6 サナトリウムの幸福1
俺が閉じ込められた白い部屋は狭く、見回してもやはり窓はなかった。恐らく納戸か何かだろう。出入りするには、鍵がかかった扉を通るしかない。
部屋の中には物が極端に少なく、元々使われていなかったと見られる。
にしても、ここはどこなんだ……?
当然俺が住んでいたアパートではないし、見覚えのない場所だ。瀬名の家だろうか。
しかし、実家ならば当然ほかに居住者がいる。そんなところを監禁場所に使うとも思えないが……。
そもそもどうやって眠っていた俺をここまで連れてきたのだろう。瀬名に訊いても、答えてくれるはずないが。あり得るのは、超大型キャリーケースに眠っている俺を詰め込んで、タクシーか何かで運んだとか……考えても詮無きことか。
どうして、こんなことに……。
あまりにも色々なことが起こりすぎて、思考がついていかない。
自分が一体どこで誤ったのか、何が原因でこうなってしまったのか、見当がつかなかった。
身動きをしようとしても、両手と両足を縛る枷は硬かった。これを外そうとするには、相当の怪我を覚悟しなければならなさそうだが、それでも外せる確証はなかった。
「先輩、お待たせしました。ごはん、できましたよ。ずっと食事を摂っていないから、きっとおなかがすきましたよね?」
瀬名が部屋に戻ってきて、脇にあるちゃぶ台の上に皿を並べていく。このちゃぶ台は、俺の部屋にあったものだ。持ってきたのだろう。
しかし俺は両手が動かせない。
どうするのかと思ったが、瀬名はスプーンでおかずを取ると、俺の口元に近づけた。
「先輩、どうぞ食べてください。先輩の好きなものだけを作ったんです」
「…………」
彼女はにこにこと俺を見つめている。
「……なぁ、瀬名、せめて食事中だけでもこれ、外してくれないか? 解くのは腕の拘束だけでいいからさ。それなら逃げられないし――」
「そんなの、できません」
そう言う彼女の顔からは、また表情が抜け落ちていた。瞳は黒く、肌は血の気を感じさせない白。赤みを失った唇が動く。
「どうしてそんなに逃げようとするんですか? そんなにわたしと一緒にいたくないんですか? わたしのことを騙そうとしないでください。どうせわたしが先輩を信じて枷を外したら、先輩は逃げ出して二度と戻ってこないんでしょう? そんなこと、絶対にさせません。先輩はずっとここにいるんですから。ずっとずっと、永遠に」
「い、いや、逃げ出すなんて――」
「嘘を吐かないでください。いいんです、先輩がどれだけわたしと一緒にいたくなくたって。だって、こうして縛り付けておけば先輩はいくら逃げ出したくてもできません。ずっとずっとわたしと一緒にいるしかないんです。選択肢なんて残っていないんですよ? だから絶対に外しません。そうすれば先輩は永遠にわたしだけのものなんですから」
一切感情が乗っていない声で瀬名はまくしたてる。
「ここにいる限り、先輩はわたしの作ったごはんしか食べることができないんですよ? ほかの人が作ったものなんて、もう二度と口にできないんです。わたしの作った食事を摂らなければ、先輩は死んでしまうんです。だから嫌でも先輩はこれを食べないといけないんですよ? 早く口を開けてください」
「……わかったよ、ごめん」
そう言うしかなかった。もう彼女には何の言葉も届かない気がした。
料理はいつも通りの瀬名の味付けだった。だしの効いた繊細な味で、とてもおいしい。
「先輩、お味はどうですか?」
「……すごく、おいしいよ」
返事した瞬間、瀬名の顔は明るくなる。心底嬉しそうに目を輝かせる。
「本当ですか?」
「あ、ああ……」
「えへへ、よかったです。先輩に喜んでもらえて……」
それは、普段の瀬名の表情だった。
「先輩、気に入ってくれたのなら、好きなだけ食べてくださいね。まだまだありますから」
彼女は俺の嚥下を見届けると、三口目を持ってくる。俺はただ、口元に運ばれてくるごはんを食べるだけだった。
おいしいはおいしいが、如何せん食べ方が不自由極まりない。食事の味を満喫するどころの話ではなかった。それでも、どうにか用意された分を食べ切る。
だが、瀬名は別の皿を引き寄せる。
「先輩、こっちにもまだありますから」
「そ、それは瀬名の分だろ?」
同じ料理がふたつの皿に同じように盛られていたら、当然それは人数分取り分けたということだろうに。
「そんなのどうだっていいです。全部全部全部先輩のために、先輩に喜んでもらうために作ったんですから、先輩に食べて欲しいんです」
「ご、ごめん、もうおなかいっぱいだから」
「そうですか」
少し残念そうな顔をしながら、彼女は手つかずの皿の料理を食べ始める。
「えへへ、先輩と食べるごはんはすごくおいしいです」
瀬名はうれしそうに微笑む。
ゆっくり俺に一口ずつ食べさせた後だから、料理なんてとっくに冷めているだろうに、そんなことは眼中にないようだった。
「これから、毎日三食ずっと先輩と一緒に食べられるなんて、とっても嬉しいです。わたし、もっともっと先輩に喜んでもらえるように、もっともっと頑張りますね」
その笑顔は、やはりまともじゃないと思わざるを得なかった。
「先輩、食べたいものがあったら、言ってください。わたし、すぐに用意しますから。決して先輩に不自由はさせません」
不自由。それはなんとも面白い言葉だった。今ここに、不自由以外の何があるのだろう。
▶ ▶
食器を片付けた後部屋に戻ってきた瀬名は、俺に抱き着く。
「えへへ、先輩、先輩……っ」
俺の胸に顔をうずめて、大きく息を吸い込んでいる。
「先輩とこうしてずっと一緒にいられるなんて夢みたいです。えへへ、これでもう何も心配しなくていいんですよね? 先輩はどこにも行けないし、ずっとずっと瀬名のことだけを見てくれるんです。わたしのことがどうでもよくなっても、いくら嫌いになっても、もう先輩は瀬名と一緒にいるしかないんですから」
それはとてもあどけない姿で――制動機が壊れたようだった。
「えへへ、もっと早くにこうしておけばよかった。わたし、どうして気づかなかったんでしょう? そうすれば、もっと先輩と一緒の時間を過ごせたのに。でも、そんなの些事ですよね。だって先輩はこれから永遠にわたしと一緒にいてくれるんですから、これから先の時間に比べれば、これまでの時間なんて一瞬みたいなものですよね」
永遠なんて……こんな生活、ずっと続くはずがない。すぐ破綻をきたすのは目に見えていた。だが、彼女の眼中にはないようだった。
「えへへ、先輩、すごくあたたかい……」
弾んだ声で瀬名は俺に身体を預ける。
「先輩、先輩、先輩……」
一体どうすればいいのだろう。どうすれば、こんな状況を打開できるのだろう。
▶ ▶
この部屋での生活が始まって、数日経った。瀬名は毎日三食料理を運んでくるし、スプーンで食べさせるのも変わらない。
「瀬名、学校には行かないのか?」
「え?」
この部屋には窓も時計もない。恐らく、彼女にとって邪魔だったからだろう。
おかげで時間はわからないが、彼女は几帳面に夕食や朝食を運んでくるから、おおよそどれくらいなのかは判断できた。
俺がどれくらい意識を失っていたのかはわからないが、さすがに何日も何週間も寝込んでいたなんてことはない。夏休みはまだ始まっていないはずだ。
「行きませんよ。だって、行く意味がないですから」
耳を疑った。行く意味がないとは、どういうことだろう。
「学校に通っていたのは、先輩に変に思われないためと、先輩と同じ大学の同じ学部の同じ学科に行くためです」
「え?」
成績が全国トップクラスの彼女にとって、安曇大学は滑り止めの滑り止めの滑り止めになるかどうかくらいのものなのに。
「瀬名の成績ならもっと上の大学に行けるだろ? それに、そもそも瀬名は理系じゃ――」
「どうしてあなたと別の学校に行かないといけないんですか?」
俺と、同じ大学に? そのために、わざわざランクを大幅に落として進学しようとしたのか?
上京が嫌でも、皆原市内にも難関大はある。あまりにももったいない選択だが……。
「わたし、ずっと我慢していたんですよ? 先輩と違う学校になって……。あなたは大学でほかの人と仲良くしているかもしれないって思うと、いてもたってもいられなくなって、だから、GPSを使って、ずっと監視しないといけないんです。だけど、同じ大学に行けば楽になります。GPSは便利だから使い続けますけど、可能な限りあなたと同じ授業を取ったり、同じ校舎にいたほうが、もっと確実に見張っていられます」
瀬名が俺の携帯電話に位置追跡アプリを仕込んでいたのは知っていたが、面と向かって監視していたことを伝えられると、ぞっとしない。
そんなの……ストーカーじゃないか。俺の鞄に盗聴器を縫い込んでいたこともあったし……。
俺を監視して、一体何の意味があるんだ? しかも、同じ家に住んでるんだぞ?
好意が行き過ぎて相手の全てを知りたくなることがあるというのは知っているが、いざ直面すると反応に困る。
「でも、もうそんな必要もありません。これで先輩は、わたしとずっと一緒にいてくれるんですから」
彼女はうれしそうにしている。
「えへへ、先輩を見張っている時間も、先輩と一緒にいる感覚がして好きですけど、やっぱりこうして先輩とお話している時間が一番楽しいです。先輩に見てもらえますし。これからは、この一番幸せな時間だけが続いていくなんて、すごく素敵です」
「で、でも、学校には行った方がいいよ。瀬名は今大事な時期なんだし――」
「……どうしてですか?」
それまではどこか弾んでいた彼女の声から、一気に熱が失われる。
しまった、と思った。しかしもう遅かった。彼女の瞳は暗く淀んでいて、それなのにこちらに真っ直ぐ向けられている。
「そんなにわたしと一緒にいたくないんですか?」
「ちが――」
「わたしとずっと一緒にいるのが嫌なんですか? わたしを遠ざけて、逃げ出す隙を窺おうとしているんですか? 一刻も早くわたしから離れるために。それとも、ただ単にわたしと一日中一緒にいるのにうんざりしたんですか?」
その声に感情は乗っていなかった。見開かれた両目は無機質で、やがて伏せられる。
「どうしてですか? どうしてわたしと一緒にいてくれないんですか? みんなみんな消したのに。邪魔なものは全部。これで先輩はわたしとずっと一緒にいてくれるはずなのに」
うわごとのように、同じ言葉を繰り返す。使い古されたカセットテープのように。
恐ろしかった。彼女のことが。次に何をするのかわからなくて。最早彼女は俺の知る韮沢瀬名ではなかった。
だが、こんなことでみすみす人生の選択を投げ打ってもいいのか? とてもそうは思えなかった。彼女のために、ならない。俺は、思ったことを声に出した。
「だって、瀬名は受験生だろ? 瀬名のためにならないよ」
「どうしてわたしのためだなんて言うんですか? そんな嘘、吐かないでください。わたしは今が一番幸せなのに。あなたと一緒にいられればそれでいいのに。それ以外何もいらないのに」
本当に、幸せなのだろうか? そのすり減って不安定な姿を見ていると、とてもそうは思えない。
「き、きっと親御さんだって心配するよ」
そう言った瞬間、彼女の表情は凍りついた。
「心配?」
彼女はただ俺を見つめていた。何の感情も浮かんでいない顔で。見開いた目を、瞬きもせずにこちらに向けている。
あまりにもその姿が異様で、俺は思わず目を伏せてしまう。
「そんな嘘を吐いてまで、わたしと一緒にいたくないんですか? どうして? 先輩はもうわたしとずっと一緒にいるしかないのに。それ以外の選択肢はないのに」
「わ――悪かったよ。ごめんな」
こんなになるまで、気が付かなくて。
「先輩、わたしとずっと一緒にいてくれますよね?」
その瞳は、責めるでもなく、ただじっと俺に向けられている。
「あ、ああ、もちろんだよ」
そう言うしかなかった。
すると、彼女はいつも通りの見慣れた笑顔になる。まるで、先程までのことが何もなかったかのように。
うれしそうに、抱き着いてくる。
「えへへ、やっぱりこれで先輩は瀬名とずっと一緒にいてくれますよね。もう何も心配する必要はないんです。先輩は、ずっとわたしだけを見てくれるんですから」
瀬名の大きくて丸い瞳が、じっとこちらを見ている。
「わたし、もっと先輩のために頑張りますね」
俺は、ずっと彼女の側にいたのに、こんなふうになっているなんて全く気付かなかった。もっと早く悟れていれば、ここまでひどくはならなかった可能性もある。
だけど、そんな後悔は全て後の祭りだった。
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