幕間 死に至る恋心


 いつか先輩にもらったエプロン。

 この、俗っぽいほどに家庭的な格好が、わたしは好きだった。自分の役割を規定するから。


 キッチンに立って、食事の用意をする。

 もちろん、先輩のために。メニューも、全て先輩の好物だ。


 わたしはノートに、作った料理のレシピを書いている。食べたときの先輩の反応も添えて。

 反応を五つの指標から分析し、採点を行う。それらから、作った料理の評価を行う。


 料理を食べてもらうたびにこれを繰り返しながら、試行錯誤を重ねる。すると、先輩の嗜好の傾向が見えてきて、彼の好みの味に近づけるという寸法だ。


 先輩に喜んでもらうためなら、これくらい労力の内にも入らない。もっともっと頑張らないと。


 先輩。わたしを見てくれる人。

 その人はもう、わたしだけを見てくれる人になった。


 キッチンの壁に取り付けた小さなモニターに、視線を向ける。そこには、俯瞰視点で先輩の姿が映し出されていた。部屋に設置した監視カメラの映像が見られるのだ。


 そうして先輩を見ただけで、熱い感情の奔流が胸の中に広がる。

「先輩……」

 わたしの、大好きな人。


 買い物に出かけるときも、携帯電話を使ってこまめに監視カメラの映像を確認している。

 熱を持った携帯電話に触れると、先輩と一緒にいる感覚がしてうれしかった。


 部屋に用意しているのは、監視カメラだけではない。

 盗聴器もあるし、先輩の服にGPSも仕込んでいる。


 時折盗聴器に耳を傾けて、先輩の声や息遣いを感じたりする。

 GPSで、微動だにしない先輩の現在位置を眺めては、安らぎを得る。


 先輩とずっとずっと一緒にいられる。

 ずっとずっとずっとずっと永遠に。


 包丁に力を込める。

 ざくざくと。


「先輩……先輩……先輩……」

 彼を呼ぶたびに、自分の中の感情が煮え滾る。ふつふつと、音を立てて沸騰していく。


 十七年間生きてきて、今までこんな気持ちになったことはなかった。

 なんて――幸福なのだろう。

 こうして先輩とずっとずっと永遠に一緒にいられるなんて。


 これからずっとずっと先輩にわたしだけを見てもらえるし、わたしだけとお話してくれるし、わたしだけを必要としてくれる。

 これまで随分回り道をしてきたけど、全て今に至るために必要な道中だったのだろう。


 柄にもなく街を駆け回りたいほどの気分だった、

 でも、この活力は全部先輩のために使わないと。


「先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩……」

 キャベツが、均等に細切れになっていく。

 よく研がれた包丁が、繊維ひとつひとつを断ち切って、バラバラにしていく。分かたれたものは、もう元に戻ることはない。


 先輩のためにしたいことが、山ほどあった。

 もっともっと先輩に喜んでもらうために、もっともっと頑張ろう。


 自分が自分ではなかった。

 ふわふわと浮き足立って、飛んでいきそうなほどの幸福に満ちていた。


 だって、もう何も我慢する必要はないのだから。


 もう本当のわたしを隠さなくたっていい。

 どうしようもなく劣っていて、何の価値もなくて、出来損ないであることも。お父さんにもお母さんにも、誰にも見てもらえないし必要としてもらえないってことも。


 こんなにも先輩のことが大好きで、四六時中先輩のことを考えていて、先輩がいないと生きていけないことも。


 もう期待に応えられなくても見捨てられたりなんてしない。

 もっと優秀なほかの誰かに取り替えられたりしない。

 何も心配しなくていいんだ。


 先輩は、ずっとずっとわたしだけを見てくれる。


 ……本当にこんなわたしでいいの?


 不意に。

 身体が熱を失った。

 高揚していた気分も、弾んだ気持ちも、黒い泥の中に埋もれていく。


 こんな出来損ないが、役立たずが、誰にも見向きも必要ともされない劣った人間が、先輩を無理やり縛り付けるなんて。


 先輩の時間を浪費している。

 先輩の自由を、幸福を、剥奪している。

 何の益も与えないのに、強制している。


 こうでもしないと大好きな人に見てもらえないくらい劣っている、哀れで、出来損ない。

 存在していてはいけない。


 先輩に喜んでもらうことなんてできない。

 先輩の役に立つことも出来ない。

 愚かで、罪深くて、償い切れないほどの過ちで。


 だって、先輩はこんなわたしと一緒にいても何のメリットもないから。

 そんなこと嫌というほどわかっているのに。


 先輩にこんなことしてはいけないのに先輩のためにならないのにわたしと一緒にいたって先輩は楽しくないし必要としていないし幸福にもなれないし喜んでもらえないのにわたしなんかと一緒にいる時間は全て無駄なのにわたしは先輩がいないと生きていけなくて先輩に見てもらいたくて先輩に必要とされたくて出来損ないで今すぐ自らの喉を切り裂くことがわたしが先輩にできる一番のことでそれ以外のことはしてはいけなくてこれ以上迷惑を掛ける前に先輩のために先輩のために先輩の役に立たないとこんなわたしはいなくならないと先輩に喜んでもらうために早く息絶えないと最初からそうだったお父さんもお母さんもそれを望んでいたわたしが生まれてきたこと自体が間違いだったから償わないと許されない誰にも見てもらえない必要としてもらえない先輩にも迷惑をかけてばかりでこんなわたしが先輩を見ることも触れることもすべきではなくて許されない許されない許されない早くわたしはわたしにできる一番のことをしないと先輩のために先輩のために先輩に喜んでもらうために先輩に先輩に先輩に――


 自分の内側の醜悪が、骨も肉も溶かし、皮の内側で蠢いている。どろどろと腐って爛れたものが。

 それはやがて皮を突き破るだろう。目を背けたくなるほど膿が広がる。腐敗臭を撒き散らして。


 頭がぐらぐらと揺さぶられている。

 破裂しようとしている。わたしという形が。


 わたしの皮がしぼむ。

 暗い眼窩には、何も入っていない。眼球はこぼれ落ちて、床に落ちてトマトのように無残に潰れる。


 急に吐き気がこみ上げてきて、必死に抑える。

「先輩、先輩、先輩……」


 気持ち悪い。

 立っていられなくなって、調理台に手をついて必死に支える。


「先輩、先輩……っ」

 息ができない。その呼吸に意味はないから。その生命維持に意味はないから。


 手に持った包丁が、視界に入った。


「わ、たし、は……」

 わたしはわたしにできる一番のことをしないと――


 左腕に刃物を当てて、滑らせる。

 痛みと、流れる血の赤色。


 それを見た途端、気分がやわらいだ。

 内側から外側に向けられた圧力が、なくなったようだ。


 わたしは、少しの間ずっとそれを見ていた。

 滴り落ちる様を、ずっと。


 はっと我に返る。

 いけない、包丁に血液が付着したら不衛生なのに。先輩に食べてもらう料理なのだ。そんなこと、断じて許されない。


 わたしは慌てて包丁を洗う。念入りに、消毒する。

 腕に垂れ落ちた血を拭って、傷口をガーゼで抑える。

 これで大丈夫。何も問題はない。


 監視カメラの映像に目を向ける。

 やはり、先輩はそこにいた。

 わたしと、一緒に。


 早く先輩の喜ぶ顔が見たい。

 早く先輩にわたしの作った料理を食べてほしい。


 ここには幸福が満ちていた。

 先輩と一緒にいるときだけ、わたしは自分の形を保てるようだった。


「先輩……先輩……先輩……」

 わたしは再び野菜の切断に戻った。




 � �




「先輩、先輩、先輩……」

 わたしは自分の手首を、腕を、刃で傷つける。痛みとともに、赤い血が滴り落ちる。


 罰を、与えないと。

 罰を、受けないと。

 痛みが強ければ強い方がいい。

 満足するまで続ける。


 こうして見てみると、傷跡が随分増えていた。白い肌に、赤黒い線がたくさん入っている。


 先輩と離れていると、時折すごく気分が悪くなる。でも、こうやって傷をつけると収まる。

 衛生面を考えて、自分の肌を切る用のナイフまで用意した。

 だから、何も問題はない。


 先輩は、腕におびただしい傷跡がある人間なんて、嫌いだろうか?

 そう考えると、また気分が悪い方向に向きかけて、必死に思考を切り替える。


 何も心配する必要なんてない。

 もう先輩がわたしを嫌いになったり、見捨てたりすることなんてないのだから。

 先輩はずっとわたしのことを見てくれるし、わたしと一緒にいてくれる。

 

 なんて幸福なのだろう。

 ふわふわと心が浮き立つ。


 先輩に出会えてよかった。

 わたしは先輩と出会うために生まれてきたんだ。


「先輩……」

 そう呼ぶと、胸があたたかくなる。

 早く先輩に会いたい。

 先輩に見てもらいたい。




 � �




「……瀬名、その傷、どうしたんだ?」

 ある日突然、先輩はそう言ってきた。視線の先にあるのは、わたしの左腕――


 気づかれてしまった。

 長袖で隠していたのに。少し袖がめくれて、傷跡が顕になっている。


 先輩はやっぱりわたしのことをよく見てくれている。

 すごくうれしいのに、その訝るような視線を向けられて、また自分の肌を刃物で切りつけたくなる。


「……何も」

 わたしは口を開いた。

「何も問題はないんです」

「え……?」


「だって、先輩はわたしとずっとずっと一緒にいてくれるから、ずっと、ずっと、もう妨げるものは何もないから、何も心配する必要はないんです」

「せ、瀬名……?」


「こうしている限りずっとずっとずっと一緒にいてくれる、もうどこにも行ったりしない、何があっても、ずっと。だから大丈夫なんです」


 ああ、早く邪魔な人間を消さないと。

 何かが滞っているとしたら、それが原因だ。


 大丈夫。

 邪魔な人間を消せば何も問題はなくなる。




 � �




「……もう、勘弁してくれ。お前、頭おかしいよ。狂ってる」

 それは、ほかでもない先輩の口から発せられた言葉。


 そんな言葉、聞きたくなかった。耳を塞いで、拒絶したかった。だけど、聞かないわけにはいかなかった。だって大好きな先輩の言葉だから。


 この世界で唯一わたしを見てくれる先輩。

 この世界で唯一わたしとずっと一緒にいてくれる先輩。

 大好きな人。


 そんな先輩は、今わたしにひどい言葉を浴びせている。


 ああ、先輩はわたしと一緒にいたくないんだ。もうわたしなんてうんざりなんだ。わたしなんて嫌いなんだ。


 先輩は誰にでも優しいから、わたしなんかにも優しくしてくれた。だけど、そんな先輩ですらこんなひどいことを言うようになるくらいには、わたしに嫌気がさしたんだ。

 わたしが、出来損ないだから。


 大好きな先輩は、わたしのことが大嫌いだと言った。顔も見たくないと言った。


「……先輩、ごめんなさい」

 最後にそう呼ぶと、わたしはキッチンに向かった。先輩のいる部屋を除けば、わたしが一番多くの時間を過ごしている場所。


 いつも先輩のために料理を作るときに使っている包丁。

 それを手に取ると、自分の胸に突き刺した。それがすごく自然なことであるように思えた。わたしはこうするべきなのだと思った。


 きちんと刃の向きを水平にしたから、肋骨に遮られずちゃんと心臓まで届いたようで、血が勢いよく噴き出す。息ができない。苦しい。


 わたしは立っていられなくなって、床に倒れ込む。身体を激しく打って、また別の痛みが走る。包丁が横に転がった。


 先輩、先輩、先輩、先輩、先輩、先輩。

 先程の先輩の言葉が頭の中に反響する。

 身体中からぶち撒けられたように、血が床に広がる。


 苦しい。すごく苦しい。

 あまりの痛みに、破れた心臓が、全身が、悲鳴を上げている。


 もう、生きていけそうになかった。先輩に拒絶されたら、生きていく意味もなかった。

 苦しみから逃れようと伸ばした手が、ただ床の血液にだけ触れる。


 その指先が黒く染まっていくのが見えた。

 なんて醜悪なのだろう。身体から流れ出すものも、この黒色も。全てが醜悪でできていた。


 先輩、先輩、先輩。

 急速に意識がかすんでいく。


 こんな出来損ないのわたしは、最初からこうするべきだったんだ。

 ずっと昔から悟っていたのに。

 先輩、ごめんなさい、先輩、先輩。

 先輩――

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