26 収束
遊園地での一件から、数ヶ月後。夏の暑さはすっかり去り、
俺は、皆原市内の大きな病院に来ていた。葦原教授が体調を崩して入院したので、見舞いに来たのだ。
病院というのは、来ても楽しいところではない。独特の薬品臭に、息が詰まる。
壁も天井も白い空間を、白い電灯が照らしている。
目的の病室に向かう道中、見覚えのある後ろ姿があった。笠沙さんだ。彼も見舞いに訪れたのだろう。
「笠沙さ――」
「ひ、ひいいいいいい!」
白衣を着た男は、断末魔のような声を上げる。
「び、びっくりしました……ああ、十年老けた……」
「す、すみません、驚かせてしまって」
むしろこちらの心臓の方ががひっくり返りそうだったが。
彼は、教授の見舞いを済ませた後らしい。
みたきと信者たちとの一件も終わり、民俗学研究会の人々と会う機会もめっきり減りつつあった。
軽く挨拶や世間話を交わした後、話題は自然とみたきに向く。
「あの一連の出来事は現実から逸していて、今から思えば夢だったような気すらします」
そう話す笠沙さんの表情は暗かった。
ライブハウスでの虐殺計画とは違い、遊園地での一件は大きな爪痕を残した。一般客の犠牲者がいくらか出てしまったし、何より渦中に巻き込まれた人の数が多すぎる。何事もなかったかのように振る舞うのは無理だった。
とはいえ、ほとんどの人はあの事態が何によって引き起こされたのか知らない。他人に話しても、与太話だとしか思われない。
無関係の第三者たちは、混乱する当事者たちを落ち着かせるために、あるいは黙らせるために、炎天下の集団幻覚や集団ヒステリーという言葉を持ち出した。
もちろん、あの事件に居合わせた人々の多くはそれで納得せず、行方不明となった家族や友人の捜索を続けたり、互助組織を設立した。
落とした影は濃く、簡単には消えないだろう。
だがそうこうしている内に、別の地方で大きな災害が発生し、世間の話題は一気にかっさわれた。
オカルトや陰謀マニアの記憶にのみ残り、遊園地にはそういうものが好きな客が増えたという。
指導者を失った信者たちは、散り散りになった。当の元凶は、満足して死んでしまったし。
まだ監視が必要だが、大半は生気を抜かれ死人のようになっている。
元々、イカれた人間に導かれるがままに悪事を行っていた人間ばかりだ。先導する者がいなければ、何かをする度胸もない。
一周目とは世界が分岐した以上、みたきは迷惑な「予言書」を遺していないだろうし。何の目的であれが作られたか考えれば、道理だ。
「未だに僕は――上木さんのことがわかりません。なんであんなことをしたのかも」
「わからない方がいいですよ。理解できるのは同類か、もっとやばい奴くらいでしょう」
「そう、ですね……」
個室が並んでいる区画ということもあって、病院の廊下には
「もっと上手くやれたんじゃないかって、考えてしまいます。もっと犠牲者を減らせたんじゃないかって……」
「笠沙さんには何度も助けられましたよ。あそこまで空間停止の腕を熟練させるなんて、思いませんでした」
「いえ、僕の方こそ……あんな頭のおかしい女を止めるなんて、鴇野さんがいなければできなかったことです」
またしても褒め合いになってしまった。
「民俗学研究会の人々は、今何をしてるんですか?」
「信者の監視とか、事後処理とか……それも、もうすぐ終わりそうですけどね。また、元のように研究に戻ると思います」
元々彼らは、研究者の集団なのだった。狂人たちとドンパチやるために集まっているわけではない。
笠沙さんは、顔を上げて真っ直ぐこちらを見る。
「僕……頑張り続けることを諦めたくはありません。抱えた後悔の分だけ、それを払拭できる何かを生み出したいです」
それは、力強い言葉だった。
「僕は、ラネットの研究を続けます。今後もまたあんな危険人物が現れないとも限りませんし、ラネットは人を傷つけるだけでなく、救うこともできる気がするから。こう思えるようになったのは、鴇野さんのおかげです」
「……よかったです。お力になれて」
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。
「鴇野さん、たまには研究室に遊びに来てくださいね。それでは」
彼は笑顔を見せて、去っていった。
▶ ▶
窓辺で、白いレースカーテンが秋風に揺れていた。清潔な病室は、やわらかな陽の光に照らされている。
白いベッドの上には、髪に白いものが混ざった痩躯の老人が上体を起こしていた。
「わざわざ見舞いに来てくれて、ありがとう」
手土産のきんつばに手を伸ばしながら、彼は言う。
「歳を取ると、ちょっとしたことでも入院してしまいます。学生たちにいたく心配を掛けてしまって、申し訳ない限りですよ」
確かに、一見すると元気そうだ。
しかし俺の記憶には、不穏なものが残っていた。
――結局、その頃の教授の病死と神庭みたきの行方不明で、うやむやのまま幕は閉じられたよ。
前の世界で、尾上はそんなことを言っていた。その頃の教授とはもちろん、葦原教授だ。一周目では、俺が中学三年生くらいのときに、彼は亡くなっていたのだ。
世界が変わり、多少のずれこそ生じているが、恐らく葦原教授はもう長くはないだろう。彼の後を、渡良瀬教授が継ぐのだろう。
それが――運命なのだ。
「鴇野くん、ありがとう。君がいなかったら、犠牲者はもっと増えていた。いや、今もなお続いていたかもしれない」
「あはは、皆さんが築いたものがなければ、何もできませんでしたよ」
「以前君とは、ひとつ約束をしましたね」
「ああ、こちら側からの犠牲は出さないという約束ですね」
幸い、民俗学研究会の犠牲者は誰もいなかった。
だが――
「上木さんの正体に気づけなかったのは、私の落ち度です。見抜けられていれば、彼女があんな最期を辿ることもなかったかもしれないのに……」
「教授の責任ではありませんよ」
「自分ならなんとかできたのでは」という悔恨は、ある種の驕りと表裏一体だ。自分の万能さを前提としているのだから。結局は、手の届く範囲のことしかなんとかできないのに。
全てを運命の一言で片付ける方が、余程気楽かもしれない。
だが、人間はそう思わざるを得ないのだろう。
誰しもが自分の人生の主役なのだから。
「そういえば――」
葦原教授は口を開く。
「神庭みたきの死の間際、彼女の髪色には見覚えがあります。いや、聞き覚えと言うべきか」
「え?」
「かつて民俗学研究会を作った橘教授がおっしゃっていました。彼がラネットを知ったのは、桃色と緑色のグラデーションの変わった髪色をした少女に出会ったからだと」
桃色と緑色のグラデーションの髪の少女。そんなの、ひとりしかいないだろう。当然、みたきは選択肢に含まれないし。
……朝霧。
ラネットや時間移動について隠そうとしていたのに、結局話してくれるような少女。
そんな彼女が偶然橘教授に出会い、うっかりラネットについて話す光景は、容易に想像できた。
――へえ……民俗学。じゃあ橘教授のお弟子さんってわけ?
そもそも、朝霧はなぜか橘教授について知っていたし。
民俗学研究会がなければ、俺はみたきに抗する力を持てなかったはずだ。というか、一周目でも事件の収束には、民俗学研究会の力を多分に借りた。
そんな組織の起点に、朝霧がいたなんて。
ああ……これもまた。運命なのだろう。
▶ ▶
瀬名は公園に咲いた小さな野菊を見ている。
花壇が充実した公園や植物園に連れて行けば喜ぶだろうが、彼女は変わらず忙しいままだ。暇を見つけるのが難しそうである。
こうして、夜に公園で絵を描いている時間くらいしか、自由になるものがなかった。
「瀬名、最近忙しいんじゃないか? コンクールにも色々参加してるし」
彼女は「程々」という言葉を知らないから、無理し過ぎていないか心配だ。
「大丈夫ですよ。調子が悪いわけでもないですし」
予想していた答えだった。自発的に休ませるには、骨が折れそうだ。
俺は、彼女にオレンジ色の長方形の小箱を差し出す。
「はい、キャラメル。よかったら食べてくれ」
「え?」
「瀬名、キャラメル好きじゃないのか?」
「き、嫌いではないですけど……」
なんだか複雑そうな顔をしている。
後輩は、小さなキャラメルを口の中に入れて、もぐもぐしている。
せめて甘いものくらいは、息抜きに食べてほしかったが。
「少しはコンクールとか、減らしてもいいんじゃないか? 遊びに行ける日、全然ないし」
「遊びに行く日なんて要りません。そりゃ、行けば楽しいでしょうけど……」
瀬名はキャラメルを食べ終えると、細い声で話す。
「多くのものを求めるのは贅沢です。それじゃ、何も手に入りません。わたしは、本当に大切なものひとつさえあれば、それでいいんです」
多くの分野に手を出しているのに、と思わなくないが。
それら全てが、ひとつの目的のための手段なのだ。喜んでもらうための。
「あんまりひとつのことだけにしがみついたら、それがなくなったとき途方に暮れちゃうんじゃないか?」
「なく、なったら?」
実際に想像してみたのか、横に座る少女は顔を曇らせる。表情自体は無だが、ずっと一緒にいる分、そんな機微も感じ取れるようになった。
「なくなったら……わたし、どの道生きていけません。だって、それが、その……わたしにとっては、世界全てだから」
彼女は、ひざの上に置いた両手をぎゅっと握る。
「……ほかに何があったって、世界そのものがなくなったら、意味がないんです」
そういったところが危ういのだが。
とはいえ、そんな一意専心の姿勢で余計なものを削ぎ落としていくのが、瀬名の頑張り方なのだろう。
「瀬名の世界に、もっと色んなものがあった方が楽しいんじゃないか? 楽しいことは、多ければ多いほどいいよ」
そう言っても、彼女は黙り込んでいた。
「色んなものがあったら……きっと、苦しいことが増えると思います」
冷たい表情の中に、不安の色が浮かんでいる。
「なくなってほしくないものが増えたら、それだけ取りこぼしてしまうものが増えるということですから。わたしなんかに、維持することなんてできませんし」
「そんなに卑下することないよ。瀬名と一緒にいると楽しいし。それに、瀬名はすごくかわいいじゃないか」
「そ、そんな……からかわないでください」
恥ずかしそうにうつむく。その仕草もかわいらしい。
「わたしなんて……平凡な顔です」
一瞬耳を疑ったが、本気で言っているようだ。自分の顔の造形が整っているという自覚がないらしい。
均整が取れている顔立ちというのは、往々にして特徴がないものだ。全てのパーツが調和しているのだから。
多くの人間の顔を合成して平均的な顔を作ろうとすると、大きな特徴が削られて端正な面差しになる。
そういう意味では、確かに彼女は「平凡」に見えるのかもしれない。
瀬名くらいになると、安易にかわいい綺麗と褒めそやすのも憚られるのだろう。
というか、褒められても素直に受け取るような性格ではないし。
つくづく難儀なものだ。これほど多才な人間もいないだろうに。瀬名を羨む人だって大勢いるはずだ。
まるで呪いのようだな、と思った。
「先輩、もしかして、子どもっぽいという意味で『かわいい』って言ってます?」
瀬名はむくれている。
子ども扱いされるのは嫌らしい。
「そんなことないって。純粋にかわいいって思ったから、言ったんだ」
俺の言葉に、目の前の女の子はつーんとそっぽを向く。
「なんだかあやされている気分です。先輩がわたしのこと子ども扱いするから、子どもに見えるだけであって、実際はそうではないですから」
「悪かったって」
そうやって拗ねていると、俄然子どもに見える。
「もう、先輩ったら……」
▶ ▶
瀬名を家まで送った後、ふらりとコンビニに寄る。
夜の住宅街の中でも、店は眩しいくらいの人工の光で辺りを照らしていた。
商品棚、特に弁当のコーナーはだいぶ空きが目立っていた。それを見ると、一日が終わろうとしているのだなと感じる。
ペットボトルを一本だけ手に取って、レジへと向かう。
「お預かりいたします」
店員は二十代後半か三十代ほどの年齢の男性で――見覚えのある顔だった。
「……あ」
忘れるはずがない。不破俊頼だった。
向こうも気づいたようではっと目を見開くが、すぐに下を向く。何事もなかったかのように、マニュアル通りの台詞を読み上げ、手早く会計を終わらせる。
俺の方としても、何か言葉を交わす意義を見いだせなかった。
購入した飲料を持って、店を出る。
家に向かう道は、街灯もまばらで暗かった。コンビニから遠ざかれば、なおさらだ。
夜陰の中を歩きながら、今日あった出来事に思いを巡らせる。
一周目でも二周目でも、死の運命にある人がいる。
一周目で亡くなった人間が、二周目では亡くならなかった場合もある。
だが、その逆――一周目では生き残っていたのに、二週目で亡くなってしまった人間もいるだろう。
そんな新たな犠牲者は、俺が殺したようなものだとも言える。
――だからね、ときどき嫌になるの。時間を操る術を持った自分自身を。
それは、朝霧の言葉だった。
誰を生かして誰を殺すべきかなんて、そんな決定権を人間は持ち合わせていない。
運命とは、なんなんだろう。
変えられるものと変えられないものの違いは、なんだろう。
そんなの……神のみぞ知るとしか言いようがなかった。
俺の選択が全て正しかったとは限らない。
ただ、自分の選択の責任を負うだけだ。
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