10 サナトリウムの幸福5
瀬名は、毎日毎日三食手の込んだ料理を持ってきてくれる。どうやら一日五十品目を遵守しているらしい。
その上暇さえあれば部屋の掃除をしたり、俺の身の回りの世話をしたり、料理や栄養の本を読んで勉強している。
見たところ休憩する様子は全くないし、どころかあまり寝てすらいない。
今日も、ちゃぶ台の上に様々な本を広げて栄養の勉強をしているようだった。
いつものように正座をして、背筋も正している。
「……瀬名、少しくらい休んだらどうだ?」
「え?」
このところ、全く休んでいるように見えない。
「えへへ、気遣ってくださってありがとうございます」
彼女はうれしそうに笑う。
「わたし、もっと先輩のために頑張りますね」
そう言って、再び勉強に戻る。
「…………」
会話が成立していないような気がする。
「瀬名、最近あんまり寝てないじゃないか」
こんな異常な生活になって気づいたが、彼女は毎日一、二時間くらいしか寝ていない。
「そんなことないですよ。多いくらいです。わたし、最近すごく調子がいいんです。えへへ、先輩とずっとずっと一緒にいられるから。身体もとっても軽くて、先輩のためにいくらでも頑張れそうです」
彼女は笑顔を見せると、またすぐに広げた本に目を落とす。
「睡眠時間なんて、短い方がいいんです。先輩のために頑張る時間が減ってしまいますから。早起きした方が、先輩の朝ごはんの支度に使える時間が増えますし、遅くまで眠らない方が、たくさん勉強して先輩の役に立つことができます」
そんな生活、すぐ身体に不調をきたしてしまう。前から思ってはいたが、彼女は自分が受けるダメージを軽視しすぎている。瀬名が身を削って何かしてくれても、喜べないのに。
「わたしみたいな出来損ないは、ほかの人の何倍も何十倍も何百倍も何千倍も何万倍も頑張らないといけないんです。そうやって初めて人並みになれるかどうかなんです。でもそれじゃまだ足りない……先輩に見てもらえるには、先輩の一番になるためには、その程度では全然足りないんです」
やりすぎだ、と思った。
努力が強迫観念じみている。
「でも、無理をしすぎたら倒れるかもしれないぞ?」
「大丈夫ですよ。それに、さっきも言った通り、今とても調子がいいんです」
暖簾に腕押しといった感は否めなかった。今は若いから多少の無理も通るかもしれないが、消耗していることに変わりはない。
「先輩のために頑張っていると、すごく落ち着くんです。わたし、ここにいてもいいような気がして。むしろ、じっとしていると落ち着かなくて……こうしている間に、どんどんほかの人との優劣の差が開いていくんじゃないかとか、先輩に見捨てられちゃうんじゃないかとか、そんなことばかりを考えてしまって……ただでさえ無価値なわたしが、余計に価値を失っていって、先輩に見てもらえなくなっちゃう……もっと努力して、少しでも先輩の役に立てるようにならないと……」
不安を、努力することで解消しようとしているのか?
別に、優秀じゃないからって興味をなくすはずないし、そもそも瀬名ほど優秀な人間もなかなかいない。
「だから本当は眠る時間も一切必要ないくらいなんです。今は無駄な時間が多いから、良くないんです。わたしは自分の持ち得る限りの時間全てを費やさないと、何の価値もないままですから。もっと頑張らないと……もっともっともっと……」
「か、価値がないなんてそんなことないよ」
「えへへ、そう言ってくれるのは先輩だけです」
瀬名は、やはり笑顔を向けてくる。
「先輩、わたし、もっともっと頑張りますからね。たくさん勉強して、たくさん練習して、先輩に少しでも喜んでもらえるように」
彼女は不安になればなるほど努力で解消しようとするし、うれしいことがあればあった分だけ、俺に喜んでもらおうとして頑張る。努力以外の手段を知らないのだ。
倒れるまで際限なく続けるだろうし、倒れてもなおやめられないだろう。動けなくなるまで。
こんなふうに俺を縛り付けておいてなお、彼女は恐れているのだった。
「……わかっています。先輩はわたしなんて必要ないって」
瀬名は、静かに呟く。
「わたしなんかと一緒にいるよりも、ほかの人と一緒にいたほうが楽しいし、ほかの人と一緒にいたほうが幸せだし、わたしが何をしようが先輩には喜んでもらえないって。わたしより優秀な人なんていくらでもいますし……」
彼女がどうしてそう考えるのか、わからなかった。むしろ、自分の才能や家柄に驕っていてもおかしくないのに。
「瀬名は優秀じゃないか。たとえば勉強だって、校内で一二を争う成績じゃないか」
「学校で一位を取れたって、全国模試では一位を取れません。わたしより優秀な人はいくらでもいます」
「いくらでもって……そんなの数えられるほどだろ?」
な、なんだ……?
全国模試でも一位じゃないといけないのか? そんなの、文字通り全国に一人しかいないじゃないか。
どうしてそんなに上を見ようとするのだろう。どうして妥協しないのだろう。
だいいち、優秀であることがそんなに大事なのだろうか。人を好きになるとき、全国模試で一位じゃないからダメだとか、そんなことを思ったりするものだろうか。そんなはずがない。
「俺だって、別に優秀からはほど遠いし……」
「先輩は魅力にあふれていますから。真面目に古典文学に向き合っていて、勉強熱心で……どんな人でも尊重していていつも周りに気を配っているし、かっこいいし、尊敬できる人です」
良いように良いように言ってくれる。自分に対する異様なハードルの高さとは打って変わって。
「そんなこと言ったら、瀬名だっていつも真面目で気が利くし、すごく頑張り屋で、俺は瀬名のそんなところが好きだよ」
目の前の少女は、うつむいて真っ赤になる。
「せ、先輩は、いつも人を良いように見てくれて、そんなところも大好きです。でも、わたしは出来損ないだから、優秀でないといけないんです」
なんなんだこれは? 認知が歪んでいるとしか思えない。
彼女の中には結論が先にあって、物事全てをその枠組みに嵌め込んでいる。あまりにも根深くて、一朝一夕ではどうにもできなかった。
▶ ▶
監禁生活は、有無を言わさず続いた。
どれだけの日数が経過したかわからない。だが、徐々に肌寒くなっているようだ。
救助の手は未だに来ない。
瀬名をなんとかする手立ても見つからず、現状維持が精一杯だった。
身体の節々が凝り固まって、ぎしぎしと軋む。このところ手足の先の感覚が薄れてきた。いい加減解放されなければ、どうにかなってしまう。もちろん、瀬名に言っても枷を外してくれないが……。
瀬名が料理を持ってくる。俺はどんどん食が細くなる一方だが、そんなことを意にも介さず、多種多様な品数が用意されていた。
そろそろ、何のために食事を摂っているのかわからなくなってきた。
無論、生命維持のためだが、今の俺は生とはかけ離れている。こんな、禁固刑よりも重い刑期を続けるために、
食事はいわば停滞の証だった。
「先輩、どうですか? お口に合いますか?」
瀬名は、いつも通り目を輝かせてこちらを見ている。
「……いや、あんまりおいしくないかな」
気づけば、口からそんな言葉が出ていた。無論、言うべきではなかったが。求められている言葉を、発する気にはなれなかった。
瞬く間に瀬名の顔色は変わる。
「ご、ごめんなさい……」
蒼白になってがたがた震えている。それは、予想していた反応とは違っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼女はうつむいて、自分のスカートをぎゅっと両手で掴む。
「わ、わたし、もっとたくさん頑張りますから、た、たくさん頑張って、こんな……す、すみません、こんな失敗作の料理を出してしまって……全部片づけます。す、すぐに代わりのものを作りますから……。次はこんな出来損ない、作りません。先輩、何か食べたいものはありますか? なんでも用意します」
あまりの恐慌のきたしように、俺は言葉を失う。こんなつもりはなかったのに。
だが黙り込んだ俺に、瀬名はさらに慌てる。
「ご、ごめんなさい、先輩、もうわたしなんかの料理なんて食べたくないですよね? ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、わ、わたし、その、頑張るから、もっといっぱい、頑張って、その、ごめんなさい、ごめんなさい……わたし、どんな罰でも受けますから……」
「い、いや、俺の方こそごめん……もう瀬名の料理を食べないなんて、そんなことないよ」
「ほ、本当ですか?」
彼女は縋るような目で見てくる。今にも崩れ落ちそうな様子だった。
「わ、わたし、頑張って代わりのものを用意しますから……ごめんなさい、ま、待ってもらうことになるんですが、その、急いで作ります。ごめんなさい、失敗してしまった上に、先輩を待たせるなんて……ごめんなさいごめんなさい、わたし、もっと頑張りますから、たくさん頑張ります、先輩の役に立てるように……」
震えが収まらないまま立ち上がると、瀬名は料理を全て片付けて部屋を出ていく。料理を作りに行ったのだろう。
しばらくして、また新たな食事を持ってくる。
「せ、先輩、あの、これ、先輩の好きな生姜焼きです。た、食べてくれますか?」
「ああ……」
「あ、ありがとうございます……わ、わたし、もっと頑張りますから、もっともっともっと……」
彼女は、恐る恐る俺の口元に料理を運ぶ。食べ慣れた瀬名の味は、やはりおいしかった。
白い花の髪飾りを着けた少女は、不安げな表情でこちらを見ている。俺の答えは、もう決まりきっていた。
「おいしいよ。すごく」
瀬名はやっと少し安堵したような顔になる。
「そ、そうですか……よかった。わたし、もうこんな失敗はしません。折角先輩がわたしなんかの作ったごはんを食べてくれるのに、出来の悪いものを出すなんて、そんなの、死んで償うしかないですから。ごめんなさい……あの料理はもう二度と作りません。失敗ばかりしていたら、もう先輩に料理を食べてもらえなくなってしまいますし、無価値なわたしは見離されてしまいますから」
やはり、言うべきではなかった。おいしくないなんて。彼女にとって料理がどれほど大きな意味を持っているか、充分推し量れたのに。
「わたし、もっと頑張らないと……もっともっともっと頑張らないと……」
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