わないだろうから。


 ライブはつつがなく終わった。

 幸い犠牲者も出ず、大事にもならずに済んだ。

 作戦は、大成功に終わったのだ。




 ▶ ▶




 ライブハウスで余計な痕跡や証拠を隠す後始末を終えた後、居酒屋でねぎらいの会が行われた。俺はソフトドリンクかノンアルコールだけで済ませたが、ほかのメンバーは思う存分飲酒していた。


 瀬名には事前に、今日は公園に行けないと伝えてある。元々、作戦が長引く可能性は大いにあったし。


「笠沙、すごいじゃないか! あんな規模の空間停止を成功させるなんて!」

「い、いえ……すごくなんて。十年老けそうになりましたけど。鴇野さんが、特訓してくれたんです」

 研究会員に褒められて、笠沙さんが照れている。


「そうそう、鴇野くんもすごかったよね! 不破を捕まえるときも、尋問も、全部やってくれたし。今回の作戦だって」

 上木さんが明るい笑顔を向けてくる。


 飲み会は盛況に続き、泥酔した葦原教授が腹踊りを始めたり、笠沙さんが意外と酒乱だったり、上木さんが脱ぎ上戸で大変なことになっていたが、俺の頭は別のことで占められていた。


 ライブ会場に、みたきが来ていなかった。どうしてだ?


 今日は、五百人もの人間を闇の中に消し去り、世界の終わりをもたらす供物にする計画だ。

 いわば、彼らのこれまでの悪行のフィナーレ。

 それなのに、肝心の指導者が不在なのはおかしい。


 今回成功を収めたのは、信者たちの統制が取れておらず、連携どころの話ではなかった点も大きい。


 それに、作戦が尋問で得た情報とほとんど同じだったのも不思議だ。さすがにシンパが行方不明になったことは、みたきも把握しているだろう。

 民俗学研究会に捕らえられた可能性を考慮し、作戦を変更することも充分あり得た。なのに、そうなっていない。


 その割に、信者の数は想定していたものの七割程度と、少なかった。

 みたきは何を考えているんだ……?




 ▶ ▶




 翌日から、捕まえた信者の尋問を行った。やはり、それ相応の時間がかかりそうだ。

 とはいえ今回で、信者の数がだいぶ目減りした。しばらくみたきは何もできないだろう。


 まさか彼らをいつまでも監禁し続けているわけにもいかないが、また凶行に加担されては困る。念入りに信仰心を打ち崩す必要があった。


 数日後、俺は皆原市にあるコンサートホールに来ていた。

 今日は東日本ジュニアピアノコンクールの予選が行われる。もちろん、瀬名の演奏を聞きに来たのだ。


 ふかふかの座席に腰掛けて、次々と演奏者が移り変わっていくのを眺める。ピアノには詳しくないので、みんな上手いなという感想しか抱けない。

 立派な会場だから、音の響きが格別だ。ピアノの音色が一際美しく聞こえる。


 そうこうしている内に、瀬名の番がやってきた。

 ステージの上に立った彼女は、水色のフォーマルなドレスを身に着けている。シンプルなデザインの正装は、彼女の静謐な美しさによく似合っていた。


 大きなグランドピアノの前に、小柄な彼女が座る。

 両手が鍵盤の上に乗せられ、細い指が最初の一音を奏でた。


「――――」

 空気が変わった。鍵盤を叩く音のひとつひとつが、感情を震わせる。


 な、なんだこれは?

 これまでの演奏者と何かが違う。だが、何が違うのかわからない。楽器自体は同じなのに。


 素人の俺でも、彼女の技巧が抜きん出ていることはわかった。小さな彼女の手が、鍵盤の上を自由自在に踊っている。

 一切ミスタッチのない正確な演奏。それでいて情熱的で、表現力に満ち溢れている。


 だが、技術だけでは説明がつかないほど、瀬名のピアノは特殊だった。上手いというよりも、心に訴えかけてくると言った方が正確だ。


 穏やかなパートでは心が落ち着き、悲しいパートでは胸が締め付けられ、激しいパートでは鼓動が早くなる。感情がどこまでも持っていかれる。


 気づけば、あっという間に演奏が終わっていた。

 会場に広がる拍手は、それまでで一番大きなものだった。

 その後も様々な人が演奏を行ったが、瀬名の演奏と同じ感情になることはなかった。




 ▶ ▶




「先輩っ」

 コンクールが終わった後、喧騒が残る会場から少し離れた場所で待っていると、彼女は駆け寄ってくる。服はドレスから私服に着替えていた。


「瀬名、おめでとう。すごいじゃないか。予選通過の上に優秀賞なんて」

 予選通過者の中で、もっともすぐれた者に与えられる賞だ。

「そ、そんな……先輩が見ていてくれたからです」


 この結果には納得しかない。それほどまでに、彼女の演奏は突出していた。

「先輩、その、わたしのピアノ、どうでしたか?」


「感動したよ。驚くくらいに。今回のコンクールで、瀬名の演奏が一番よかった」

 それは心からの言葉だった。

「ほ、褒め過ぎです」

 瀬名は、白い頬を紅に染める。


「今日のコンクール、緊張もしていましたけど、少し楽しみだったんです。上手く演奏できたら、先輩、喜んでくれるかなって。だから、今までのわたしの中で一番いい演奏を目指して頑張りました。コンクールや大会が楽しみなんて、初めてでした。練習しているときも、すごく調子がよかったんです。先生にも驚かれるくらいで――あ、ごめんなさい、こんなこと言われても困りますよね。とにかく、先輩に喜んでほしかったんです」


 コンクールの熱気が残っているのか、いつもより饒舌だった。

「瀬名が自分のことを話してくれるの、うれしいよ」


「先輩、本選は東京なんです。だから、その……よ、よかったら……あ、い、いえ、その、なんでもないです……」

 そんなに遠慮することなどないのに。


「本選、ぜひ見に行きたいよ。折角の瀬名の晴れ舞台なんだし」

 そう言うと、不安げだった彼女の表情は一気に明るくなる。


「い、いいんですか?」

「ああ、もちろん」

「えへへ、ありがとうございます。先輩に聞いてもらえるなら、わたし、百人力です」

 その笑顔を見るためなら、安いものだ。


「往復の交通費は、わたしが出しますから。それに、必要なら宿泊費も」

「え? いいよ、そんなに気遣わなくたって。大丈夫だから」

 そう言うと、彼女は目を見開く。その表情は、とても喜んでいるようには見えない。


「そ、そんな……先輩に来てもらえるだけでこの上ない厚意なのに、さらに負担を掛けるなんて……そんなの、絶対に許されることではありません。これ以上先輩に迷惑を掛けたら、わ、わたし……」

 目の前の少女は蒼白になってうつむいた。その怯えようは、少し異常でもあった。


「瀬名、俺は行きたくて行くんだから、これっぽっちも負担なんかじゃないんだよ。俺と瀬名の仲じゃないか」

「だ、ダメです……わたし、もっともっと先輩にお返ししないといけないのに……」

 震える手で、スカートをぎゅっとつかんでいる。


「こんなふうにわがままばかり言ってはいけないのに、もっと先輩の役に立たないといけないのに……こんなことばかりしていたら、わたし、わたし……ご、ごめんなさい……今のは全部忘れてください……もう先輩に迷惑を掛けませんから……もう二度としませんから……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 彼女は震える声でひたすら俺に謝り続けている。

 どうやら、彼女の内罰思考を刺激してしまったらしい。


「だ、大丈夫だよ。じゃあ、交通費は瀬名が出してくれるか?」

「は、はい……」

 だが、瀬名はまだ不安げにこちらを見上げていた。


 安心させるために、頭を撫でる。

 どうやらそれは効力を発揮したようで、彼女は少しほっとした表情を見せた。


「ピアノの先生に付き添ってもらうときも、いつも交通費と宿泊費は渡しているんです。だから、それと同じことです」




 ▶ ▶




 家に帰ってから、今日の瀬名の異様な様子を思い出す。


 彼女は優しさを有限のものだと捉えているらしい。親切にされたらその分報いなければいけないし、返報が足りなければいずれ見放されてしまう、と。


 だから過剰に優しくされると、まるで金塊の山をいきなり押し付けられて、これを買えと迫られているような気分になるのだろう。彼女にとって重荷で、恐怖の対象で、ともすれば必要ないと思ってしまうくらいに。

 思いやりも、気遣いも、瀬名にとっては借金の押し付けなのだ。


 しかし、だからといって瀬名に冷淡に接するというわけにもいかない。それに、今回ああいった面も見せてくるようになったのは、進歩とも言える。

 これまでの瀬名だったら、きっと自分の内側に溜め込んでいたから。


 前の世界での時間はもちろん勘定に含めないが、それでも韮沢瀬名という少女と出会ってから五年経つ。だいぶ打ち解けてきたし、自分のことを少しずつ話してくれるようになった。

 今後も、瀬名が殺人鬼にならないように注意を払わないとな……。


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