5 夢
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わたしは、自室の天井を見上げる。夜の薄闇の中、天井も壁も一面真っ白だった。今わたしが横たわっているベッドも、布団も、白一色。
今日も先輩と公園でお話した。最早、彼に家まで送ってもらうのは当たり前になっていた。
そっと腕の中に抱えた犬のぬいぐるみに込める力が、強くなる。相変わらず、デフォルメ化されたダックスフンドはふかふかだった。
先ほど先輩に言われた言葉が、頭をよぎる。
――瀬名はしっかりしてるし、いいお嫁さんになりそうだけど。
「…………」
その言葉を、何度も反芻する。
お嫁さん……わたしが?
それは、考えたこともない発想だった。
将来のことなんて、考えても仕方がなかった。
わたしは今目の前のことで精一杯なのだから。
誰かと結婚するなんて、そんなのは遠い未来の話だった。わたしを好きになってくれる人がいるとも思えなかった。
いいお嫁さん……。
本などでよく見る家庭をイメージする。
マンションの一室。薄いレースのカーテンが掛かった窓からは、あたたかな日差しが差し込んでくる。
そこで、夫婦や子どもが暮らしている。
きっと笑顔にあふれた家庭なのだろう。
そして、そのお嫁さんに自分を当てはめてみる。
なんだか変な感じだ。
しっかりしたいいお嫁さんに――なれるのだろうか?
上手く想像できない。
だいいち、誰と?
そこで、ふと。
先輩の顔が浮かんでくる。
もしも――もしも、先輩のお嫁さんになったら。
きっと、家に帰るのが嫌ではなくなるだろう。
もう夜が更けても先輩と別れる必要はない。家で先輩の帰りを待って、「おかえりなさい」と出迎えるのは楽しそうだ。
お嫁さんになったら、きっと毎日先輩のためにごはんを作るだろう。健康を考えて、バランスのいいメニューにして、でも忘れずに先輩の好きな料理も作って。
そして、先輩と一緒にごはんを食べる。毎日。
朝起きたら先輩に「おはよう」と言って、寝る前には「おやすみ」と言う。休みの日には、どこかにお出かけするのもいいけど、家でのんびりするのも悪くないだろう。先輩と、一緒に。
お嫁さんになったわたしは、先輩のためにお掃除したりお洗濯したり、たくさん家のことをする。外で疲れて帰ってきた先輩が、ちゃんと休めるように。家事は大変だろうけど、先輩の喜ぶ顔を見られると思えば、苦ではないはずだ。
こういうの、古風すぎるって先輩は笑うだろうか? でも、きっと悪くない。楽しい、気がする。
そうして、先輩と一緒に暮らしていく。先輩と毎日お話ししたり、ときどき出かけたり、甘いものを食べたり。
たまには喧嘩することもあるかもしれない。そういうときは、ちゃんと仲直りできるだろうか? 時間がかかってもいいから、元のようになりたい。
おじいさんおばあさんになっても、いつまでもそんなふうに。
想像すると、なんだか胸が熱くなる。
きっと――きっと、こういうものが、幸福と言えるのではないだろうか?
「……先輩」
それはわたしが抱いた、最初で最後の夢。
希望。
そして、呪い。
⏩ ⏩
身動きが取れなくなって、瀬名に何か錠剤のようなものを飲まされたところまでは覚えている。
恐らく睡眠薬か何かだったのだろう。やがて俺の意識は途切れた。
再び目を開けたとき、周囲は見知らぬ場所だった。
狭い部屋。白い壁に白い天井。家具はおろか物がひとつも置かれておらず、窓もない。
どこだここは……?
そして。
目の前に薄水色のロングワンピースを身に着けた瀬名が立っていた。
咄嗟に立ち上がろうとしたが、できない。両手が後ろで拘束されている。
いや、それだけではない。
両足までもが身動きが取れなかった。
もがいても、枷が自分の身体を傷つけるだけでびくともしない。
そんな俺を、瀬名は無感動に見下ろす。
「最初から、こうすればよかった」
その瞳は真っ黒に塗り潰されたかのように暗く、冷たい。
「せ、瀬名……?」
俺はそのときはっきりと、殺される、と思った。
こんなふうに縛り付けられた状態では、何も抵抗できない。されるがままに嬲り殺される。
彼女はもう何人も殺した大量殺人者なのだ。
彼女はしゃがみ込んで、俺の瞳を見つめる。
「先輩、やっと目が覚めたんですね」
澄んだ声。
「ごめんなさい、痛むところはないですか? 一応、スタンガンの出力は落としたんですが……先輩に万が一のことがあったら、わたし……」
それは気遣いの言葉だった。表情も、いつも通りの彼女である。
「……俺を殺すんじゃないのか?」
「どうしてですか? 先輩にそんなひどいこと、するはずないじゃないですか」
「だ、だったらなんでこんなことを……」
「あなたのことが、好きだからに決まっているじゃないですか」
「……え?」
好きだから?
俺のことが?
「だから、こうやって先輩を縛り付けておかないといけないし、邪魔なものはみんな消さないといけないんです」
「え、ぜ、全部、そんなことのために、今まで、ずっと……?」
「そんなことって……わたしにとっては、それが全てなんですよ?」
それだけのために、人を殺したのか?
邪魔だからという理由で?
俺と付き合っていたみたきを殺したのが、そういう理由だったのならまだ理解はできる。共感はできなくとも、そういう思考回路が存在することは知っている。
しかし、俺の大学の友達は? 同期は? 彼らも、邪魔だという理由で消したのか? 十人以上も?
もっと利益と打算に基づいた理由だったほうがまだ良かった。だって、そんなことに一体何の意味があるんだ? 瀬名との関係に一切影響を及ぼさないのに。
「スタンガンなんて先輩には使いたくなかったんですが、でも、そうしないと先輩、どこかに行ってしまいますよね? もう二度とわたしに会ってくれなくなりますよね? だから、こうするしかないんです」
瀬名は、確かめるように手枷をなぞる。
「これ、とっておきなんですよ? いくら力を込めても、全然外れないでしょう? こういうの、たくさん用意してあるんです。先輩のことを考えていると、気づいたら揃えたくなっていて……」
朝霧を襲うときに使った道具は、その一端に過ぎなかったらしい。
俺の頰に触れる瀬名。その指は痛いほど冷たい。
「これで先輩はわたしだけのものです」
「……これ、外してくれって言っても、外してくれないよな?」
「当然です。だってきっと先輩、逃げ出すでしょう? えへへ、でも、こうしている限りわたしとずっとずっと一緒にいてくれますよね?」
あどけない笑い声を漏らすと、瀬名は唇を重ねてくる。
「…………っ」
彼女が顔を離すまで、俺はじっとするほかなかった。
間近にある一対の大きな丸い瞳が、こちらに向けられる。微かに紅色に染まった頬。その虹彩には、俺が映っていた。
「わたし、ずっとずっと、こうしたかったんですよ?」
彼女は俺のことが好きだと言った。だから、縛り付けて邪魔なものは消すのだと。
「ずっと、瀬名は俺のことが嫌いなんだと思ってたよ」
「どうしてですか?」
彼女は心底意外そうにこちらを見た。
「あなたのことを嫌いだと思ったことなんて、一度たりともないのに」
その端麗な声は、さらに言葉を発する。
「先輩だけなんです。一緒にいてこんなに幸せな気分になれるのは。もっともっと一緒にいたいって思うのは。こんな気持ち、わたし、先輩に出会うまで知らなかった」
少しずつ、その冷たく乾いた唇に朱色が戻る。
「あなたに見つめられるだけで、名前を呼ばれるだけで、わたし、どうにかなってしまいそうになるんです。あなたのことしか考えられなくなって、あなたのためならなんだってできる気がして、すごく怖くて、自分が自分じゃないみたいで、でも、もうあなた無しでは生きていけないんです。あなたのほかには何も要りません。だって、わたしの心をこんなに捕らえるのは、あなただけなんですから」
俺を見つめる瞳が熱に浮かされる。頬は紅潮し、身体から高揚した体温が伝わってくる。
「あなたがいなかったら、わたし、生きていく意味が見いだせずに、死んでいました。あなたに出会うまでわたしの世界は何の意味も色彩もなかった。でも、あなたに出会ってからは違う。あなたはわたしにたくさんのものを与えてくれます。わたしがずっと欲しかったものを――ううん、欲しいと思っていたことにすら気付いていなかったものを。だからわたしの全ては、あなたのためにあるんです」
その胸から決壊した言葉が、濁流となって俺を襲う。今まで彼女が言えずに抱え込んできた思いの丈なのか、切迫した精神の軋みが生むうわ言なのかはわからない。
だが、ひとつだけ確かなのは、彼女はとっくにとうにおかしくなっているということだった。
「だけど、あなたが他の人を見ていると、わたし、すごく苦しくて、殺してしまいたくなって、許せなくて、だから、今までたくさんの人を消してきました。あなたを奪うものは全部排除してきました。そうするしかなかったんです。だって、そうしないと先輩と一緒にいられないから。わたしはあなたがいないと生きていけないのに、あなたはわたしのことを見てくれないから、邪魔なものは全部全部消すしかないんです」
ほとんど一息で長広舌をふるうと、「先輩がいけないんですよ?」と、彼女は同じ言葉を繰り返した。
「でも、わたし、先輩に出会えて良かったです。先輩のいない世界なんて考えられません。ううん、そんなの存在しないんです。先輩がいないのに生きていく意味なんてないから。先輩以外のものなんて全部全部どうだっていいんです。無意味で、無価値で、妨げになるのなら消したほうがいいんです。好き、大好き、先輩、先輩、先輩……」
「せ、瀬名……」
それは愛の告白と言うにはあまりにも常軌を逸していた。依存、執着、耽溺、そのどれもを煮しめて出来上がったような、異常な姿。
ずっとそんなふうに思っていたのか? 俺が知らなかっただけで、韮沢瀬名という少女は本当は
ずっと一緒に暮らしてきたのに、微塵も気づかなかっただけで。
いや、俺は気づかないふりをしていただけだったのかもしれない。彼女が時折垣間見せる別の表情を、深く考えないようにしていただけだったのかもしれない。彼女の思考全てを、理解できないという枠に押し込んで。
「ごめん、俺、瀬名がそんなふうに思ってたなんて知らなかったんだ。でも、俺は別にどこにも行ったりしないし、瀬名をひとりにはしないよ。だから――」
「先輩のことなんて、信用できるはずないじゃないですか」
その声から、再び熱が消える。
こちらに向けられた瞳には何も映っていない。ただ、暗闇だけが広がっている。
「わたし、わかっているんですよ? 先輩はどうせすぐにわたしのことを裏切ります。今まで、いつも、いつもいつもそうしてきたように。今だって、どうせ逃げ出したいからそんな調子のいいことを言っているんでしょう? 本当はわたしなんかと一緒にいたくないのに。お為ごかしでわたしを騙して、隙を伺っているんでしょう?」
有無を言わせない様子で、彼女は言い募る。
「許せない許せない許せない……あなたはいつもそうです。わたし、全部全部わかっているんですよ?」
「ち、違うよ、今まで瀬名を裏切ってきたと感じさせてきたなら、謝る。だけど、俺はそんなつもりは――」
「もうどうだっていいんです。そんな嘘をつかなくたっていいんです。あなたがどう思おうが、何を望もうが。もうあなたに選択肢なんてありませんから。あなたは一生わたしとずっと一緒にいるしかないんです」
彼女には、最早俺の言葉は届かなかった。
「わたし、どうすれば先輩がずっと一緒にいてくれるのか、わからなかったんです。でも、今はわかりました。邪魔なものは全部消してしまえばいいんだって」
そんなことしなくても、俺は瀬名とずっと一緒にいるつもりだったのに。
「えへへ、おかげで先輩は昔よりもずっとわたしと一緒にいてくれるようになりました。わたしは神庭みたきのついでではなくなりましたし、先輩と一緒に暮らせるようにもなりました。毎日すごく楽しいです。これも全部、邪魔なものを消したからです。世界中からわたし以外の全ての人間が消えれば、先輩はわたしだけを見てくれますよね?」
瀬名は、笑顔を向けてくる。
「だけど、それだけでは足りませんでした。結局この世に人間がいる限り、先輩はわたしよりも他の人を選びます。邪魔なものは無限に湧いてきて、止まることはありません。わたしのしてきたことも、全部知られてしまったし……。だから、こうやって先輩を縛り付けておくんです。こうしていれば永遠に先輩は逃げられませんよね? えへへ、ずっとずっと、わたしだけを見ていてくれますよね? だって、ここでずっとこうしていれば、先輩はもう他の人なんて未来永劫見ることはできないんですから」
白い部屋の中、身動きが取れない俺は、瀬名の話を聞き続けるほかなかった。
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