27 それから


「先輩、すごいです!」

 夜の公園で、瀬名は称賛の声を上げる。


 時間は流れ、俺は高校二年生になっていた。そして、先日日本文学の雑誌に投稿した俺の論考が、無事掲載されたという。


「あはは、読者からのおたよりみたいなコーナーだから、そんな大仰なものじゃないんだけど」

 そもそも、俺は二周目だし。一周目と比べれば、多少要領がわかっている。


 さすがにみたきにかかずらっている間は、大して古典文学に触れられなかった。だが、これで心置きなく趣味に取り組めるというわけだ。


「謙遜することないですよ。先輩はとってもすごいです。古典文学に対する理解や洞察だけでなく、ほかのことでも。誰にでも優しいですし」

 屈託なく、きらきらとした瞳を向けてくる。


 ふと、出会ったばかりの瀬名が脳裏に浮かんだ。

 突き放すような態度を取っていた頃の彼女。


 それと比べると、随分変わったものだ。

 心を開くと、本来はこういう女の子なのだろうが。


「……たとえば、瀬名は俺のどういうところに価値を感じるんだ?」

「そ、それは……」

 瀬名は恥ずかしそうにうつむいた。


 しばらく言いづらそうにしていたが、躊躇いがちに口を開く。

「全部、です」

 前の世界でも、聞いたことがある言葉のような気がした。


 彼女の瞳には、俺はどう映っているのだろう。全てに価値があるなんて……そんなの、並大抵のことではない。


「俺も、瀬名の全部に価値を感じるよ」

「そ、そんな……」

 また赤くなってうつむく瀬名。


 白く細い首をした女の子だ、と思った。几帳面にボタンの一番上まで留められたブラウスから、少し喉元が覗いている。そこに触れれば、脈を感じられるはずだ。


 前の世界の彼女は、だいぶ人として道を外していたが。それさえ除けば、瀬名はとてもかわいい女の子だった。




 ▶ ▶




 その日の夜も公園を訪れると、見慣れた顔の女の子が丸い屋根つきのベンチに腰掛けている。


「先輩……」

 だが、普段とだいぶ様子が違っていた。


 キャンバスもスケッチブックも、画材も何も持っていない。

 何より、いつもは輝く笑顔を見せるのに、その表情は暗く何も浮かんでいない。


「瀬名、どうしたんだ?」

 横に座りながら、問う。


 彼女は黙り込んだままだったが、質問に答えるためにと緩慢に口を開く。

「……習い事を、やめました。絵画教室と学習塾以外は、全て」


「え、どうして?」

「勉強に、専念するためです」


 それは、常套句だった。

 たとえば学生が部活をやめるとき、アルバイトをやめるときに使われる、便利な言葉。

 だが、本当の理由は別に存在することが多い。


 元から勉強との両立はできていたじゃないか。学年で一二を争う成績をキープして。

 なのに、今更どうして。

 中学三年生だからって、エスカレーター式だから受験らしい受験はないのに。


「もしかして、親に何か言われたのか?」

 そう考えるのが自然だった。彼女が自分からやめると言い出すはずないし、それならあり得る選択肢はひとつだ。


 瀬名は首肯した。

「わたしが、出来損ないだから」


 出来損ない?

 この期に及んで?

 世界で瀬名をそんなふうに面罵できるのは、彼女の両親だけだろう。


 様々な賞を総なめにして、参加したコンクールのトロフィーを勝ち取って。

 数々の成果を挙げているのに。

 それで、出来損ないだから習い事をやめさせる?


 正直理解できなかった。

 悪意以外の何も感じられなかった。


 きっと――自分たちが「出来損ない」と断じた人間が、出来損ないでなかったと証明されるのは、不都合なのだろう。見当違いだったということなのだから。


 だから、瀬名には出来損ないのままでいてもらわないといけなかった。

 そんな……そんなの、なんて傲慢さだ。


 一体瀬名をなんだと思ってるんだ?

 彼女の人生を、一体なんだと。


 俺は、彼女の両親を許せないと思った。

 こんなふうに瀬名を苦しめ続ける呪いを刻みつけて、そのくせ最後まで責任を取るわけでもない。


 無責任に投げ出して、それで全て済んだと思っている。

 瀬名の人生はそれからも続いていくというのに。


「習い事をやめるなんて……先生や講師だって、もったいなく思ってるはずだ。瀬名が続けたいって意志を伝えれば、きっと説得に協力してくれるんじゃないか?」


「何を言っても、無駄です」

 表情が全て剥がれ落ちた顔。瞳には晦冥しか広がっていなかった。


 前の世界で瀬名に監禁されたとき、ときどき見た姿だ。

 何もかもを拒絶して、ただそこにあるだけの存在。


 ああ、これが絶望なのか。

 真綿で首を絞めるような。

 鬱蒼とした森の奥にある、暗いうろのような。


 見ていられなくなって、俺は瀬名を抱きしめた。少し力を加えただけで折れてしまいそうな、細くて小さい身体だった。


「せ、先輩?」

 その声に力はなく、腕もだらりと垂れ下がったままだ。


「瀬名のお父さんやお母さんは、瀬名を出来損ないにしようとしてるだけなんだよ。本当は違うのに。そんな人たちの言うことに耳を傾ける必要なんてない」


「…………」

 華奢な肩の少女は、ゆっくりとうなずく。

「先輩の言うことは全部正しいです」


「瀬名は……習い事を続けたいのか?」

 目の前の少女は考え込むが、晴れない表情のまま言葉を発する。

「わからないんです。続けたいのか、続けたくないのか」


「コンクールが楽しみだって言ってくれたじゃないか。ピアノも、ほかのことだって、もっとたくさん頑張るって言ってたじゃないか」

 そのときの瀬名の笑顔を、はっきりと思い出せる。


「それが本当に求められていることなのか、必要とされていることなのか、全部わからなくなりました」

「瀬名……」


「……先輩に喜んでもらえるのなら、わたし、続けます。でも、先輩に喜んでもらえないのなら……」

 彼女の声は、小さく消えていく。


 瀬名が得た様々な栄誉は、素晴らしいものだ。

 しかし、俺に喜んでもらうという理由だけでやっているのだとしたら、習い事で実績を残すことは的を射ているとは言い難い。


 並大抵ではない努力と労力をもって全国大会最優秀賞を手に入れたところで、その功績に見合うだけの報労を提供できないのだ。彼女がただ手料理を振る舞ってくれても、俺は同じ反応を示すだろう。


 もちろん、これだけの彼女の才能を活かさないのはもったいない。だがそれを活かせば瀬名は幸福になれるのだろうか。時間と人生を費やしてまで、行うことなのだろうか。


 才能があるからって、やりたくもないことに人生を支配されては、最早才能は足枷になる。

 しかも、多くの習い事も、賞状もトロフィーも、彼女をほかのものから遠ざけるだけだ。


 優秀である人間が必ずしも幸福なわけではない。獲得した賞の数が多ければ多いほど、人間としての価値が高いとは一概に断定できない。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。


 そして、人間の価値とは。

 自分をどれだけ認められるかにかかっていて。


 以前から疑問に思っていた。数々の習い事は、彼女がやりたくて行っていることなのかと。

 だから俺は、ここで安易に続けるべきだとは言えなかった。


 それに、彼女をその気にさせておいて、両親を説得できなかったら、習い事を続けられなかったら、余計に惨い結果になるだけのような気がした。別に習わなくても独学で続ける道はあるが、これまで以上に険しくなるだろう。


「瀬名にとって一番の幸せって、なんだ?」

 俺は、真正面から尋ねた。

「わたしは、その……」


 か細い声に乗って、少しずつ言葉が紡がれる。

「先輩と一緒に、こうして過ごす時間が一番幸せです」


「だったら、楽しいことや、瀬名がやりたいと思うようなことをもっと探していこう。一緒に」

 腕の中で、瀬名がうなずいたのがわかった。


「先輩、その……わたし、もっと先輩のために頑張りますから」

 弱々しい声が、微かに聞こえてくる。

 それは、彼女が俺の歓心を得ようとするとき、不安になったときに口にする言葉だった。


「先輩に迷惑を掛けたりしないように、先輩に失望されないように、もっと先輩の役に立てるように、先輩に優しくしてもらった分を、先輩の時間を浪費している分を、お返しできるように、頑張ります。先輩の言うことは全部聞きますし、わたし、なんだってしますから。わたしの間違っているところ全部を正してください。全部全部先輩のために頑張ります」


 その姿はとても痛々しかった。

 瀬名はきっと、「ずっと一緒にいてほしい」「見捨てないでほしい」とは言えないのだ。自分の願いなんて聞き入れてもらえるとは全く思っていないから。


 だから、なんとかしてメリットを提示しようとする。自分と一緒にいることで生じるメリットを。それで、少しでも俺を引き留めようとする。

 彼女は、頑張ること以外に気を引く方法を知らないのだ。


「時間を浪費なんかしてないよ。俺は、瀬名と一緒にいるのが楽しいから、一緒にいるんだ」

 そう言っても、目の前の暗い顔は晴れないが。


 俺は瀬名の肩を持つと、目を見て言う。

「そうだ、今度大きな公園に行こう。花壇がずっと広がってるところで、今は晩夏や初秋の花が見頃ですごく綺麗らしいんだ」


 彼女の一対の瞳が、わずかに揺らいだ。それは悲しみと恐れの色だった。逃れるように、瀬名は目を伏せる。

「い、いいんですか?」

「ああ、もちろん」


 優しくされることも、気遣われることも、今のこの少女には棘にしかならないのだろう。

 だが彼女には、楽しい予定が必要だ。


「瀬名に付き合って欲しいところがあるんだ。今度皆原市博物館で十二単とか宮廷の服飾の展示があるんだけど、男ひとりでは行きづらいだろ? でも、周りに興味ある人がいなくてさ。よかったら、一緒に行かないか?」


「わ、わたしでいいなら……どこへでも行きます」

 強張っていた彼女の顔が、少しほぐれる。

 こういう、俺の都合に付き合わせる誘いの方が、気が楽になるかもしれない。


「習い事がなくなるってことは、逆に考えれば遊びに行ける時間が増えるってことだろ? ほかにも色んなところに行こう」

 目の前の女の子は、こくりと首を縦に振った。


 その大きな瞳には空色が差しており、底冷えするような黒色は薄れていた。

 これで少しは、気分が軽くなってくれるといいのだが。


 やはり、他人に全てを預けるような生き方は危うい。

 悪意に晒されれば、すぐに瓦解してしまいかねないから。


 瀬名が、自分自身を認められるようになれればいいのだが。

 もしくは、ひとつのところに寄りかかるのではなく、もっとたくさんの楽しいことに触れられればいいのだが。

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