7 サナトリウムの幸福2


 瀬名が部屋から出ていくと、肩から力が抜けていく。彼女と一緒にいると、どこか緊張感があった。地雷原の上を歩いているようなものだから。


 とはいえ――俺は視線を上に向ける。

 天井からこちらに向けられている、硬質のレンズ。

 いつでも見ている、ということなのだろう。


 だが、音はどうなのだろう。カメラではそこまでカバーできないはずだ。

「瀬名」

 試しにそう呼んでみると、いくらかの時間も経たないうちに扉が開き、彼女が現れる。


「先輩、どうかしましたか?」

「…………」

 カメラはもちろん、音声の面でもばっちり監視されているらしい。恐らく盗聴器が仕掛けられているのだろう。


「……いいや、呼んでみただけだよ。わざわざごめんな」

「ふふ、いいんです。あなたに名前を呼んでもらえるの、好きですから。あなたに呼んでもらえるから、こんな自分の名前が好きになれたんです。何かあったら、すぐに呼んでくださいね。わたし、急いで駆けつけます」


 瀬名はうれしそうに部屋を出、鍵を掛け直す。厳重に。部屋の外には出て行けないから扉がどうなっているのかわからないが、何重にも鍵が取り付けられているらしい。仮に俺が手枷足枷を外すことができても、出るのは容易ではないだろう。ましてや、こうして監視されているのであればうかつなことはできない。


 果たして、仕掛けられているのは盗聴器だけなのだろうか? 彼女のことだ、GPSなども仕込んでいたっておかしくない。そういえば「GPSは今後も使い続ける」なんて言っていたし。

 およそまともな方法では抜け出せそうになかった。


 それに、俺が奇跡的に脱出できたところで、あんな精神状態の瀬名がどうなるかは想像に難くない。

 当然俺を追うだろうし、手当たり次第にその辺にいた人間を殺して回りそうだ。


 ここから逃げ出すには、瀬名をどうにかするしかない。結局彼女になんとか平静を取り戻させるしかないのだった。


 たとえば――また世界の狭間に行くというのはどうだろう。あそこは、半ば禁じ手のような逃げ場所だ。みたきもいるし、両手足の枷をなんとかしてくれるかもしれない。

 だが、問題があった。


――世界の狭間には、簡単に戻って来られないわよ?


 あのグランドホテルの廊下が世界の狭間に繋がったのは、朝霧と秋萩の時間移動がトリガーになったようだ。相当世界の歪みが生じないと、行くことができない。


 俺の手ではそこまで時間を操れないし、そもそも世界に大きな歪みを生じさせるのは、世界を崩壊させる恐れがある。俺ひとりのために、そんなことはできなかった。全人類の人生が壊されてしまうのだから。


 万が一世界の狭間に行けたところで、瀬名をどうにかしないといけないという問題は付き纏うし。まさか、あんな大量殺人者を放置したまま、俺だけ逃げるわけにもいかない。


 このまま、彼女の言う通り永遠にここにい続けるというのはどうだろう?

 瀬名はそれが一番幸せだと言っていた。


 俺は、いつか学校で見た瀬名の姿を思い出す。

 そして、朝霧の言っていた瀬名の姿を。


 きっと、俺と一緒にいないときの瀬名は、ああ﹅﹅なのだろう。

 あの、表情が全て抜け落ちた人間味のない存在なのだろう。


 彼女は、俺が関わった人間を殺して回っていた。だから、俺がここでずっと監禁されていれば、もう人殺しはしないんじゃないか?


――わたしは今が一番幸せなのに。あなたと一緒にいられればそれでいいのに。


 人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだ。全ての人間は十把一絡げに、いい学校に進学し、いい仕事に就き、社会貢献しろだなんて、もちろんそんなはずはない。


 これが瀬名の幸福だというのなら、俺はそれに応える責任があるのかもしれない。

 少なくとも、瀬名を下手に刺激するよりかは、安全そうだ。

 事態は長期的な対応を要する。ひとまずは波風立てないように、彼女の幸福の実現に準じよう。




 ▶ ▶




 この生活が始まってから、瀬名は基本ずっとにこにことした表情を向けてくる。

「先輩、空調が気になるようでしたら、いつでも言ってくださいね。今は一般的に過ごしやすいとされる、温度二十六度、湿度五十パーセントを保っていますが、大事なのは先輩がどう感じるかですから」


「あ、ああ……ちょうどいいよ」

「えへへ、よかったです」

 彼女は笑い声を漏らすと、唇を重ねてきた。


「あなたと話すようになってから、もう七年が経ちます。あと少しで、わたしの人生の半分以上に達します。でも、もうとっくにわたしの人生はあなたがほとんどを占めているんです。あなたに出会うまで、わたしの人生には何もありませんでしたから」


「え? 瀬名は俺と出会う前から、色んな賞を総なめしてたりしたじゃないか。特に、絵に関してはすごい才能で――」


「絵? あんなものにかかずらっていた時間は、全部無駄でした。だって、あんなものいくら描いても先輩は喜んでくれませんから。わたしはそれよりも、家事や、そういったことに取り組んでいればよかった。そうすれば今頃もっと先輩に喜んでいてもらえただろうに」

 それは、冷めきった声だった。


「ああ、でも、これからは――ううん、これからもたくさん練習します。時間は無限にありますし、これからは毎日毎食先輩にわたしの作ったごはんを食べてもらえるんですから」

 瀬名は微笑む。


 全部、無駄? 絵が? 俺に――喜んでもらえないから?

 なんだそれは? あんな傑出した才能を持っていたのに。

 もしかして、彼女が絵を描かなくなったのは、俺のせいなのか?


「あなたに最初に公園で話しかけられたとき、わたし、すごくうれしかったんですよ? あなたはもう覚えていないかもしれないけど、わたしは今でもはっきり覚えています。だってそれくらいうれしくて、ずっと思い返していたから」


 そういえば、そんなこともあった。あのときは、小さな女の子が夜ひとりで公園にいるのが気がかりで、放っておけなかった。

 ……でも、今からしてみればそれは間違いだった。俺は瀬名と親しくなるべきではなかった。


「あなたがまた来てくれたときも、すごくうれしかった。その次も、そのまた次も、あなたが初めて家まで送ってくれた日も、画材屋に連れて行ってくれた日も、初めて遠くまで遊びに行った日も、全部全部わたしにとって特別なんです。あなたの仕草や、話したことも、何もかもはっきりと記憶に残っています。全部全部日記につけているんですよ? 細大漏らさずに。あなたのことだけを書いた日記帳は、もうすぐ五十冊になります。一緒に暮らしていると、書くことが多くて」


 時折鍵付きの日記帳に、何かを熱心に書いていると思っていたら、そんなことを書いていたのか……。しかも、結構分厚い日記帳なのに、五十冊なんて……。


「わたし、すぐにあなたのことだけを考えるようになっていました。すぐに、あなたなしでは生きていけなくなりました。わたし、思うんです。きっとわたしは先輩と出会うために生まれて来たんだって。だって、こんなに幸せな気持ちになるのは、先輩と一緒にいるときだけですから。えへへ、先輩に出会えてよかったです」


「そ、そんなに思ってくれているのはうれしいけど、でも、なんで俺なんだ? 俺は瀬名に何もしてやれてないし、むしろ――」

「何もしてないなんて、そんなことあるはずないです」

 語気の強い声が、俺の言葉を遮った。


「だって、先輩だけがわたしのことを見てくれるんです。わたしのこと褒めてくれるし、いつもお話してくれるし、いつも笑いかけてくれるし、わたしの話をちゃんと全部聞いてくれるし、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントもくれるし、色んなところに連れて行ってくれるし、わたしの好きなことをしていいって言ってくれるし、お菓子だって食べていいって言ってくれる。一緒にいて楽しいって言ってくれるし、いつも会いに来てくれるし、夜出歩けば心配してくれて、勉強していたら休憩するよう言ってくれて、いつも一緒にごはんを食べてくれるし、わたしの作ったごはんを食べてくれるし、寝る前にはおやすみって言ってくれるし、起きたときはおはようって言ってくれるし、帰ってきたらおかえりって声を掛けてくれるし、出かけるときは見送ってくれるし、頭を撫でてくれて、抱きしめてくれて、いつも気にかけてくれます」


「そ、そんなの全部当たり前だろ?」

「当たり前なはずないじゃないですか。そんなことをしてくれるのは、先輩だけです」

 瀬名はそう言って抱き着いてくる。

「えへへ、先輩、大好きです。ずっとずっと一緒にいましょうね」


「……あのさ、瀬名は今までそう思ってること、俺に言わなかったよな」

 こんな……常軌を逸した感情を向けられているなんて、今まで全く知らなかった。俺がほかの人間と仲良くすることが嫌なことも。


「こんなこと言ったらきっと先輩に嫌われちゃうと思って。でも、もう先輩はどこにも行かないから。わたしとずっとずっと一緒にいてくれるから。だから、もう隠す必要なんてないんです」


 言ってくれたら、できる限り彼女に合わせたのに。人殺しされるくらいだったら、そちらの方が余程マシだ。


「これで先輩はわたしだけのものなんです。先輩はもう、わたしがいないと生きていけないんです。毎日わたしがごはんを作って、毎日わたしが身の回りの世話をしなきゃ、死んでしまうんですよ? わたしを必要とせざるを得ないんです」


 瀬名は、俺の背に回した腕に力を込める。だがその腕は細く、冷たかった。

「わたし、先輩のお嫁さんになるのが夢だったんです。中学生のときから、ずっと」

「え……?」


「でも先輩がわたしを選ぶことはないし、こうしているのが一番だってわかりました。だってわたし、今が一番幸せなんです」

 夢? それが、瀬名の?


「今から思えば、そんなものに憧れるなんて、子どもじみていてバカげていますよね。結婚なんて所詮書類上の契約に過ぎません。本当に愛し合っていなくてもできますし、いくらでも簡単に離婚できてしまいます。わたしの両親を見ればそれがよくわかります。その程度のものじゃずっと先輩をつなぎとめておくことなんてできません」


 それも、知らなかったことだ。確かに、俺のことが好きなら、俺と結婚したいという考えに行き着く可能性はあるが……。

 そうか、瀬名は俺と結婚したかったのか……。


 ……毎日料理を作るのも、掃除や洗濯やその他家事を行うのも、それらが彼女の考える「お嫁さん」だからだろう。

 だが、瀬名はその夢を切り捨てた。俺の知らない間に。


「でも、こうしていれば先輩と一生一緒にいられます。えへへ」

 彼女はうれしそうに笑顔を向けてくる。


「こんな幸せがずっとずっと終わることなく続くなんて、それこそ夢みたいです。わたしのこれまでの無価値な人生は全部このときのためにあったんです。えへへ、先輩に出会えたことだけは、わたしの人生の評価点です。他に何もいらない、先輩とずっとずっと一緒にいられるなら、それ以外何もいらないんです」


 執着を煮しめた後に残るくず物のような異常な姿。

 どうしたら彼女を正気に戻せるのか、わからなかった。


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