8 サナトリウムの幸福3
「せ、瀬名は少し疲れてるんだよ。ほら、受験とか色々あるし、ちょっと根を詰めすぎちゃったんじゃないか? 考えが袋小路に入り込んじゃってるんだ」
「……え?」
正直病院に行った方がいいと思うが、言っても無意味だろう。
一回休んだ方がいい。
「そんなに思い詰めることはないって。しばらく休んだらどうだ? 瀬名はいつも頑張ってるから、たまに休息も必要だよ。そうすれば――」
「どうしてそんなことを言うんですか?」
瀬名は目を見開いて、俺を見る。黒く塗りつぶされた瞳には、どこか悲しみがあった。
「違う……わたし、どこもおかしくなんかない……だってこうしないと先輩、わたしとずっと一緒にいてくれないから……だからこうするしかないんです。でも、こうやって縛り付けておけば何も心配はいりません。何も間違ってないし、問題はないんです」
両手をわななかせて、目の前の少女はうつむく。
「今まで先輩は何度もわたしのそばから離れていこうとして、わたし、そのたびに苦しくて苦しくて、どうすればいいのかわからなくて、だから、邪魔なものを消しました。何度も何度も。そうすれば先輩はわたしと一緒にいてくれるし、今だってこうして、どこにも行けないようにしてるから、わたしのことを見ていてくれます。そうしなかったら今頃、先輩はどこかに行ってしまって、二度とわたしのことを見てくれなくなっていました。こうする以外に選択肢なんてないんです」
本当にそれしか選択肢がなかったのか?
ここ最近は――色々なことがあったけど、そうなる前は一緒に平穏に暮らしていたじゃないか。俺だって瀬名とずっと一緒にいたいと思っていた。離れるつもりなんて、毛頭なかった。
なのに、どうして他人を殺して回るなんて、そんなことをしたんだろう。俺の友人知人を無差別に。そんなことをしたら、近い将来足がついて一緒にいられなくなることは目に見えている。逆効果だ。現に、今こうして何もかもが破綻してしまっている。
「瀬名、今まで通り一緒に暮らすだけじゃダメだったのか?」
「わたしだってずっとそうしていたかったです。だから、その妨げになるものはみんなみんな消しました。それなのに……それでも先輩はいつもほかの人を見て、ほかのところに行こうとします。こうして縛り付けておかないと、先輩、もうわたしとは一緒にいてくれませんよね? こうするしかないんです」
今目の前にいる少女のことが、理解できなかった。何もかも。全てが行き過ぎてしまっている。
他人を殺さなければならなかった理由も、こうして俺を監禁しなければならなかった理由も、わからなかった。
俺とずっと一緒にいたいらしいというのはわかる。でも、どこが「こうするしかなかった」のだろう? 行動があまりにも極端だ。ほかにいくらでも方法はあっただろう。
どうして俺の周りの人間を殺すんだ?
たとえば、恋人のいる人間に横恋慕して、その恋人を殺す、というのならまだ理解できる。しかし、彼女が手に掛けたのは、俺の単なる同期や友人知人である。
そんなことをずっと繰り返すつもりか?
地球上の人間すべてを残らず根絶やしにするような、途方もない大業だ。
「だって、そうしないと先輩、こんなわたしなんかと一緒にいてくれないから……わたしのことを見てくれないから……」
瀬名は同じ言葉を繰り返す。
「でも、こうしている限り何も問題はないんです。先輩はわたしとずっとずっと一緒にいてくれるんです」
そんなことのために、人を殺すという罪業を易々と行ったのか? あらゆる罪悪感や倫理観や法と天秤に掛けて、打ち勝ったというのか?
「……瀬名、人を殺したら一緒にいられなくなるじゃないか」
「どうしてですか? だって神庭みたきを消したら、以前よりも先輩はわたしと一緒にいてくれるようになりましたよ? 公園に遅れて来る日はなくなりましたし、なんだったらわたしよりも先に来てくれたり。わたし、すごくうれしかったです、えへへ」
瀬名は屈託なく笑う。
それは、俺の一番好きな表情だった。
だから何を言えばいいのかわからなくなる。
「ほかにも、邪魔な人を消せば消すほど、先輩はわたしを見てくれるようになりました。先輩と一緒に暮らしたりするなんて、昔は考えられませんでしたよね? それもこれも、全部全部邪魔なものを排除したからです」
……彼女がそこまで思い詰めていたなんて、知らなかった。俺にとって韮沢瀬名は特別な存在で、他人に心を傾けるつもりはどこもなかったのに。
俺たちは、もっと話し合うべきだったのかもしれない。しかし、今となっては彼女に何の言葉も通じない気がした。
「わたし、もっともっとたくさんの人を消します。先輩とずっと一緒にいるために。ほかの誰にも邪魔されないように」
普段あまり心に留めていない人間だって、自分のせいで殺されたとなれば忘れられなくなる。つまり、彼女の行為は無意味どころか逆効果だ。どうしてそんなことがわからないのだろう。今更言ったところで、彼女には一切届かないだろうが。
「そ、そんなことしなくても、俺はずっと瀬名と一緒にいるよ」
「……どうしてそんな嘘を吐くんですか?」
瀬名の声から、感情が消える。
「あなたはよくそう言いますし――約束だってしてくれたこともありますけど、結局何の意味もありませんでした。あなたはいつもわたしを裏切るし、わたしから離れていこうとします。わたし、全部わかっているんですよ? こんな出来損ないなんかと一緒にいたくないんですよね? ほかの人と一緒にいる方がよほど楽しいんですよね? だからわたしのことを見てくれないんですよね? わたしに嘘なんて吐かないでください」
彼女はもう俺のことを信用していないのだった。
こちらに好意を向けているのは純然たる事実だろう。しかし、そこに信頼はない。だからこそ、こんなふうに監禁している。
▶ ▶
俺の監禁生活は、あたかもそれが日常になったかのように過ぎていった。当然俺は一切動けないので、部屋の壁際で置物になっているしかない。
さすがに失踪した事実は、誰かに知られただろうか。安曇大学の行方不明者一覧に、鴇野孝太郎という名前も連なっただろうか。
連続失踪事件にもうひとり犯人がいるということは、民俗学同好会の面々もそろそろ悟っていてもおかしくない。
だが、朝霧の目撃情報は俺が握りつぶしてしまったし、瀬名に辿り着くのは用意ではない。
それに、万が一瀬名が尾上たちに捕まっても、俺を監禁しているとは話さないだろう。無秩序な殺人者たる瀬名は消され、俺はこの部屋で野垂れ死ぬのを待つばかりだ。餓死も衰弱死も、嫌な響きだった。
自分の死は最悪百歩譲っても、瀬名がそんなふうに死ぬのは避けたく思ってしまう。できることなら俺がなんとかしたい。あんな殺人鬼、消した方が社会のためとはいえ……。
今いる場所の詳細はわからないが、探索の手がここまで伸びるのは望み薄だ。正直警察だって、あまりの行方不明者の多さに疲弊しているように見えるし。
では、瀬名の方はどうだろう。さすがに学校に通わなくなれば、教師も家族も心配する。担任が家を訪ねて来るようになる。そこから、彼女が不審なことに勘付かれないだろうか。
とはいえ、そこから彼女が誰かを監禁しているという発想に飛躍するのは、なかなか無理な話だ。瀬名が気取られないように立ち回ったら、何も始まらないし……。
この場所は、瀬名が出入りする際に扉の隙間から見える様子では、一般的な家屋のようだ。だが、人の気配が極端にしない。外からも、あまり音が聞こえない。
やはり瀬名の実家ではないと思うが、一体どこなんだ?
救助の道は、か細い糸のようだった。
俺は、同じ部屋にいる少女に目を向ける。彼女はちゃぶ台に向かって何かを勉強していた。受験勉強であればよかったのだが、栄養学の勉強だという。曰く、「その方が先輩に喜んでもらえますよね?」だという。
瀬名の行動も、だいぶルーチンワーク化されてきた。一日中俺の世話に勤しんで、暇さえあれば何かしている。概ね勉強していることが多い。
買い物や料理、その他部屋の外に用があるとき以外は、常にこの部屋にいる。
一日三回の食事は、毎日欠かすことはない。彼女も慣れてきたのか、タイミングよく俺の口元に箸を寄せる。そして。「先輩と一緒に食べるごはんはおいしいです」と。微笑むのだった。
彼女は、緑茶を口に運ぶ。
「このマグカップ、気に入っているんです。えへへ、先輩がプレゼントしてくれましたから」
犬の足跡のマークがついた、マグカップ。確かに、俺が贈ったものだ。一緒に出かけた際に見かけて、瀬名に似合いそうだと思ったから。
「えへへ、先輩からもらったものは、全て大切に保管しています。……あ、昔もらったものは、全部捨ててしまいましたが。犬のぬいぐるみも、腕時計も、全部大事なものだったのに……」
彼女はマグカップをちゃぶ台の上に置くと、うつむく。
言われてみれば、昔そんなものをあげた気がする。そうか、捨ててしまったのか。
「あの頃のわたしは頭がどうかしていました。先輩から折角もらった大切なものを壊してしまうなんて……。今思い返してみても、あまりの軽忽さに寒気がします。きっと、どうにかして先輩を拒絶しようとしていたんですね。でも、そんなの端から不可能でした。だって、わたしはあなたがいないと生きていけないんですから」
「…………」
正直今の瀬名が一番頭がどうかしてると思うが……。
「もう、先輩からもらったものを粗末に扱ったりしません。ずっとずっと大事に取っておきます」
事こうなってしまっては、彼女に何かを贈ることもできない。
瀬名は、俺と一緒に出かけるのが好きだと言っていた。甘いものを食べに行ったり、行ったことのない場所を訪れてみたり。
ほかにも、俺に頭を撫でられたり、抱きしめられるのが好きだと話していた。
今この状態では、そのどれもが不可能だ。
それでも、いいのだろうか。俺と一緒にいられるのなら。
とはいえ、外界につながるようなことを除けば、瀬名は大抵の要望を聞いてくれる。
たとえば俺が古典文学を読みたいと言えば、眼前で本を開いて、丁寧に一ページずつめくってくれる。手枷を外してふつうに読んだ方が早いという言葉は、胸の内に仕舞っておくが。
瀬名にとって、そういった手間は一切苦にならないようだった。全て喜んでやってくれる。
俺の方が忍びなくなって、朗読CDを代わりに流してくれるよう頼む始末だ。当然のように、彼女は全て用意してくれた。
瀬名は、極力この部屋にいる時間を多くしているようだった。
「部屋の外にいるときでも、いつもカメラの映像を確認しています。先輩の姿を見ていると、先輩と一緒にいるような気分になれるんです。えへへ、携帯電話からも見られるようにしてあるんですよ? だから、外出しているときでも先輩とずっとずっと一緒です」
相変わらず、言葉に詰まるような執着度合いだった。確かに、俺も以前は瀬名の姿を見るとほっとした。一緒にいると安らぐし、彼女の笑顔は幸福をもたらす。
だが、彼女のそれは明らかに俺とは程度が違うし、理解の範疇を超えている。
何が瀬名をそんなに駆動させているのだろう。ほかの人間と、俺のどこが異なるのだろう。
「先輩、わたし、先輩の望む人間にはなれないけど、でも、先輩に喜んでもらえるようにいっぱい頑張りますね。先輩は、明るくて頭が良くて大人っぽくて才能や魅力にあふれた、容姿端麗な人が好みかもしれませんけど、先輩はもうわたししか見ることができないんですから。だから、もうほかの人のことなんて考えてはダメですよ?」
「あ、ああ……」
そんなふうに、一日は過ぎていく。
夜、勉強やら家事やらが一段落すると、瀬名は抱きついてくる。膝の上に乗ってきて、ただじっとそうしている。
たまに、彼女はそのまま寝入ってしまうことがある。わりと早い時間に目を覚ますが、彼女が起きるまでは、その矮躯の、軽いが確かな重みと、小さな寝息を間近に感じる。
なんだろう――この生活は、本当に。いつまで続くのだろう。
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