9 サナトリウムの幸福4
眠っていたようだ。
まだ霞んでいる目を擦る――ことは両手が塞がれているので当然無理だったが、どうにか見開いて、俺は息を呑んだ。
瀬名がいた。
いや、それ自体は何もおかしいことはないのだが。その姿があまりにも異様だった。
目が合った。間近にある、その暗い洞のような瞳と。
彼女は目を見開いて、瞬きもせずにじっとこちらを見つめている。能面のような顔で。薄く開いたくちびるに血色はなく、死人さながらだった。
「せ、瀬名……?」
名前を呼ばれて、彼女はにっこりと笑う。
「先輩、おはようございます」
「あ、ああ、おはよう……」
ずっと見ていたのか?
眠っている俺を?
あんな表情が剥がれ落ちた顔で?
「えへへ、先輩、朝の支度をしますね」
瀬名は笑顔のまま部屋を出ていく。
俺が今まで気づかなかっただけで、あんなふうに見つめているのは初めてではないのだろう。
考えてみれば、俺が眠っている間彼女が何をしているかなんて、簡単に想像できたはずだ。
しかし――これから眠りに就くのが恐ろしくなりそうだ。瀬名の視線を意識せざるを得なくなる。
床に座らされたまま眠ったせいで、身体の節々が痛い。
それでも、伸びをすることもほぐすこともできない。こんなんじゃ、じきに不調が出るだろう。瀬名が夢見る永遠には程遠い。
▶ ▶
「先輩、ごはんできましたよ」
瀬名が、出来たての料理をちゃぶ台の上に並べる。これも、何度も何度も繰り返された反復作業。
「…………」
一体いつまでこんな毎日が続くのだろう。食事を摂るだけでもこんな――こんな、手間をかけて。
瀬名はまだ人生を投げ捨ててしまうには早すぎる。どうにかして正気に戻さないと……。
「先輩?」
気づくと、瀬名の顔からは表情が抜け落ちていた。
俺の口元には、スプーンが寄せられている。
しまった、考え込んでいて、ついうっかり口を開けるのを忘れていた。瀬名は、俺に料理を食べさせようとしていたのに。
「どうしてわたしのことを見てくれないんですか?」
静かな声だった。彼女の手からスプーンが滑り落ちる。
「今先輩の目の前にいるのは、ほかでもないわたしなんですよ? それなのに……やっと、やっと先輩はわたしだけを見てくれるって思ったのに、やっぱり先輩は見てくれない……許せない許せない許せない」
うつむいたまま、立ち上がる瀬名。その姿は、異様だった。
「わたしが出来損ないだから、ですか? だから、見てくれないんですか? こんなわたしなんか何の価値もないから、ほかの人の方がずっといいから――」
「せ、瀬名、ごめん、そんなつもりじゃ――」
「先輩に見てもらえないのなら、こんなもの何の意味もありません」
瀬名は床に皿を叩きつける。
がしゃん、と不快な音が響く。割れた皿の破片や、そこに盛り付けられた料理が辺りに散乱する。
「おい、瀬名、そんなこと――」
俺の声などもう微塵も届いていなかった。
「こんなものいらない……何の役にも立たない……全部捨てなきゃ……」
瀬名はぶつぶつと何かを呟きながら、皿を投げていく。用意された料理は、すぐに全てぶち撒けられた。
「消さなきゃ、邪魔な人間はみんな……もっと……跡形も残らずに」
瀬名は、夢遊病のようにふらふらと俺に背を向けた。
「嫌……先輩に見てもらえなくなっちゃう……先輩に見捨てられちゃう……みんなみんな消さないと……先輩とずっと一緒にいられるように……」
そしてそのまま扉の鍵を開錠すると、出て行こうとする。
「お、おい、瀬名! 待てって! 悪かった、俺が悪かったから!」
そんな言葉も虚しく、瀬名は扉の向こうに消えていった。どうにか後を追おうとしても、こんな拘束された状態じゃ何をやっても無理だった。
なんだあれは……癇癪なんてもんじゃない。
いや、俺はとっくに気づいていて然るべきだったのだ。
彼女はもうどうしようもなく常軌を逸していて、どうしようもなく壊れていると。
今度は誰を消すのだろう。
誰が消されるのだろう。
朝霧のときのように、失敗する可能性だってあり得る。あんな様子では、なおさらだ。そのとき、彼女はどうするのだろう。
こんなことを繰り返していたら、世界が完全に壊れかねない。
だけど、それを瀬名に話せば彼女は凶行をやめるのだろうか? そうだとは全く思えなかった。
最早世界の終わりを忌避する感情すら抜け落ちているだろう。下手にラネットに関する情報を与えて、これ以上悪用されるのも避けたかった。
彼女はもう、手段など選ばないだろうから。
床に散乱した料理を見て、余計に気分が重くなる。
まだおいしそうな匂いが漂ってくるのに。
出会ったばかりの頃の瀬名の姿が頭に浮かぶ。
どこか張り詰めてはいたが、真面目で心優しい少女。
それが、どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
▶ ▶
どれだけ時間が経ったか、わからない。ただ、長い時間が過ぎたことだけはわかった。
瀬名は帰ってきた。
その手には、切り分けられたホールケーキがあった。白いクリームと赤い苺の、ベーシックなケーキ。
「えへへ、先輩のためにケーキを焼いたんです。いっぱい食べてくださいね」
「おい、瀬名、今まで一体何を――」
瀬名は俺の口にケーキを押し込む。甘ったるい味が口内に広がった。
「先輩、お味はどうですか?」
彼女はじっと俺を見る。俺の表情を窺うように。
「……おいしい、よ」
そう言うしかなかった。
「えへへ、よかった。まだまだありますからね」
俺の返事を聞いて、彼女はうれしそうに笑う。
「先輩、この間の誕生日に、わたしが作ったケーキをおいしそうに食べてくれましたよね。たくさん褒めてくれましたよね。えへへ、すごくうれしかったです。先輩に喜んでもらえるなら、わたし、こんなケーキなんていくらでも焼きますから。先輩のためだけに。わたしの全部は先輩のためにありますから」
甘い甘いケーキが次々に口の中に詰め込まれていく。
時折紅茶も流し込まれるが、それでも消せないほどのべたつく甘さ。
「えへへ、本当に先輩に出会えてよかった……先輩はわたしなんかが作ったケーキを食べてくれる……喜んでくれる……必要としてくれる……」
砂糖が多すぎる気がした。以前彼女が作ったケーキは、ひかえめな甘さで食べやすかったのに。今は、くらくらするほど糖分が多い。食べるのが困難なほどに。
「……瀬名は食べないのか?」
「先輩のために焼いたんですから、先輩に食べてほしいんです」
にこにことした表情でこちらを見ている。
いつもの彼女と同じ姿。
だが、俺が応えなければ、気の触れた殺人者になってしまう。
空腹だったため、なんとか全て食べ終える。
「えへへ、なくなっちゃいましたね」
空になった皿を見て、瀬名は笑みを浮かべる。
「先輩に気に入ってもらえてよかったです。わたし、また作りますね。先輩にもっと喜んでもらえるように、いっぱい頑張ります」
瀬名は唇を重ねてくる。クリームを舐めとるように。
当然、それを拒む選択肢もなかった。
そこで、彼女は初めて部屋を見回して、床に散らばる皿や料理を視界に入れる。
「あれ?」
落ちた皿の破片をひとつ掴むと、不思議そうに考え込んだ。ほかでもない、彼女がやったことなのに。
俺が動けない以上、客観的にも瀬名がやったということは一目瞭然だった。
「わたし、どうしてこんなことをしたんでしょう? お皿の破片で先輩が怪我でもしたら大変なのに……」
覚えてないのか?
「先輩、お怪我はありませんか?」
「い、いや……ないよ」
幸か不幸か。
「ごめんなさい、すぐに片付けますね」
瀬名は手際よく散らばったものをかき集め、床の汚れを拭く。あっという間に部屋は元通り綺麗になった。
「先輩、わたし、もっと先輩のために頑張りますからね」
彼女は笑顔を向けてくる。
「あ、ありがとう……」
▶ ▶
それからは、余計に神経をすり減らす日々が始まった。
今の俺には何もできない。それでも、俺の行動はほかの誰かの犠牲に直結する。だから、絶えず瀬名に幸福を提供し続けるしかなかった。
「えへへ、わたし、先輩とずっと一緒にいられてうれしいです」
相変わらず、彼女は眩しい笑顔を見せる。
「……あのさ、瀬名は前に、色んなところに連れて行ったり抱きしめてくれるから俺が好きって言ってたよな」
「はい。えへへ、少し恥ずかしいですけど……」
瀬名はわずかに視線を逸らして、穢れなく頬を染める。
「でも、今の俺はそういうことができないじゃないか。それなのに、瀬名が俺と一緒にいたいのは、どうしてなんだろうって思うんだ」
「どうしてって……わたしは、先輩と一緒にいられるだけで幸せですから。あなたを見つめているだけで、あなたに見つめられるだけで、この上なく満たされるんです」
この無尽蔵の好意は、一体どこから湧いてくるんだ?
「でもさ、瀬名は……俺のこと嫌いでもおかしくないと思うんだ」
「わたしが? そんなこと、あるはずないです」
「……だって、俺が高三の夏、その……瀬名に、ひどいことをしたじゃないか」
「ひどいこと?」
瀬名は、首をかしげる。
「その……瀬名が、俺の家に来たときに……」
彼女の尊厳を踏みにじるような、ことを。
「ああ――なんだ、先輩、そんなことを気にしていたんですか?」
「え?」
目の前の少女は、大して気に留めた様子もなく、あっけらかんとしている。
「あなたは、何の価値もないわたしを役立ててくれました。ありがとうございます、先輩」
それは、拷問だった。
「わたし、あなたの役に立てるなら、なんだってします。わたしの全部は、あなたのためにあるから」
彼女の口からは、感謝の言葉ばかりが出てくる。可憐な笑顔を、こちらに向けてくる。明らかにそれは道理に反していた
俺が彼女にしたことを思えば、どれだけ面罵され、制裁を与えられても当然だった。それなのに、彼女は俺に微笑みかける。離れようともしない。俺を好きだという言葉にも、嘘は感じられなかった。だからこそ、考えが読めなくて、裏があるような気がしていた。
いっそ、瀬名に拒まれたかった。そうすれば楽になれるし、理由ある拒絶は裏切りではないから。でも、彼女が俺を拒むことはなかった。なぜなら、とっくにこんなふうになっていたからだ。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉が口をついて出てきた。謝罪なんて、俺の自己満足に過ぎないというのに。
「ごめん、瀬名。全部、全部俺のせいだよ」
「どうしたんですか? あなたは何も悪くありません。何も間違っていません。むしろ、あなたはわたしを救ってくれました。あなたに出会えて、わたし、幸せです」
「…………」
「わたし、これからもあなたのために頑張ります。わたしにできることなら、どんなことだってします。あなたに喜んでもらえるのなら。それだけが、わたしの存在価値なんです」
存在価値?
俺に喜ばれることが?
どうしてこうなってしまったんだろう。どこで間違えたんだろう。俺は、最初から瀬名に出会うべきではなかったのだろうか。
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