四話 流転する時間の先に

前編

1 始まり


 ⏮ ⏮




 俺は、生まれつき長くは生きられないだろうと言われていた。


 当時は幼くて、臓器の欠陥がどうこうとか先天性心疾患とか言われてもよく理解できなかった。

 辛うじてわかったのは、俺の心臓には問題があるということ。


 その頃俺は、心臓の手術のために小児病棟に入院していた。ホスピスとしての役割も担っているところで、難病の子どもばかりがいた。

 親は口にするのを躊躇っていたが、状況が芳しくないのは薄々感じていた。


 ああ、死ぬのか、と思った。

 だが何の感慨もなかった。


 人間の生涯には何の価値もない。生きるのも死ぬのも同じことだ。

 生まれてからたった数年しか生きられない身体を持った俺も、天寿を全うする人間も、終点は同じだ。結局死に至る生命に、何の価値があるというのだろう?


 自分の無意味な人生の幕がいつ閉じようが、変わらない。

 どうせ死ぬのだから、生まれてくることには何の意味もない。

 なんて空ろで、虚しいのだろう。


 こんなことなら、生まれたくなどなかった。

 心配してくる両親も、気遣ってくる親族も、全てが薄ら寒い。同情や憐憫の対象にしないでほしい。ただ、放っておいてほしかった。


 自分でも悟り始めていた。

 死期が近いことは。

 手術が上手くいくかもわからなかった。


 病気なんかに、自分が死に至る瞬間を決められたくなかった。

 手術中に、ろくに知らない医者のミスなんかで命を落とすなんて、ぞっとしなかった。


 俺の死に方くらい、俺が決めたかった。そうすることでしか、自分の人生を自分のものにできないと思った。人間なんて、いつ生まれていつ死ぬかくらいしか、差異がないのだから。

 だから、俺はせめて自分の人生を自分のものとするために、自死しようと思った。


 病室を抜け出して、屋上に向かった。

 空は青く広がっていた。雲ひとつない。つまらない空だ、と思った。


 当然、四方を高いフェンスに囲われていた。

 この矮躯では、乗り越えるには相当骨が折れるだろう。


 しかし今から思えば、仮にこの障害がなくても、身投げしていたかは微妙だった。飛び降りは、死に方として好ましくなかった。もっとこの手で直接死を感じ取れるようなやり方が好ましいのだ。


 それでこそ、俺は人生を自分のものにできたと実感できる。

 この空虚な人生の意味を、少しでも感じられる。

 それこそが、生の実感だ。


 だが、屋上には先客がいた。

 少女だった。


 水色の病院着。肩に掛からない程度の髪は、褪せた虹色――七色ではなく、黄色がかった薄い桃色の、日本の伝統色の方――だった。

 飾り気のない容貌だが、だからこそ生来の造形の美しさが際立った。

 入院患者だろう。ここにいるということは、恐らく俺と同じでもう長くはない人間。


 向こうもこちらを見て同じことを思ったのか、わずかに同情したように眉をしかめると、口を開く。

「何しに来たの? ここは冷えるよ」


 もう全部どうだっていい。

 俺は口を開いた。


「死のうと思ったんです」

「どうして?」

「いつ死ぬのも同じだから。病気より、自分の手によって死にたかったんです」


 どうせ今後関わり合いになることのない人間だろうから、俺は包み隠さず話した。

 今だったら、そんな自分の意図など絶対に表に出さないが。やはり捨て鉢になっていたのかもしれない。


「君も災難だね。人生の意味を悟る前に死ぬなんて」

「……人生の、意味?」


 滑稽な言葉だった。

 俺は、人生に意味も価値もないことを話した。

 どうせ誰しもがいつかは死ぬのだから。


「ふーん。全ての生が等しく無意味だなんて、本気で思ってるの?」

 彼女の声は平坦で、だからこそ苛立たしかった。

 俺が幼いから、きちんと聞き入れてもらえないのだと思った。

 しかし、実際は違った。


「君は、自分が価値ある生涯を送れないと思っているから、全ての人を腐しているだけだ。君が一体人間の何を知っている? そう断定するに足る、根拠があるのかな?」

「…………」


 それは、手痛い言葉だった。

 少なくとも、自殺志願者に向けるような生ぬるい慰めでは、決してなかった。


 価値ある人生も存在すれば、俺の人生は一際無価値になってしまう。だって、何も成すことなく死んでしまうのだから。

 そうなるくらいなら、全ての人生を無価値だと切り捨てたほうが精神衛生上いい。

 そんな自分の矮小な思考を、一瞬で見抜かれてしまった。


「死んだらそれで意味がなくなるの? 随分傲慢で、主観的だね。世界はその後も続いていくというのに」

 世界は、生と死の累積で進んでいく。無数の生命から構成される、群体とも言える。

 逆に言えば、誰しもが世界の構成要素なのだ。


「人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ」

 彼女はにこりともせずに淡々と、全ての人間を肯定する。

「だから無論、君の人生にも価値はある」


 俺は、彼女に反論した。

 それこそ、一体何の根拠があるのかと。

 言い切るからには、根拠がなくてはならないと。


「それは、君の残り数日の人生――あるいは、残り数十年の人生で、考えてみるんだ」

 にべもない答えだった。俺が求めていたものとは、かけ離れていた。


「……誤魔化そうとしてませんか?」

「いいや。結局それは自分で決めるしかないからだよ」


 今ここで彼女に、俺の価値の所在を提示されれば、それで全て解決なのだろうか。いいや、そんなはずない。

 出会ったばかりで何を知っている――彼女が勝手に言っているだけ――そんなの納得できない――と感じるのが目に見えていた。


 それに、他人から価値があると言われれば価値の証明になるのなら、無価値だと言われたら無価値になるのだろうか? それこそくだらない。

 だから、自分で決めるしかない。


「あなたは、一体――」

 幼い俺にも、彼女が特別であることがわかった。

 こんなにも他人に興味を惹かれるのは初めてだった。


 彼女の爽涼とした声が響いた。

白水いずみ絵空えそら。もうすぐ死ぬけど、君の人生にとって価値ある者の名前」




 ▶ ▶




 幸か不幸か、あれから十数年が経った。


 俺は、とりあえず生きようと思った。

 無事手術も上手くいき、更なる時間を得られたことだし。


――人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきなんだ。


 自分も、彼女と同じスタンスで生きてみよう。

 そうすれば、彼女と同じ視座を得られるかもしれない。

 それに、人間の価値や人生の意味がどこにあるのか、わかるかもしれない。


 まだ人間の価値の所在がどこにあるのかは見つからないけど。人間を尊重し続けていたら、いつかは見えてくるはずだ。


 彼女――白水絵空は亡くなっただろう。

 すごく惜しいと思った。あんなに魅力的な人間が、病気なんかに殺されてしまうなんて。




 ⏩ ⏩




 一瞬の視界の明滅の後、目の前にみたきがいた。


 なんだ? これは。

 状況が飲み込めない。


 周囲を見ると、俺が長い間閉じ込められていた白い部屋ではなかった。

 今となっては最早懐かしい、神庭家の蔵。山積みの本も、あの頃のままだ。

 これは、少なくとも五年以上前の光景。なのに刻下目の前に広がっている。


 理解できないと思いつつも、心当たりがあった。


――時間は人の意志で操れるのよ。


 俺は、過去から来た少女を知っている。ならば、その逆。現在から過去に行くこともまた可能だった。

 それは、つまり。

 時間移動した、というのか……?


 だが、朝霧や秋萩が行ったそれとは違う。肉体ごとの移動ではなく、精神のみの移動――時間転移だ。

 前者より後者の方が、難易度は低いという話を聞いたことがある。だから、時間操作に不慣れな俺でも、偶発的に時間移動を成し得た、ということなのか?


「そうだ。折角誕生日なのだから、特別に奮発してあげる」

 みたき――瀬名に殺される前の幼馴染は、そう話す。


 俺の誕生日?

 つまり今日は七月十三日ということか。


 彼女が敷いていた畳を持ち上げると、無機質な土蔵の床が現れる。そして、その真ん中にある金属製の扉も。畳で隠されていた地下に通じる扉は、随分錆びついていた。

 そうだ――思い出した。俺は確か中学三年生の誕生日に、その先の地下に案内されたのだ。


「ふふ、この扉の先はね、門外不出なの。神庭家の人間ですら限られた者しか知らないわ。だけど孝太郎くんは特別よ? 特別に、案内してあげる。およそ表沙汰にはできない曰くつきの書物がたくさんあるのよ。今日だけは好きなだけ読んでいいわ」


 みたきの言葉は、俺の記憶を呼び覚ます。恐らく、それが過去にあったものと一語一句同一だからだろう。

 今目の前の光景は、俺が中学三年生のとき――みたきが消える直前と合致する。

 でも、なんでこの時間に飛ばされたんだ? 五年前なんて……いくらなんでも昔すぎる。


「孝太郎くん? どうしたの?」

 考え込んでいる俺に、みたきは首を傾げる。だが、表情を顔に出さないことで精一杯だった。


 脳裏に、思い出したくもない光景が過る。

 血だまりの中に倒れる瀬名の姿。

 あれほど近くにいた彼女の――死体。


「ごめん……なんか急に体調が悪くなって……。折角の申し出だけど、今日は帰ってもいいか?」


「そう」

 みたきは特に表情を変えなかった。

「だったら家まで送って行くわ」


「こんな時間に出歩かせるのは申し訳ないよ。むしろ、俺がみたきを家まで送っていかないといけなくなる」


 俺は緩慢に立ち上がった。感覚が戻らなくて、少しふらつく。

 自分の足で身体を支えるのは、久々だった。




 ▶ ▶




「みたき、今日はありがとう」

「いえ、これくらい、なんてことないわ」

 彼女は、神庭家の裏口を出るところまで見送ってくれた。


 背を向けて家に帰ろうとしたそのとき。

 唇を重ねられた。


 こんな外――人目につきそうな場所でこういうことをするのは憚られるが、恋人相手なのだから断る理由もない。


 しかし俺からしてみれば、彼女と交際していたのは五年も前の話だ。それに、心情的にはみたきと付き合っている場合ではない。

 どうにかして別れを切り出さないといけないが、それに関しては追い追い考えよう。


「それじゃまた明日、孝太郎くん」

「ああ、また明日」




 ▶ ▶




 外の空気を吸い込むと、雲がかかったような脳内は急に晴れ渡る。縛めなくこうして歩くのは、いつぶりだろう。


 今のこの身体は、長らく四肢を拘束されていたわけではないから、筋肉も衰えていないし一切支障がない。それでも、脚を動かす感覚に少し戸惑った。

 大きく伸びをして、再度深く呼吸する。


 みたきに対して、いささか突き放すような断り方をしてしまった。今度フォローしておかないと。


 コンビニに寄って売れ残りの新聞の日付を見ると、やはり現在﹅﹅は俺が中学三年生だったとき――五年前の七月十三日。本当に過去に戻ってしまったらしい。


 俺が瀬名に監禁される以前から、世界はだいぶ不安定だったらしい。それなのに、瀬名はその後も無意味な殺戮を続けた。おかげで時間の縛が緩み、俺のようなラネットに対して生半可な知識しか持っていない人間でも、過去に戻れたのだ。……世界に余計な負荷をかけていないといいが。


 時間は、人の意志で操れるという。だが、皆原市にいる人間が、そう簡単にぽんぽんと時間移動しているようには思えない。

 重要なのは、「実際に時間を操ることができる」という知識だろう。


 ふつうの人間は、時間を操れるなんて本気で思っていない。だから、強い意志で願おうにも、「そんなことは起こり得ない」と常識のストッパーが働いてしまう。


 だが、俺は知っている。実際に時間旅行者を目の当たりにし、その仕組みの一端も垣間見た。それが、今回時間移動した理由。


 時間云々について知らなくても、人間は絶望した際に身体が黒くなり、ラネットになる。たとえば前の世界でのあえかちゃんのように。

 それは、外部を拒絶して自分の《時間》を止めるという内向きな行為だからだ。意図したものというよりも、感情の発露の結果と言った方が正確である。


 自分の《時間》を変えることと、世界の時間に干渉することの間には、大きな差異がある。難易度としても、全く異なる。

 それが、時間移動と黒化――ラネットの違い。


 どうしてこの時間に戻ってきたのかはわからないが、俺は時間操作が慣れているわけでもない。今回は、ほとんど偶然のような遡行だろう。だから、辿り着いた地点が不可解でも、仕方ないのかもしれない。


 いきなり五年前の世界に放り出されて、一体どうすればいいのだろう? しかも、長らく監禁されていた後なのだ。過去の世界以前に、外の世界に慣れない。

 コンビニにいつまでも長居していても仕方がない。店を出た俺は、帰路に就こうとして足を止める。


 この世界でなら、瀬名は生きている。あんな目を背けたい死に方はしていない。

 しかも、みたきが生きているということは、まだ殺人鬼でもない。

 これは――もしかして、希望ではないのか?


 時間が人の意志で操れるのなら、過去に戻ったことにも、俺の意志が介在している。

 あんなどうしようもない結果を、回避したいという意志が。


 この時間移動に意味があるのなら、それはあんな未来を阻止することだ。

 今度こそ、瀬名を幸せにしたい。


 俺は、行き先を変えた。

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