10 虐殺の前に


 土曜の夜は、太陽が沈んだとはいえ、じめじめとした熱気に包まれていた。


 皆原駅の近くにある、ライブハウス。今日は、そこそこ名が通ったバンドのライブツアーが行われるという。五百人の定員はほとんど埋まりそうな盛況具合で、会場は既に混雑していた。

 ……この中に、もうみたきのシンパが紛れ込んでいるはずだ。


 俺はみたきに顔が割れているので、マスクに伊達眼鏡と、軽く変装していた。もっとも、みたきに見つかったら一瞬で看破されるだろうが。主目的は信者たちに気取られないことだ。


 今日までに、作戦は慎重に練ってきた。しかし、上手く行くとは限らない。むしろ、成功率は相当低いと言わざるを得なかった。


 敵の数を減らすため、信者を追加で何人か誘拐して地下牢に閉じ込めた。尋問を行って、更なる情報の入手や裏付けを行った。


 それでも、焼け石に水だ。

 五百人近くの無辜の人々を、ひとりの犠牲者も出さずに守り切るなんて、難題にも程がある。


 結局、謎の手紙を出した内通者は見つからなかった。もしかしたら、もうみたきたちから離反したのかもしれない。


 だが、やるしかない。

 観客も、出演者も、民俗学研究会のみんなも、誰ひとり死なせないために。




 ▶ ▶




 ライブが始まった。

 不破たちの話では、虐殺はライブの中盤、会場があたたまって観客の気が抜けた頃に行われる予定だという。楽しいライブから一転、地獄に叩き落す演出らしい。悪趣味にも程がある。


 舞台袖の控室は無人だった。俺と笠沙さんは、これ幸いにと入り込む。念のために扉の内鍵を閉めておくことも忘れない。


 アンプを通した楽器の音が、低く地面を揺らすように伝わってくる。ボーカルの熱の籠もった声が、響いてくる。今から巻き起こる惨劇を知らずに。


 笠沙さんは、空間停止用の機械を床に置いて、セッティングを始める。

 ここを、空間停止を行う拠点としよう。


 俺は、身に着けたワイヤレスイヤホンから流れてくる声に耳を傾ける。

 作戦通り、PAブースの確保は上手く行ったらしい。


 PAブース――ミキサーや音響機材を置くスペースは、観客がいるホールの後ろ側にある。このライブハウスでは、PAブースは階段の上にあり、会場を一望できる。

 ここを抑えることは、地の利を得ることにつながるのだ。


 音響担当、PAさんは闖入者に困惑していたらしいが、葦原教授が「孫の演奏を見に来た」などと強弁し、なんとか受け入れられた。機材の操作に忙しくて、相手にする暇すらなかったのかもしれない。


 事前にこっそりPAブースに取り付けたカメラも、支障なく動いている。フロアの全体を映すカメラで、各人の携帯電話から映像を確認できるのだ。

 俺は、用意していたタブレットをテーブルの上に立てかけ、映像を表示させる。


 液晶には、会場内に紛れ込んだ研究会員の姿もちらほら見える。

 だが、ライブホールは暗く、人の密度も高い。自由に身動きできるとは到底言えなかった。


 会場外にいる研究会員からは、不審な人物が出入り口を封鎖しようとしているとの知らせが来た。ご丁寧に非常口も抑えているという。みたきのシンパだろう。

 そちらの対処は、任せよう。


「スタッフの中にいた信者の対処、完了しました」

 続いて、報告が来る。みたきは、シンパをアルバイトスタッフとしてライブハウスで働かせていた。


 会場の調査、段取り、その他諸々も、スタッフという立場からなら簡単に行える。虐殺するためにわざわざ信者にアルバイトさせるのだから、なんとも手間を掛けているが。

 しかしそちらの確保も済んだらしい。全ては手筈通りだ。


 敵の数は、多くて十人程度と見積もっている。数は減らしたが、これでも多い。

 相手は、たった数秒で人間を殺せる危険人物たちだ。こちらは、それより先に食い止めなければならない。


「……う、上手くできるでしょうか、空間停止……」

 笠沙さんが、弱音を吐く。

「大丈夫ですよ、たくさん特訓を重ねたじゃないですか」


 今回の作戦自体に空間停止は組み込まれていない。「失敗したとき大変だから」というのが、研究会員の意見だった。だが、相当危ない橋を渡っているのも確かだ。


――決して、こちら側からの犠牲は出さないように。


 それが、葦原教授の願いだった。俺も同じ気持ちである。

 やはり空間停止は必要だ。犠牲者を出さないためには、敵全ての動きを止めた方が確実なのだから。


「あ、ありがとうございます……特訓に付き合ってもらって」

 笠沙さんは、機械のセッティングを続けている。


 研究会のメンバーには、一応空間停止を試してみることも伝えてある。あまり期待していない様子だったが。

 ここには、変に急かし立ててプレッシャーを与えるような人間はいない。少しは気を楽にしてくれるだろうか。


「いえ、頑張ったのは笠沙さんですから。むしろ俺の方こそお礼を言いたいくらいです」

 特訓といっても、行ったのはシンプルな度胸試しだ。


 たとえば、俺が水の入ったコップを高いところから落とし、床に落ちるまでの間に時間を止める練習。

 慣れてきたら、大事な手書きレポートの上にコップを落とし、空間停止を成功させなければレポートが水で台無しになる、という状況を作る。笠沙さんには内緒でコピーとすり替え、失敗しても支障がないようにしていたが。


 ほかにもこういう、失敗したら惨事になるという状況を作り、ちまちまとした練習を重ねた。

 結果、笠沙さんは何度もレポートや論文、大事なデータが入ったUSBやパソコンを守り抜いた。何度も弱腰になり、逃げ出そうとしたが、やり遂げたのだ。


 大事なのは、「自分はできる」という自信を持つこと。

 今の彼は、以前の彼とは違う。


「い、一時は鴇野さんを恨んで、なんてひどい人なんだって思いましたけど……今は感謝しかありません」

「あはは、人の命が懸かった状況に、少しでも近づけたくて」


「み、みんな、僕なんかにはできない、どうせ失敗するって見放してましたけど……鴇野さんは僕を信じ続けてくれました。何度も励まして、根気強く付き合ってくれて……」

「笠沙さんの筋がよかったからですよ」


 会場からそれまで聞こえていた激しい曲が、バラードに変わる。ライブは順調に進んでいるようだ。

 ローテンポなリズムの中、叙情的なギターサウンドが響く。何の因果か、それは命の大切さを歌う曲だった。


「……大学に入って、噂を聞いたんです。時間を操る方法を研究してるところがあるって」

 笠沙さんは、少しずつ言葉を紡ぎ始める。


「当然、みんな笑い話だと思って聞き流してました。でも、僕は思ったんです。本当だったらいいって。それで、民俗学研究会の門を叩きました」


 なるほど、研究会員の人はそうやって加入していたのか。もっとも、興味本位で金棒引精神の持ち主は、入会の段階で教授にふるい落とされているのだろうが。


「これまで何度も、時間を巻き戻せればどんなにいいかって、考えてきました。大事な試験当日に熱を出して受けられなくなったり、部活の大会で僕だけが失敗して、みんなの足を引っ張ったり。今まで、やることなすこと全部ダメでした。そういう失敗全部、やり直したいって」


 沈痛な表情のまま、彼は話し続ける。

「でも、こんな僕が時間を上手く操れるはずなかった。失敗するに決まってた。どうして、そんな簡単なことに気付かなかったんだろう……」


――でも、「飽和」している人間はみんなすごくラネットの扱いが上手いのよ。最早絶望を飼いならしているのかってくらいに。


 いつか、みたきから聞いた言葉。

 深い絶望に接し続けてきた人間は、ラネットの扱いに秀でるという。


 笠沙さんが空間停止を抜きん出て行えるのは、彼がそれほど絶望に近かったことの証左ではないだろうか。


「でも、もう大丈夫です。特訓に協力してくれた鴇野さんのためにも、絶対に成功させます」

「はい、頑張りましょう」


 意気込んだそのとき、イヤホンから声が聞こえる。

「ホールの外から控室の方に向かっている人間が一名。恐らく敵です」

「…………っ」


 この場所は、ステージにつながっている。脱出経路ともなり得るのだ。出演者や観客の逃走を防ごうとするシンパの方も、抑えたいと考えるのは自然だった。


 ライブの音が漏れ聞こえてくる中でも、足音が部屋に近づいてくるのがわかる。

 大丈夫、鍵は掛けてある。誰も入って来られない。


 ドアノブがひねられるが、開かないとわかるとがちゃがちゃ揺さぶられる。

「――――」

 笠沙さんは自分の口元を両手で覆い、恐怖の声を抑えようとしている。


 ラネットで扉ごと消されたら、鍵も意味がなくなるが、そうなると向こうとしても、客の逃走を妨げるものがなくなることを意味する。扉さえあれば、外に多少の重りを置いたり、ドアノブに細工をするだけで、行き来を妨げられるのだから。


 だが。

 白い扉の中央が、墨を垂らしたかのように黒く染まる。

 これは、ラネット――


 正気か?

 扉を消して、その後どうするつもりだ?


 俺は急いで、警棒型スタンガンとラネットキャンセラーの手錠を握る。

 なんとしてでもここは、笠沙さんは守り抜かないと……!


 控室の扉は瞬く間に黒一色となり、消える。その向こうには、目付きが悪い男が立っていた。こちらを見て一瞬ぎょっとするが、すぐに床を蹴って、手を伸ばしてくる。


 正面から争うのは危険だ。だが男の進行方向には、床に座り込んだままの笠沙さんがいる。このままでは彼が消されてしまう。

 俺は意を決して、男に向かっていった。


 駆けながら、警棒型スタンガンを前に突き出す。男の腕よりも、こちらの方がリーチが長い。先に触れるのは、スタンガンだ。競り勝てるはず――


 そのとき、目の前の男が急にしゃがみ込んだ。空を切るスタンガン。

 同時に、俺の身体が傾く。男に足を引っ掛けられて、転ばされたのだと気づく前に、俺は床に倒れ伏していた。


「邪魔しやがって……」

 みたきの信者はそう吐き捨てると、俺の身体に触れようとする。

 だが、俺は転んだ衝撃で動けない。

 まずい、消される――


 瞬間、男の全身が真っ黒になった。

 蛇の怪物の瞳で石にされてしまったかのように、微動だにしない。その右手は、俺に触れる数センチ前で止まっていた。


「か、笠沙さん――」

 絞り出した声には、さすがに動揺の色が隠せなかった。

 これは、空間停止だ。この短い時間で、笠沙さんは男の時間を止めることに成功したのだ。


「だ、大丈夫ですか!? 鴇野さん」

 彼は急いで寄ってくると、手を差し伸べてくれる。

「ありがとうございます……助かりました」

 その手を取って、俺は立ち上がった。当然その手は、触れたものに死をもたらす絶望ではない。


「い、いえ、鴇野さんが僕を守ってくれようとしたから……敵の注目が鴇野さんに向いて、その隙に発動できたんです」

「それでも、この速度で成功するなんて、すごいですよ」

 今の内に、信者にラネットキャンセラーを取り付けておくことも忘れない。


「さっきも言いましたけど、鴇野さんが特訓してくれたおかげですから。ありがとうございます」

「あはは、俺たちって感謝し合ってばかりですね」


 もう、笠沙さんは大丈夫だろう。

 彼は失敗を恐れない。絶望に立ち向かえるのだ。


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