2 普通の1/365でも1/6318でも1/12636でもない日



 瀬名に会いに行く、と考えたとき、少なからず動揺が走った。

 五年前の世界に戻ったということは、つまり瀬名が中学一年生のとき、ということになる。


 この世界の彼女は、あんな――精神の均衡を失っているわけではないし、理不尽な殺人者ではないのに。

 何より、顔向けできる気がしなかった。


 しかし、今が五年前の七月十三日だというのなら、彼女はきっと公園で待っているだろう。




 ▶ ▶




 今はもう懐かしさすら覚える小さな公園。『天体の運行』は、相変わらず街灯の光を反射して、ささやかにきらめいていた。


 片隅のブランコに、小さな少女が腰掛けていた。

「先輩……」


 透き通ったガラス玉のような丸い瞳が、すぐにこちらを捉える。

 清明なあどけなさと、整った美しさが調和した顔立ち。朱の差した小さなくちびるは、きつく閉じられている。


 こんなに端麗な容姿の少女は、後にも先にも見たことがない。

 誰かと比べることすらおこがましいような、近づくことすら躊躇わせるような、絶対的な眩さ。


 五年後の瀬名も小柄だったが、輪を掛けて小さい。当然だが、あの花韮の髪飾りはつけていなかった。大きなキャンバスを抱えていて、対比で余計に小さく見える。


「瀬名」

 俺が軽く手を振ると、彼女はつーんと目を逸らす。


「先輩、今日が誕生日だそうですね。あ、その、たまたま耳に入ってきただけで……わたしは別に、その……気にしていたわけではないんですが」

 明らかに気にしている様子で、瀬名は言う。


「先輩、わたしに誕生日プレゼントをくれましたよね。だから、その、わたしもお返しに……これは、あくまで義理というか、もらっておいて何も返さないわけにはいかないというか……ですから、必要に迫られて、その……プレゼントを持ってきました」


 よほど照れているのか、いつにもまして回りくどい。

 なんだか懐かしいな、瀬名のこういう感じ。彼女の仕草や、少し照れを覗かせた表情に、毒気が抜かれていく。


 そういえば韮沢瀬名という少女は、こんな素直じゃなくてわかりやすい子だった。それがどうしてあんなふうになってしまったのだろう?


 瀬名は少し躊躇っていた後、抱えていたキャンバス――白い包装紙がラッピングらしい――を差し出してくる。


「その、暇だったから描いただけで、先輩のために用意したものではないですが、でも、折角だしあげます」

 どうやら俺のために描いてくれたらしい。


「見てもいいか?」

「……ええ、どうぞ」


 包装紙をはがし、パーチメント紙をどかす。

「いらないのなら、別に返してくれて構いませんから。先輩のために描いた絵じゃないし、わたしとしてはそっちの方がうれしいですし……気に入るとも限りませんから」

 まだ何か言っている。


 絵の全容が顕になった瞬間、息が止まった。

 それほどに美しい絵だった。


 空を描いた絵。シンプルに言えば、こうなる。

 だが、そんな言葉では全然足りなかった。


 キャンバスの上には、全ての空の色があった。

 明け方の空の紅掛色。

 昼時の澄んだ露草色。

 黄昏の中に浮かぶ黄金色。

 眠る頃の暗くなった瑠璃紺色と星々。


 光の散乱、雲の粒子、風の流れ。

 時と共に変ずる頭上の景色の変遷。

 キャンバスの上に、広大で複雑な気象現象を表現しきっている。


 そして、これは恐らく。

 彼女の澄んだ瞳を通して見える、空なのだ。

 卓越した色彩感覚と、天を仰ぐ憧憬と、根底のぬくもり。


 そうか、これが俺の誕生日のために描いてくれた絵なのか。


「どう、ですか?」

 瀬名は不安げにこちらを見上げる。そんな表情をする必要はないのに。


「こんな綺麗な絵は初めて見たよ。ありがとう」

 そう言うと、彼女は瞳を輝かせる。表情豊かな少女だ。


 思えば五年後の五年前も、こんなキャンバスを抱えていたような気がする。

 そうか、瀬名はこれを渡したがっていたのか。そして、俺は受け取ることができなかったのか。


「これは、太陽を描いた絵だな」

「太陽、ですか?」


 紙上には、太陽らしきものは一切存在しない。

 だが、変容する空の色を染め上げているのは、もっとも身近な恒星にほかならない。

 この絵を見る者は、きっと想像する。様々な色合いの空から、移り変わる時間と軌跡を描く太陽を。


 メインとなるもの、明らかに存在するはずのものを欠落させることで、逆に強調する手法。

 だから、この上なく太陽を描いた絵だった。


「そこまで考えてはいませんでしたが……言われてみれば、そうかもしれないです」

 ショートカットの女の子は、どことなくそわそわし始める。何か言いたげだ。

 じっと見守っていると、やがて口を開いた。


「先輩、その……生まれてきてくれて、ありがとうございます」

 絞り出すような声。たぶん、それは彼女が本当に言いたいことで、だけど言いづらくて、必死に発した声なのだろう。


 なんだか無性に撫でたくなって、俺は瀬名の頭を撫でる。やわらかく艶のある髪と、小さな頭の感触がした。


「やっ、やめてください……」

 そうは言うものの、全く嫌がっているようには見えない。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927861602168112


「撫でられてもうれしくないですし……わたし、そんな簡単な人間じゃないですから」

 前の世界で、頭を撫でられるのが好きだと言っていたのは、ほかでもない瀬名なのに。


 撫で続けるが、あんまりやって髪をぼさぼさにしてしまっても申し訳ないので、適度なところでやめる。

「もう、先輩ったら……」


 少しむくれた表情。笑顔を見せることはない。

 こんなにつんつんしてるのに、将来の夢は俺と結婚することだなんて不思議だった。


 なんだか、知ってはいけないことを知っている気分だ。瀬名が、俺を監禁でもしなければ絶対に口に出さなかった秘密なのだから、実際そうなのだが。


「な、なんですか?」

 じっと見ていたせいか、瀬名は少し慌てたようにまた頬を染める。


 そういえば前の世界の彼女は、やたら俺に見てもらいたがっていた。関心を向けられたがっていた。きっとこの世界でもそうだろう。

 いずれの世界でも、こうしてまじまじと見られると照れるところは変わらないが。


 全く、見てもらいたいのか見てもらいたくないのか、わからない。本当にどうしようもない女の子だった。



 ▶ ▶




 俺と彼女は、ずっとそうしてきたように、公園での時間を過ごした。


 この頃どんな出来事があったのか、瀬名と何を話していたのか、思い出すのは容易ではなかったが。手探りで会話を進める。

 幸い、瀬名に不審がられることはなかった。


 これ以上遅くなると、親御さんにも心配されるだろう。

「瀬名、そろそろ帰ろうか」


 一瞬。目の前の少女は、悲しげな表情になった。しかし、すぐ感情を消す。小さな口をきゅっと結ぶと、再度開いた。

「……そうですね」

 立ち上がると、帰り支度を始める。


 今もなお頭の中にこだまする、前の﹅﹅瀬名の声を思い出す。


――わたしと、ずっと一緒にいてくれますよね?


――これで、先輩はもうどこにも行ったりしませんよね?


 本当は帰りたくないのだろうか。だけど、その感情を押し殺したのだろうか。今まで、ずっと。

 五年後――俺にとってはつい最近のこと――なら、一緒に同じ家に帰っていたが。今はそういうわけにもいかない。


「瀬名、また明日ここで会おう」

 思わず、そんなことを言っていた。


「どうしたんですか? 改まって」

 彼女は不思議そうにこちらを見上げる。しかし、先程までの張りつめた雰囲気はない。


「ただ、明日も瀬名に会いたいなって」

「……もう、おかしな先輩ですね」

 目の前の女の子は、少し照れているようだった。


「今日はありがとう。こんなに素敵なプレゼントまでもらっちゃって」

「いえ、先輩の誕生日ですから」


 別れ際、彼女はこちらを見る。

「先輩、また明日」

 その表情は、わずかにはにかんでいた。




 ▶ ▶




「孝太郎、今日余ったケーキ、冷蔵庫に入れといたから。早めに全部食べるのよ」

 家に帰ると、母さんが声を掛けてくる。


「ああ、ありがとう」

 例の一件以来すっかり親とはぎくしゃくしてしまったが、ここではまだ﹅﹅そんなことはなかった。

 さすがに五年も遡ると、母さんが随分若く見える。


 早速瀬名からもらった絵を、額縁に飾る。

「孝太郎、あんたどうしたの、その絵。どこかの美術館から盗ってきたんじゃないでしょうね?」

「そ、そんなわけないだろ。もらったんだよ、部活の後輩から」


「後輩!? へえ……最近の子はすごいのね。あ、もしかして韮沢さんのところの?」

「そうだよ。というか母さん、知ってるんだ」

「当たり前じゃない。韮沢っていったら、ねえ。さすがご息女も天才なのね」

 瀬名の家がすごいというのは聞いていたが、まさか親の世代にまで名前が轟いているとは。


「それより、あんた韮沢さんとこのお嬢さんと仲が良いの?」

「え、仲が良いっていうか……まぁ、良いとは思うけど」

 前の世界のことまで含めれば、そんな生易しいものじゃない。


「だったらその縁は大事にしておくのよ。いざというとき、韮沢さんが便宜を図ってくれそうじゃない」

「うーん……」

 そんなの瀬名に失礼だろう。利害関係抜きにして、彼女はどことなく放っておけないのだ。


 その後、父さんもやってきて、感心したように絵を見ていた。

 あまり絵に興味のない人間でも惹きつける力が、このキャンバスにはあった。もう、才能と呼ぶしかない。


 さて、これからどうしよう。

 あんな未来を避けるためには、何をすればいいだろう。


 今日はついつい会いに行ってしまったが、俺と瀬名はあまり一緒にいない方が良い気がする。

 彼女は好意を抱いた人間に入れ込みすぎるきらいがあるから、ほどほどの距離感を維持しないと危ない。


 しかし、今いきなり距離を置けば、それこそ前の世界の二の舞だ。

 瀬名が俺に執着せず、寂しがりもしない程度の接し方……難問だ。


 とはいえ、この瀬名には何の罪もないんだし。

 前の時間の瀬名――一周目瀬名に至らないよう、努めないと。

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