11 ハートブレイク



 韮沢瀬名。

 彼女と初めて会話したときは、もう八年前にもなろうとしている。


 その少女は、夜の小さな公園の中、『天体の運行』という噴水の傍らにいた。小さくて、こちらを突き放すような態度で、澄ましていて。

 瀬名は「覚えていないだろうけど」と言っていたが、もちろん覚えている。


 今俺の目の前には、彼女がいる。

 最初に話したときと同じで、全く違う少女が。


 女性の平均身長より随分低い背丈。だが、脚は長い。頭も手も、全てのパーツが小さくて、整っている。出来のいい人形のような精巧な美しさだ。

 目を瞠るほど白い肌は美しく、その反対に混じりけのない黒い髪は、一本一本がさらさらときらめいている。


 大きく丸い瞳は、ただ黒色を湛えていた。そして無感情に伏せられている。麗しい見目が、その無機質さを加速させていた。

 色のない少女だった。黒と白で構成されている。小さく薄い唇の紅色だけが、彼女の持つ色彩だった。




 ▶ ▶




「……あのさ、瀬名」

 そう呼びかけると、彼女はすぐさま反応する。

「先輩、なんですか?」


「瀬名に、ひとつだけお願いしたいことがあるんだ」

「先輩のお願いなら、いくらでも聞きますよ」

「それが……瀬名にとっては、嫌なお願いだと思うんだ」


 白い髪飾りの少女は、少し眉をひそめる。警戒しているらしかった。

「……もしかして、枷を外してほしいとか、外に出してほしいとか、そういったことですか? それはできません」


「ああ、わかってるよ。瀬名にお願いしたいことっていうのは、もう人を消さないで欲ほいってことだ。それさえしないでくれれば、俺は瀬名とずっと一緒にいるし、瀬名が望むならずっと監禁され続けるよ」


 今更言うのもバカバカしいほど、人を殺すことは許されない罪業だ。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ。簡単に踏みにじってはいけない。


 瀬名がこうなってしまった原因は、俺にある。だから、もう彼女の幸福に殉じることは覚悟しよう。でも、人殺しだけはやってほしくない。


「それは、できません」

 瀬名はまた表情を失っていた。黒い絵の具を滅茶苦茶に塗りたくったような瞳をして、生気がない。


「ど、どうしてだ? 瀬名は俺と一緒にいたいから、邪魔だと思った人間を消してるんだろ? それなら、もう消す必要は――」


「だって、邪魔な人を消さないと先輩はわたしと一緒にいてくれないから、ほかの人の方がずっといいから、先輩に見捨てられちゃうから、消さないわけにはいかないんです」

 ダメだ。俺の「ずっと一緒にいる」という言葉を、彼女は全く信用してくれない。


「消すって言ったって……瀬名のやってることは人殺しだぞ?」

「そんなこと、十分承知しています」

 凪いだ海の水面のように、彼女の声は平坦だった。


「別に手段はなんでも良かったんです。刃物でも、鈍器でも、それ以外の何らかでも。ただ、わたしは力がないですし、証拠が残らずスムーズな手段として、これ﹅﹅を選んだまでのことです」


「でも俺と一緒にいるには、それ以外の方法だってあるだろ?」

「……それ以外?」

 瀬名は、心底わからないといったように目を見開く。


「それ以外なんてありません。だって、邪魔な人間がこの世に存在し続ける限り、先輩がわたしを見る理由なんてありませんから。劣っているわたしより、優秀な人を選ぶのは当然です」


 「劣っているわたし」と一緒にいたいはずがない。ほかの人と一緒にいたがるのが自然の摂理だ。それが、瀬名の中で決定されたことなのだろう。

 俺が否定したってどうしようもない。何しろ、彼女の中ではそう決まっているのだから。


「……じゃあ、もし俺がほかの誰かに殺されたら、瀬名はどうする?」

「そんなの、絶対にさせません。先輩にそんなひどいことをするなんて許せません」


「瀬名がこれまで殺した人だって、誰かにとっての大切な人だったんだ。瀬名は、俺が殺されたときの瀬名みたいに苦しむ人を増やしてるんだよ」

「何を言っているんですか? あんな人たち、どうだっていいじゃないですか。わたしから先輩を奪おうとする人なんて、存在していてはいけないんです」


「で、でも、瀬名にだってほかに大切な人はいないのか? たとえば、両親とか――」

「わたしの両親は、もう消しましたよ?」

「……え?」


 俺には、その言葉が理解できなかった。

 いや、彼女の言葉の意味は理解できる。だが、彼女のことがまるで理解できなかった。


「両親だけではありません。相続の際に邪魔になりそうな人間も消しました。わたしの持っているお金だけでは、先輩とずっとずっと永遠に一緒にいるための資金としては心もとないんです。先輩に切り詰めた暮らしをさせるわけにはいきませんし、だから、消しました。これで、何の心配もありません。先輩とずっと一緒にいられます」


 瀬名は笑顔を俺に向ける。まるで今日作った料理について説明するときのように、意気揚々と。


「彼らの持つ無意味な土地や家、車を売り払えば、一生何不自由なく暮らしていけると思います。先輩においしいものをもっとたくさん食べてもらえるし、床だってもっとふかふかに、痛くないようにできます」


 自分の親を殺した?

 俺と一緒にいるために?

 その、資金を得るために?


 それくらいのことで親を殺せるのか?

 金策なんて、いくらでもあるだろう。

 今大金が必要なんて話ではなく、長期的な展望に基づいているようだし。それこそ、生活費なんて働いて稼げばいい。


 しかし、彼女の中には端からそんな選択肢などなかった。恐らく、俺から目を離す時間を増やしたくなかったのだろう。


 そう、そんな理由で。

 彼女は親を殺したのだ。


「彼らが法的に失踪宣告されるまで、少なくともあと七年はかかります。でも、これから先輩と一緒にいる時間に比べれば、そんなの一瞬みたいなものですよね。七年くらいなら、私の持っているお金でなんとかなりますし」


「……どう、して」

 どうしてそんなふうに、平然としていられるんだ?


 しかし、俺の疑問は、瀬名には伝わらなかった。方法を訊かれたと思ったのか、説明し始める。


「セキュリティを厳重にしていますけど、わたしはあの家の構造も、彼らの行動ルーチンも把握していますから。監視カメラの死角も、警備が手薄な時間帯も。痕跡を残さずに消すのは容易でした」


「ど、どうして、家族を殺せるんだ? そんなの――」

 正気じゃない。


「先輩以外の人なんて、みんなどうだっていいんです。消すことで役に立つならそうするべきです。もちろん、カモフラージュのために関係のない人もいくらか消して、無差別さを演出しましたよ? 動機から犯人を探られたら厄介ですから。だから、先輩、安心してください。何も問題はないんです。これで、ずっとずっと一緒にいられます」


 唖然とする俺に、瀬名は笑いかける。

「えへへ、あんな人たち、生かしていても面倒になるだけですし、やっぱり邪魔な人間はみんなみんな消した方が良いんです。先輩とずっと一緒にいるために」

 彼女はなおも話し続ける。


「わたし、ほかの人を消すとすごく安心するんです。すごく落ち着いて、幸せな気分になって、不安だった気持ちも、焦りも、心配も、恐れも、全部どこかに行っちゃうんです。だって、邪魔な人間がいなくなればいなくなるほど先輩に見てもらえるし、必要としてもらえるから。だから、もっともっと頑張って、もっともっと消さないと……」


 人殺しで不安を解消しているのか?

 俺は、ちゃんと瀬名を見てきたつもりだった。こんな監禁にだって従った。


 でも、バイアスに縛られた瀬名には届かない。いつ俺に見離されるのか、気が気ではない。

 だから、彼女の不安はとめどなく溢れ出して、尽きることがないのだ。


「この世からほかの人全員がいなくなれば、先輩はこんなわたしでも必要としてくれますよね?」


 こんなの、もうどうしようもない。複雑に凝り固まった彼女の思考は、全てを拒絶して救いの手を払いのける。あとは破滅を待つばかりの末期だった。


「それに先輩の両親も、もうこの世にはいないんですよ?」

「え……?」


 いない?

 俺の両親が? 父親が? 母親が?

 この世に?


「あんな人たちがいるから、先輩はわたしのことを見てくれないんですよね? だから、みんなみんな消しました。先輩の家族も、友人も、邪魔なものは全部」

 消した。

 殺した。


「……なんでそんなことをしたんだ?」

 思わず語気を強めた俺を、彼女は感情のない瞳で見つめている。

「俺に不満があるなら、俺に直接何かすればいいだろ?」


「だって、先輩は何も悪くないから……こんな出来損ないと一緒にいたくないのは当たり前だから……。でも、邪魔な人を消せば、先輩とずっとずっと一緒にいられるんです。先輩はこんなわたしにも優しくしてくれるから」


 自分の失策に気づいた。

 この状況を維持してはいけなかったのだ。

 彼女の犠牲者が増える一方なのだから。


 刺激しないようにすれば、これ以上彼女に手を汚させずに済む――なんて、間違っていた。

 瀬名はもう人を殺すことに依存していると言っても過言ではない。決定的な破綻に至るまで、止まりはしないだろう。


 俺がもっと早くに手を打っていたら、母さんも父さんも殺されずに済んだ。

 全部間違っていたんだ。


「……どうして、もういない人にそんなに拘泥するんですか? 全部どうだっていいじゃないですか。何にせよ、先輩はもうその人たちに会うことはないんですから」


「どうだっていいなら消す必要だってなかっただろ? 拘泥しているのは、ほかならぬお前自身なんだよ。お前のやってることは支離滅裂だ。何の意味も成していない」


 両親が殺されたという事実が、じわじわと精神を苛んでくる。

 停学の一件以来、彼らとは気まずくなってしまったが、そもそもあれだって瀬名の仕業だった。

 そう、全て彼女に滅茶苦茶にされたのだ。


「……もう、勘弁してくれ。お前、頭おかしいよ。狂ってる」

 全てを終わりにしよう。

 このままこんな毎日を続けていたって、犠牲者が増えるだけだ。


「……わたし、どこもおかしくなんてありません。だって、こうしないと先輩はわたしとずっとずっと一緒にいてくれないから、こうするしかないんです」


「これ以上妄言を聞かせないでくれ。お前は俺の話を聞く気がないんだろ? だったら会話したって無意味だ」

「…………」


「依存できれば誰でもよかったんだろ? たまたま俺がちょうどよかっただけで、お前は自分を褒めてくれる人間なら、誰だって盲信してたよ。自分が求めているものを与えてくれるかどうかだけが大事で、他人そのものは眼中にないからな」


 俺は、瀬名が嫌がるであろう言葉を選んでぶつける。もうこうするしかなかった。


「ち、違います……誰でもいいわけ、なんて……。だって、一緒にいてこんな幸せな気持ちになれるのは先輩だけ……あの日公園でわたしを見つけてくれたのも、今日までわたしと一緒にいてくれたのも、先輩だけ、全部、先輩だけなんです」


「お前みたいな恋に恋してる奴は、どうせすぐに飽きたり冷めるよ。そうなったとき、責められるのは俺なんだろうな。いい迷惑だよ」


「どうしてですか? わたしはこんなにもあなたのことが好きで、大好きで、あなたがいないと生きていけなくて、今にもどうにかなってしまいそうなのに。わたしをわたしたらしめているのは、あなたなんです。あなたから与えられるものだけが幸福で、この気持ちは死ぬまで――いいえ、死んでもなくなることはありません。こうするしかないんです。だって、こうしないと先輩はすぐにどこかに行ってしまうし、もうわたしを見てくれないんです」


 全てが堂々巡りに陥っていた。

 幸か不幸か、俺は終止符を打つ方法を悟っていた。


「お前が何を望んでいるかは、この監禁生活でよくわかったよ。嫌というほど。だがな、俺はもう二度とお前に何も与えない。望み全てに逆らう。お前に応えられる人間なんて、この世のどこにも存在しない」


 目の前の少女は、聞こえているのかどうかすらわからなかった。

 微動だにせず、表情も変えず、ただそこに存在している。


 意を決して口にする。

「――俺は、瀬名なんて大嫌いだよ。もう顔も見たくない」


 瀬名は何も言わなかった。

 ただ俺のことを見つめていた。

 怒りもせず、悲しみもせず。


 その顔に浮かんでいたのは、もうすっかり見慣れたものになってしまった、無表情。黒く塗りつぶされた瞳。


「……先輩」

 彼女は、立ち上がった。


「ごめんなさい」

 静かな声。

 それだけ呟くと、ふわりと背を向けて部屋の外に消えていく。

 その足取りは夢遊病のようだった。


 扉は半開きのままで、いつもあれだけ厳重に掛けていた扉の鍵も掛けていない。


 どさり、と何かが倒れる音。それは、やけに軽い音だった。

 扉の隙間から、床に横たわった瀬名の姿が見える。

 そして、傍らに落ちた血まみれの包丁が。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927861116811487


 彼女の左胸の傷口から、おびただしく鮮血が流れ落ちる。

 急速に血の海が広がっていく。白い服が、赤く染まる。


 白い指先は瞬く間に黒く染まり、肘の辺りまで浸食していくが、それも途中で止まる。瀬名はぴくりとも動かない。ただ血だまりだけが面積を増していく。やがて黒色すらも消え、赤に染まった。


「瀬名……」

 彼女は答えない。答えるはずがなかった。

 部屋にまで鉄臭さが届く。


 自分の胸に――心臓に、刃物を突き立てたのか?

 キッチンに包丁を取りに行って、そのまま、すぐに?


 扉の先で、瀬名が血の気を失っていく。

 大量にぶち撒けられた血液は、床を埋め尽くしていく。すでに彼女の白い衣服は真っ赤になっていた。


 彼女の小さな身体は、床に沈みこんだまま微動だにしない。いや、これから先、二度と動くことはない。


 こうなることはわかっていた。

 もうこれしか彼女を止める方法はなかった。


 瀬名のことが好きだったのに。

 この世で特別と呼べる存在がいるとしたら、それは彼女だったのに。


 あんなこと、言いたくなかった。

 恐らく彼女にとって拒絶の次に嫌な言葉は、存在価値全てを否定するような、劣っていることを詰るものだろう。それはさすがに言えなかった。


 俺も、ここで死を待つばかりだった。

 こうして縛り付けられている以上、そう長くは生きられない。

 もっとも、瀬名はそんなことまで考える余裕はなかっただろうが。


 一体、どうすればこんな結果を避けられたのだろう。

「瀬名……」

 もう一度、彼女の名前を呼んだ。


 どうすれば瀬名を凶行に走らせずに済んだのだろう。

 どうすれば瀬名を幸せにできたのだろう。

 ただ、後悔だけが胸の内に広がる。


 でも、いくら考えたところで後の祭りだった。

 なぜなら、時間は一方通行で、変えられなどしないから――




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