28 亜麻仁の漂白


「わあ……」

 見渡す限り広がる花々を前に、瀬名はあどけない声を漏らす。


 九月の国営公園は、睡蓮やコスモスをはじめとして色とりどりの植物が咲き乱れていた。傍らを歩く少女は、陶然と時の花を見ている。


 習い事のほとんどをやめてから、不安そうな表情をすることが増えた。なので、こうして楽しんでいる姿が見られるだけで、連れてきた甲斐がある。


 一周目でも瀬名とこの公園に来た気がする。冬以外の季節は大抵花であふれているし、ほかにもアクティビティがあるし、便利な場所だからなぁ。


 しばらく花逍遥を続けた後、昼時になったのでふたりでベンチに座る。

「先輩、えっと、その……お弁当、です」

 瀬名は、リュックから巾着袋を取り出した。


「ああ、ありがとう」

 話の流れで、彼女に作ってもらうことになったのだ。


 弁当箱を開けると、彩りのいいおかずがぎゅうぎゅうに詰められている。この繊細で凝った弁当を見るのは久々だった。


 きちんと二人分を念押ししておいたため、瀬名と並んで昼食を摂る。

 箸で口に入れていくと、食べ慣れた彼女の味がした。


 嗅覚や味覚は、ほかの感覚より記憶に深く結びついているらしい。

 以前――一周目に瀬名と一緒にこの公園に来たときのこと、一緒に暮らしていたときの光景まで、蘇ってくる。

 穏やかで、楽しい時間が。


 まぁ、その瀬名は血も涙もない殺人鬼だったわけだが……。


「先輩?」

 隣に座る女の子は、きょとんとした顔で見上げてくる。

 しまった、見つめすぎていたらしい。


「弁当ありがとう。すごくおいしいよ」

 そう返すと、ひかえめにはにかむ瀬名。

「えへへ、よかったです」


 それは、一切邪気がない表情だった。とても常軌を逸した殺人をしていた人間と同一人物には見えない。


 人というのは、よほどのことがなければ殺人鬼になったりしない。彼女も、ろくでもない人間の暗躍でもなければ、一線を越えたりしないのだ。


 俺の周りで誰かが行方不明になったこともないし、俺の評判を貶めるような動きも感じない。

 今の彼女は、ふつうの大人しい女の子だ。


 弁当を食べた後、自動販売機に飲み物を買いに行く。

 ベンチに戻ると、待っていた瀬名はスケッチブックに鉛筆を走らせていた。白い紙の上で、既に花畑の形が出来上がろうとしている。


「あ、ご、ごめんなさい……折角遊びに来たのに……」

「気にしなくていいよ。スケッチしたくなるくらい、綺麗だもんな。横で見ててもいいか?」


 瀬名は目を伏せて、小さくうなずく。

「その……綺麗な景色を見たりすると、描きたくなるんです。絵を描くのは、慣れているから落ち着きますし……」


 やっぱり、絵が好きなんだな、と思った。

 俺のために描くと言ってこそいたが、彼女自身の趣味でもあるのだ。


 瀬名は自分のやりたいことに対するアンテナが低いだけで、やりたいことが皆無なわけではない。あとは、如何にそれに向き合うかなのだ。


「完成したところを見てみたいな。きっと、今日遊びに来た記念になるよ」

「そう、ですね。折角ですし、後でキャンバスに写してしっかり描きたいです」


 少女はじっと白い画用紙を見つめて、

「でもこの絵は……完成してもコンクールに出したくない、です」


「どうして?」

「大切な思い出ですから。それに……」

 わずかに口ごもる瀬名。


「……コンテストとかそういうのって、本当は好きじゃないんです」

 彼女が少しずつ言葉を紡いでいくのを、俺は横で見守る。

 こうして自分のことについて話してくれるようになっただけで、恐るべき進歩だった。


「だって、どれだけ頑張っても必ず順位付けされて、選ばれないときは選ばれないんですから。時には、選んだ題材そのものがダメだって言われたり。そういう舞台に上げられること自体が、すごく、苦手でした」


 それなのに、あんなに参加し続けていたのか。

 喜んでもらうために。


「ごめんなさい、わたし、こんな話しかできなくて……。折角先輩がわたしのことを知りたいって言ってくれても、何も面白い話ができないんです」


「そんなことないよ。俺、瀬名の話聞いてるの好きだし」

「…………」

 その表情は曇ったままだった。


 とりあえず、瀬名の頭を撫でる。言葉を並べるより、こっちの方が効果的かもしれない。

「せ、先輩……」


 彼女は、揺れる瞳でこちらを見つめてくる。

「あ、ありがとう、ございます……」


「もしも、瀬名が自分に自信を持てるようになったら、きっと今よりもっと楽しい時間が増えると思うんだ」

「もっと、楽しく……?」


「信じてもらえないかもしれないけど、何度も言ってる通り俺は瀬名と一緒にいて楽しいよ。瀬名がそれを信じてくれたら、心配することは少なくなるんじゃないか?」


「わたし、その……」

 所在ないのか、瀬名の視線は手元のスケッチブックに向いていた。


「わたし、先輩を信じています。ほかの誰よりも」

「じゃあ、瀬名自身のことも信じてみないか?」

「そ、それは……」


「大丈夫。瀬名が素敵な子だっていうのは、俺が保証するよ」

 瀬名は躊躇する様子を見せたが、やがてこくりとうなずいた。


「瀬名と一緒に行きたいところが、もっとたくさんあるんだ。瀬名と一緒にいるのは、楽しいから」

 彼女が信じ切れなかったとしても、信じられるようになるまで何度でも言おう、と思った。




 ▶ ▶




 瀬名と出かけたり、古文に勤しんでいる内に、時間はあっという間に過ぎていった。

 俺は高校三年生に進級し、瀬名は高校生になった。


 美術室内の少し離れたところに、小さな頭が見える。高等部の部活でも、瀬名とは一緒だった。


 四月だから、美術部には新顔もいくらか見える。年度が変わるタイミングで入部した学生たちだ。少し浮き足だった雰囲気が広がっている。


「ねえ、これって何に使うの?」

 多少騒がしい教室の中、瀬名が同学年の少女に、話しかけられていた。


「…………」

 瀬名は無表情のままだが、長い付き合いだから戸惑っていることが読み取れる。


「いいじゃないか、教えてあげたらどうだ?」

 俺がそう声を掛けてみると、少しこちらを見てから少女に向き直った。

「それはですね――」


 自分のイーゼルのところに戻りながらも、俺の意識は瀬名たちに向いていた。

 あの新入生の子――名前は確か、戸殿とどの茉璃まつり。高校からの編入組だったはずだ。自己紹介のときに、絵も高校に入って初めて本格的にやると言っていた。


「この変な薬品って何?」

「それは、画用液です。絵具に混ぜて使うもので――」

 細い声だがしっかりした口ぶりで、解説する瀬名。


「へー! 色々種類があってよくわからないんだよね。とりあえず、このテレピンってやつを買ったんだけど」

「ああ、それは描き始めに使うものですね」


「瀬名ちゃんが持ってるそれは?」

「これは、リンシードオイルと言って……」

 画材の説明を、淀みなく瀬名は行っていく。教師顔負けの教え方だった。


「ありがとう! 色々あってややこしかったけど、瀬名ちゃんの教え方、わかりやすいよ!」

「いえ、別に……」


「というか、この学校ってみんなお嬢様でびっくりしたよ。瀬名ちゃんも、なんか気品がすごいし」

「それほどではありません」


「そんなことないよ! 雰囲気からして全然違うもん」

 戸殿さんの話しっぷりは立て板に水だった。だが、物静かな瀬名には、そういうタイプの方が合っているのかもしれない。




 ▶ ▶




 その日の夜の公園。

 瀬名は、手に小分け包装されたどら焼きを一個持っていた。


「その……戸殿さん、家が和菓子屋らしくて。お礼にといただきました」

「ああ、今日一緒に帰ってたもんな」

 半ば強引に誘われていたようだが。


「先輩、半分こしませんか?」

「え? いいのか?」

「はい。その、先輩と一緒に食べたいので」

「あはは、それなら食べないとな」


 瀬名から手渡された、どら焼きの左半分を口にする。ふかふかの生地には、香り高いこし餡が挟まれていた。

 横に座る少女も、にこにこと頬張っている。


「うまいな」

「そうですね」

 半分だけということもあって、すぐになくなってしまった。


「戸殿さんに、今度一緒に画材を買うのを手伝ってほしいと言われて……」

「行ってみたらどうだ? また和菓子がもらえるかもしれないし」


「お、お菓子に釣られてそんなことしたりなんてしません!」

「あはは、わかってるよ」


 ここに来て、瀬名に積極的に近づく人物が現れるとは思わなかったが。まぁ近づきにくいだけで、真面目だし悪い子ではないし。きっかけがあれば、興味を持つ人間が出てくるのも道理だ。


「瀬名の教え方が上手かったから、頼りになると思われたんだよ」

 これまで真面目に美術に取り組んで来た結果だ。


「そ、そんな……大したことでは……」

 恥ずかしがっている。


 この様子を見るに、戸殿さんの存在は彼女にとって悪いものではなさそうだ。教える側という立ち位置が、いいのかもしれない。

 瀬名は、誰かの世話になるより、誰かの世話をしている方がしっくり来そうだし。




 ▶ ▶




 その後も、つらつらと他愛もない話をしていると、夜はどんどん更けていった。


「じゃあ、そろそろ帰ろうか」

「…………」

 瀬名がうつむくと、そのつむじがよく見える。きれいに整えられている、小さなつむじ。


「……あの、わたし、一人暮らしを始めたんです」

「へえ、そうなのか。送っていってもいいか?」

 こくりとうなずく瀬名。


 一人暮らし、か。

 彼女がしたいと言い出したとは思えない。


 しかし、瀬名は両親から離れた方がいいのかもしれない。一緒にいたって悪影響しかないだろう。


 彼女の先導に従って、普段とは異なる道を歩くと、瀟洒な雰囲気の分譲マンションの前に辿り着く。

 ここが新居らしい。


 見たところセキュリティもしっかりしていそうだし、一人暮らしの場所としては安心であるような気がした。

 もっとも、彼女にはそれがどれだけ助けになるかわからないが。


 瀬名は突然立ち止まった。

「……わたし、先輩に出会えてよかったです」

 目を伏せて、絞り出すような声で。


「あなたのいない世界なんてもう考えられません」

 それも、いつかどこかで聞いた言葉だった。


 顔を上げて、彼女は不安そうに問いかけてくる。

「先輩、わたし……明日もあの公園で待っていてもいいですか?」


 何を今更、と思った。明日用事か何かがあって来られないならまだしも、いつもと同じように来られるというのなら、何も問題ではない。


 だが目の前の少女は、雨の中、道端のダンボールに入れられた捨て子犬のような寄る辺なさを持っていた。思わず手を差し伸べたくなるような、そんな姿。


「もちろん、いいに決まってるよ」

 彼女の頭を撫でると、相変わらず落ち着かなさそうにしている。しかし、その表情には安堵も混じっていた。


「……わたし、今まで自分がどうしたいだとか、そんなの考えたことありませんでしたし、考える必要もないと思っていました。だけど、先輩と出会って、色んなことをお話しているうちに、その……楽しいこととか、やりたいことがどんどん増えていって……ごめんなさい、あんまりまとまらなくて」


「瀬名が自分のことを話そうとしてくれるの、うれしいよ。もっと瀬名のことを知りたいから」

「そ、そうですか……」

 照れているらしかった。


 別れる間際、彼女は小さく手を振りながらわずかに笑顔を見せる。

「先輩、また明日」




 ▶ ▶




「瀬名ちゃん!」

 美術室に、明るい声が響く。部活に来るなり、戸殿さんは瀬名のもとに寄っていく。すっかりなつかれている。


 部活の最中も隣に陣取った少女に、瀬名は時たま何やら説明する。

「リンシードオイルやそれを使った作品は、暗所に置いておくと黄色くなってしまうんです。そんなときは太陽の光に当てると――」


 絵のこととなると、口数が増える女の子だった。戸殿さんも、その話を真剣にうんうん聞いている。


 その流暢な解説に、次第に周りの部員も関心を抱き始めているようだった。側で耳を傾けたり、質問されたり。

 少しずつ、ほかの同級生からも話しかけられるようになった。

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