4 六号室の令嬢


 家に帰ると、当然よく見知った少女がそこにいた。

 みどりの黒髪。瞳は鮮やかな空色を湛えている。白い花の髪留めは、とてもよく似合っていた。その頬は、朱鷺色に染まっている。

 楚々とした、かわいらしい少女。


「先輩、おかえりなさい」

 「遠方人にもの申す」――いや、そこにいたのは確かに韮沢瀬名だった。俺がよく知っている少女。


「先輩、こんな時間までどうしたんですか?」

「……ごめん」

「いえ、無事に帰ってきてくれてよかったですが……」

 瀬名は安堵した表情を浮かべる。


「わたし、探しに行こうと思っていたんですよ? 先輩に何かあったんじゃないかって」

 その言葉に一切嘘は感じられない。

 いや、そもそも今までずっと一緒にいて――この一年は共に暮らしさえしたのに。

 敵意も害意も、一度たりとも感じたことなどなかった。


「先輩?」

 瀬名は、俺の頬に触れる。

 一瞬、その細い指先の感触に怯む。殺されそうな――気がした。そんなこと、あるはずないのに。

「随分顔色が優れないみたい……何かあったんですか?」


 まさか、瀬名が大量殺人者で、同好会を内部崩壊させたり、偽の証拠で俺を停学に追い込んで大学進学をふいにした話を聞いたなんて、言えるはずがない。

「あまり無理をしないでくださいね。先輩の身に何かあったら大変ですから」

「ああ……」


「もう遅いですけど、夕食は摂りましたか?」

「いいや、食べてないよ」

「では、今から用意しますね。少し待っていてください」

 瀬名はエプロンを纏うと、キッチンに向かう。


「……瀬名、ごはん食べてないのか?」

「はい、もちろんです」

 もう眠っていてもいい時間なのに……というか、眠っていて然るべき時間なのに。

 ずっと待っていたのだろうか。食事も摂らずに。


 そんなことを考えていると、彼女は笑顔を見せる。

「今日は、先輩の好きな鯖の味噌煮を作ったんですよ。すぐに温め直しますね」

 可憐な表情は、みるみる内に毒気を抜いていく。とても――とても、みたきの話が本当だったとは思えない。


 そうだ、さっきのは夢か何かだったのだ。

 瀬名がそんなことするはずないじゃないか。

 そうだったら、どんなにいいだろう。


 俺は、ずっと恐れていた。彼女の本心を知ることを。

 いつも笑顔で甲斐甲斐しく尽くしてくれる彼女が怖かった。

 だって、瀬名が俺を好きなはずがない。俺を許せるはずがない。


 俺は瀬名の腕を掴んだ。少し力を加えれば簡単に折ることができてしまいそうな、細い腕。


「瀬名、俺、さっきまでみたきに会ってたんだ」

「え? 神庭みたきさんに……ですか?」

 困惑したような表情。


「それで、みたきが言うんだよ。自分を消したのは瀬名だって」

「わたしが? どうしてそんなまた」

「しかもみたきによると、今街で起きている連続失踪事件の犯人のひとりも、瀬名らしい」

「そんな……みたきさんがそう言ったんですか?」


「ああ。さらに、高校のとき、瀬名が古典文学同好会を壊したり、俺を停学させて大学の合格を取り消させたって話なんだ」

「わたし、そんなことなんてしていません。だって、何の意味があるんですか?」


「そうだよな、瀬名がそんなことするはずないよな」

 彼女はにっこりと笑みを浮かべる。

「はい。もちろんです」


 彼女は、嘘をついている。自然、腕をつかむ手に力が入る。

「瀬名、俺を裏切ったのか?」

 目の前にいる少女から、一瞬表情が消える。だが、すぐに元の笑顔に戻った。


「先輩、まさかそんな話を信じているんですか?」

「…………」

「先輩?」

 俺は答えられなかった。


 瀬名は空いている方の手で俺の手を取った。

「先輩、わたしのことを、信じてください」

 彼女は、美しい微笑を浮かべる。誰もが魅了されるような、表情。


「先輩、神庭みたきさんはどこにいるんですか?」

「瀬名……」

「どこにいるんですか?」

 彼女は突き刺すように俺の瞳を見ていた。


 俺が何も答えられないのを見て、

「ふふ、やっぱり冗談なんじゃないですか。あんまりびっくりさせないでください」

「…………」


 携帯電話を操作して、俺は知らない間にインストールされていた位置追跡アプリを見せる。

「瀬名、知ってるだろ? これが何か」

「…………」


「これは、瀬名が――」

「知りません、そんなの」

 その声から、感情が消えた。

「わたしと何の関係があるんですか?」


「瀬名、本当のことを話すつもりがないんだな」

「わたしは本当のことを話しています。先輩が誤った情報を鵜呑みにしているだけですから」


「朝霧、言ってたよ。犯人は背が低くて、黒い髪で、ショートカットだったって」

「そんな人、いくらでもいるじゃないですか」

「ああ。でも、こんなに疑惑の種が重なってるのは、瀬名だけだ」


「先輩は、わたしのこと信じてくれないんですね」

「でも、証拠が――」

「証拠なんていくらでも捏造できますよ」

「…………」


 そりゃそうだ。証拠なんていくらでも捏造できるだろう。やってもいない非行の証拠をでっちあげて、大学の合格を取り下げさせるなんて、赤子の手をひねるより簡単だ。

 そして、それをやったんだろう? お前が。


「わたしが? どうしてそんなことをするんですか?」

 貼り付けたような笑顔で、彼女はこちらを見る。その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。ただ俺の姿を捉えている。

 最早対話は不可能だった。


「いくら言い逃れようとしたって、無駄だ。さっきからお前が言っていることは何の弁明にもなってない。言い訳の仕様もないほど純然たる事実だからだろ?」

「いいえ、違います」


「違うと言うのなら、お前が俺の幼馴染を殺して、俺の事実無根の悪評をばらまいて、部活を滅茶苦茶にして、でっちあげの証拠で俺を停学に追い込んで大学の推薦を踏みにじって、今巷を騒がせている異常な連続殺人者でないという根拠を教えてくれ」


「……やっていないことの証明なんて、不可能です。そんなもの、悪魔の証明なんですから」

「話を逸らすなよ。否認にも証拠は要るんだ」


 俺は、割れた首飾りを取り出した。みたきが如意宝珠などと嘯いているもの。

「お前、これをどこで手に入れたんだ?」

「…………」


「お守りとか言ってたけど、知ってたんだろ? これは黒化を防ぐ特殊なアイテムだって。だから連続失踪事件が始まってから、俺に渡したんだ」

「何を疑っているのかわかりませんけど、全部偶然ですよ」


 俺が一歩彼女に近づくたびに、瀬名は後ずさる。しかし、それも長くは続かない。やがて彼女の背が壁際の棚にぶつかった。


 がしゃん、と瓶が割れる音がした。

 見ると、ハーバリウムのボトルが割れて、中に入っていた花々やシリコンオイルが散乱している。棚にぶつかった衝撃で、落ちてしまったらしい。


 俺が掴んでいる瀬名の腕が、黒く染まっていく。これは、ラネットだ。

 ……俺が、やっているのか? 瀬名に、絶望を伝播させているのか?


「先輩、何をするつもりですか?」

 彼女は、自分の身体が黒色になることにも眉一つ動かさない。

 それは最早、語るに落ちていた。ラネットを知らない人間が、こんな反応を取れるはずがない。さすがに顔色を変えるだろう。


「瀬名、どうしてあんなことをしたんだ?」

「だから、してな――」

「みたきに、俺のことが嫌いだって言ってたそうじゃないか。だからやったのか?」

「…………」


「いくら俺のことが嫌いでも、ほかの人を巻き込む必要はなかっただろ? あんなに多くの人を死に至らしめて。人の生命をなんだと思ってるんだ? 俺は、そんなふうに他人の人生を無下にする人間は許せない」

 彼女は、何も言わない。


「瀬名が、俺のことが嫌いなのはよくわかったよ。そうでもないと、こんなことはできないからな。よく、俺のことが好きだとか言えたな。毎日にこにこしてさ。これまでの全部が、嘘だったんだろ?」


「……わたしは」

 彼女は、うつむいたまま小さく呟いた。

「あなたのことなんて、大嫌いです」

「瀬名――」


「あなたなんてどうだっていいし、名前を呼ばれても褒められても全然うれしくないし、ずっと一緒にいたくないし、あなたの代わりなんていくらでもいるんです。わたしは、他の誰よりもあなたのことが嫌いで嫌いで仕方がないんです。この世にわたしよりあなたが嫌いな人間なんていないんです」


 その平坦な声は、徐々に語気が強くなってくる。

「あなたの笑顔が嫌いです、声が、瞳が、あなたの全てが大嫌いなんです! わたしはあなたがいなくても生きていける、あなたさえいなければ、生きていけるんですから!」


 ああ、もうダメだ、と思った。

 このまま、彼女を殺してしまおうか。

 そうすることは容易いだろう。


「……瀬名、俺、昔言ったよな。お前が俺を裏切ったら、殺すって」

 こんなことになるくらいなら、もっと早く殺しておくべきだった。そうすれば、被害者はもっと少なかった。


 その、片手だけでもつかめそうな細い首に手をかけて、血管を締めて、息の根を止めてもいい。あるいは、気管をふさいで、じわじわ苦しめるのもいいだろう。なんだったら、首の骨を折ってもいい。


 彼女の豊かな色彩を持つ瞳孔が開いて、虚ろに淀んでいき、溢血点が浮かぶさまを見たいと思った。それで、その可憐な笑顔も澄んだ声も永遠に世界から失われる。


 いや、落ち着け。何を考えている?

 平静を保て。そうである限り、俺が彼女を殺すことなんてないのだから。


「……もういい」

 彼女の腕を離す。その白い肌には、赤い跡が残っていた。

 今ここで話していても、事態が好転するとは思えない。むしろ悪化する一方だろう。自分が何をするかもわからない。


 今日はどこか他の場所に泊まろう。大学生が一晩夜を明かせるところなんて、いくらでもある。そうやって数日は時間を空けるべきだ。

「このまま話していても埒が明かない。何日かしたら戻ってくるから」


 背を向け、玄関に向かおうとする。

 だが。


 腰に、衝撃が走った。

 全身が自分の制御下から外れ、その場に倒れ込む。


 自由にならない視界の片隅に、瀬名の姿が見える。彼女の右手には、無骨な機械が握られていた。

 スタンガン……?

 ああ、そうか。これがスタンガンなのか。気絶することはないが、身体中の筋肉が動かない。


 己の失策を悟った。こんな状況で易々と背を向けたのは早計だった。

 瀬名は、暗い空洞のような瞳で俺を見つめていた。

「……先輩」


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