29 草子地は月の光
季節は、秋になっていた。
俺と瀬名の間柄は特に変わらなかったが、彼女を取り巻く環境は随分変わった。戸殿さんをはじめとして、様々な人と一緒にいる姿を見かけるようになった。
話す内容は部活や絵のことだったり、はたまた勉強のことだったりと、瀬名が教えを請われていることが多い。教師よりもわかりやすいと、いいのか悪いのかわからないようなことも言われている。
とはいえ本人も、まんざらではなさそうだった。わりと世話焼きな女の子なのだ。
人前では表情はあまり変わらないままだし、落ち着いた態度だが、だんだん気立てのいい性格であることが周囲に伝わって来ている。
元々瀬名に興味を持っていたり、話してみたいと思っていた人間が多かったのだろう。俺が部活を引退してからも、周りの人々と仲良くやっているようだ。
夜の公園で、今日あったことを笑顔で話してくる。
「今度、戸殿さんと美術館に行く約束をしたんです。ダリ展が行われる予定で……」
「彼女と随分仲良くなったじゃないか」
「い、いえ、そんな……」
また照れている。
「瀬名は、充分ほかの人に色んなものをあげられてるじゃないか」
以前、「わたしには何も返せるものがない」と言っていたが。
「他人に教えられなきゃ何の意味もないってわけじゃないけど……瀬名は、瀬名だけのものをいっぱい持ってるよ。これまで色んなことを頑張ってきた分、培ってきたものがちゃんとあるんだ」
「ほ、褒めすぎですよ……」
「事実を言ってるだけだよ」
そう返すと、瀬名は余計に縮こまってしまう。
「そ、その、わたしがやったことで喜んでもらえるのは、うれしいです」
目の前の微笑みを見て、俺は胸を撫で下ろす。一時はどうなることかと思ったが、最近はめっきり明るくなった。
居場所が増えるのはいいことだ。それだけで、世界が広がるのだから。
▶ ▶
俺のもとに、朗報が届いた。
大学合格の知らせだ。
十月。AO入試の結果が発表された。俺が受験したのは東京の有名な大学だった。古典文学の研究においても抜きん出ており、尊敬する教授までいて、夢にまで見た憧れの環境である。
俺の学力ではなかなか手が届かない場所だが、AO入試ではこれまでの古文研究に関する実績や熱意を評価してくれた。
そして。
一周目、俺が合格した大学と同じだ。瀬名が偽の証拠をでっち上げて俺を停学に追い込み、合格を台無しにした大学と。
東京の大学に進学するということは、当然上京することになる。
それは、瀬名と二年ほど離れることを意味する。
彼女の反応は、火を見るより明らかだった。
ずっと悩んでいた。
どうすべきなのだろうか、と。
断る選択肢もあった。
しかし……なんのために?
瀬名を気遣って?
そのために第一志望の大学への入学を辞退することが、果たして良いことなのだろうか。常軌を逸している。
その先には何の未来も存在しない気がした。瀬名にも、俺にも。
彼女は結局俺に依存し続けるだけだし、一歩間違えれば道を踏み外す危険性を秘めていることに変わりはない。
もし仮に、俺に何かあったらどうなるのだろう。病気や事故、人間が突然命を失う要因なんて、そこらじゅうに転がっている。
このままでは、瀬名はろくなことにならない。
そこまで行かなくても、ライフステージの変化は、人生において避けられないものだ。
それら全てから逃げ続けるなんてことをしていたら、生き方は大きく捻じ曲げられる。
小中高一貫校だったという点が、むしろよくなかった気もする。当然発生するはずの変化が、抑制されてしまったから。
先のことを考えたとき、ここで瀬名のために合格辞退したら、死ぬまで一生離れられないように思えてならなかった。
そして、待っているのは破滅だけだ。
今ならば、活路がある気がした。瀬名が俺から離れても、耐えられる可能性がある。
もちろん困難を伴うことは、覚悟しなければならないが。
そもそもAO入試を受けた時点で、俺の答えはほぼ出ていたようなものだった。
▶ ▶
小さな公園は、ほとんど真円に近い月に照らされていた。人の気配はなく、辺りは静まり返っている。
何度来たのかわからない場所だった。一周目も含めれば、なおさら。
『天体の運行』――太陽系をガラスでかたどった精巧なモニュメントは、今日も噴水の中央に鎮座していた。透明な水の飛沫や、街灯、月明かり全てが合わさって、きらめいている。
思えば、これがなければ瀬名と親しくなることはなかっただろう。
幸運なのか不運なのか、一概には言えないが。
彼女は俺の横で、キャンバスに向かって絵筆を動かしている。
さらさらの黒髪は相変わらずショートに整えられており、大きな両目には月の光が差していた。
白い肌も相まって、秋の玉桂がよく似合う少女だった。
当然白い六弁の花――花韮の髪飾りは着けていない。
伝え方には、細心の注意を払う必要があった。
県外への進学を考えていることも、AO入試を受けることも、あらかじめそれとなく話してある。そろそろ結果が発表されそうだ、とも。
だから、彼女にとって青天の霹靂ではない知らせだが、かといって何事もなく受け入れられるとも思えなかった。
「あのさ、瀬名に伝えておかないといけないことがあるんだ」
「なんですか? 改まって」
きょとんとした顔。無防備な表情に、少し罪悪感が湧いた。
「瀬名には、びっくりする話になるかもしれないんだけど……」
「え?」
不穏さを感じ取ったのか、彼女は眉根を寄せた。絵筆を置いて、こちらを見ている。
「前、AO入試を受けるって話しただろ?」
「……ええ。その、東京の大学に……」
「その入試に、合格したんだ」
「――――」
ふっと。空気が変わった。
世界から突然温度が消えてしまったと錯誤してしまうほど、総毛立つ。
時間が止まったかのような、感覚。
いや、これは俺の《時間》ではない。これは――
傍らの少女は、膝から地面に崩れ落ちる。
「せ、瀬名!?」
その呼吸は異常に乱れていた。
「はぁ、はぁ……先輩、先輩、お、おめでとう、ござ――っ、はぁ、ござい……はぁ、先輩――」
それなのに無理やり言葉を絞り出そうとして、余計に息が上がる。彼女の指先が黒く染まっていく。これはまずい。過呼吸を起こしてしまう。いや、既に片足を突っ込んでいた。
「せ、瀬名、落ち着け、ゆっくり深呼吸するんだ。ほら、まずは息を吐いて」
背中をそっとさする。
「せんぱ、い……はぁ、わ、たし――」
言われた通り、彼女はゆっくり息を吐き出す。
呼吸は落ち着いたものの、その身体が震えている。歯の根が合わず、唇から血の気は失せ、死人のようだ。
「せ、先輩……あ、改めて、おめでとう、ござい、ます。先輩、ず、ずっと、ずっと、その、だ、大学の教授に師事したいって言って、て……先輩が、認められ、た、の、す、すごいと、思い、ます、と、とっても。せ、先輩が、ずっと……が、頑張って、きっ、きたから、です」
彼女は立ち上がることもできないのに、必死に口を動かしている。その言葉は本心なのだろう。だから、ここまで懸命に伝えようとしているのだろう。故に、その姿は異様だった。
目の前の少女が、弱い力で俺のシャツをつかむ。
「せ、先輩……」
一瞬、その瞳が揺らぐ。縋るような、何かを求めるような色が浮かぶ。
だけど、彼女はすぐに手を離してうつむいた。
自分のスカートをぎゅっと握りしめている。何かにじっと耐えているような、そんな姿。
その小さな身体に、必死に抑え込もうとしている。
多少は予想していたとはいえ、まさかここまでの反応を示されるとは思わなかった。
やっぱり無理なのか……?
しかし、ここから「やっぱり合格辞退する」なんて、通らなかった。瀬名はほぼ確実に、自分のせいで俺が夢を諦めたと気に病んでしまう。
肩を抱いて、俺はなんとか彼女をベンチに座らせる。その身体は、乾木のように軽かった。
「瀬名、永遠の別れってわけじゃないんだ。長期休みには皆原に戻ってくるし、今は携帯電話でもやり取りできるし」
「…………」
「毎日電話するよ。こうして公園で会うのと同じ時間くらいに。それで、色んなことを話そう」
「そ、そんなわざわざ……申し訳ない、です」
落ち込むと余計内罰的になる女の子だ、と思った。
俺が東京の大学に行くこと自体は、瀬名の否定を意味しないのに、彼女は自分の全てがダメであるように感じているのだろう。
自分のことがどうでもいいから東京に行くんだ、と思っているわけではないだろうが。志望理由はちゃんと説明したし。
こうなっては、気遣いも逆効果にしかならない。
「せ、先輩……わたし……こわい、です……」
前までの彼女なら、恐怖という感情すら表明することはなかっただろう。
はたから見ても明らかに恐慌をきたしているのに、押し隠そうとしただろう。
「瀬名は、何を心配してるんだ?」
ある程度予想はつくが、彼女に言語化してもらうこと自体が重要だった。
「そ、その……先輩に、見てもらえなくなるんじゃないかって……」
「俺が瀬名を見なくなるわけないよ」
そう言っても、彼女の表情を伺うに、一切信じられていなかった。
いくら言葉を尽くしたところで、瀬名には届かない。受け入れてはもらえない。
彼女は、自分のことを信じていないから。
こうなってしまっては、告げるしかない。
瀬名を見捨てたりしない、絶対的な理由を。
ありのままに言うしかない。
「瀬名のことが、大好きで特別だから」
思えば、それは初めて口にした言葉だった。今更過ぎるけど。俺はずっと瀬名が好きだったのだから。
彼女は目を見開いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「せ、瀬名……?」
「先輩、わたし、生まれてきてよかったです……」
その声はわずかに震えていた。涙はきりなく流れて、白い頬を伝う。そういえば、こんなに一緒にいたのに、瀬名が泣いているところを初めて見た。
「あ、あれ……?」
滴り落ちる雫に、黒髪の少女ははっとする。慌てて涙を拭いながら、
「あ……ご、ごめんなさい、悲しいわけではないんです。むしろ、その、うれしくて……」
「謝るようなことじゃないよ」
俺は瀬名を抱きしめる。
小さくて、頼り気のない体躯。
彼女は恐る恐る背に手を回してきた。
先ほどの、肌をじりじりと焦がすほどの《時間》はなくなっていた。
「わたし、もうあなたと出会う前のわたしには戻れないんです。先輩のことが世界で一番大好きです。ほかの誰よりも、あなたが大好きです。あなたがいないと生きていけないんです。こんなわたしでも許してくれますか?」
「ああ、もちろん」
目の前の、一対の瞳を見る。
大きくて、透き通った青色が広がっていた。虹彩には、わずかに輝く黄色も散っている。触れればどこまでも落ちていきそうな深い湖だ、と思った。
そっと唇を重ねた。
それは初めてのことではなかった。しかし、ありふれたことだと一蹴はできない。今度こそ、本当に時間が止まってしまったかのようだ。
顔を離すと、月明かりの中少女は頬を赤く染めていた。両手も、すっかり元の白色に戻っている。
「……先輩、わたしをお嫁さんにしてくれますか?」
「ああ、大学を卒業したら、俺と結婚してくれないか?」
ここまで来たら、当然そのつもりだった。瀬名以外の人と結婚するなんて、そんな選択肢は存在しなかった。
「それで、一緒に暮らすんだ。きっと楽しいよ」
「先輩と、一緒に……」
毎日、起きたらおはようと言って、眠る前はおやすみと言う。
一緒にごはんを食べて、他愛もない話をする。
休日は、晴れたらどこかに出かけよう。甘いものを食べたり、綺麗な景色を見に行くのもいい。
それがどれだけ穏やかで楽しい時間なのか、俺は見てきたかのようにわかる。
俺の話を聞いて、瀬名はやっと笑顔を見せてくれる。
「えへへ、わたし、先輩のお嫁さんになりたいです。その……ずっとずっと、夢だったので」
腕の中の少女は細くて薄い身体だったが、確かに存在していた。か弱い温度も、鼓動も。
「わたし、今の約束、ずっとずっと覚えていますから。先輩、東京の大学に行っても、忘れないでくださいね?」
「大事な約束なんだから、忘れるはずないよ」
「じゃあ、その……指切り、してほしいです」
瀬名はすぐ間近で、じっとこちらを見上げている。
「あはは、わかったよ」
軽く小指を絡めて、お決まりの言葉を唱える。
夜空に浮かぶ灯りが、唯一にして絶対の証人だった。
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