終話 薤上之露、されど



 人生に、価値はあるのか。

 人間の価値の所在は、どこなのか。

 俺は、ずっと考え続けてきた。


 才能や長所がすぐれていれば、それは価値の証明になるのだろうか。トロフィーの数が、価値の重さになるのだろうか。


 無論何かを成し遂げるのは素晴らしいことだ。

 だが、数々の方面で表彰され続けた少女は、あんなに息苦しそうにしていた。周囲の評価に振り回されて、袋小路に陥っていた。


 周囲の評価が常に正しいとは限らない。そもそも、どれが正しい評価か断定するのも容易ではない。


 結局、人間の価値というものは。

 自分自身でそれを認めなければ、始まらない。


 東京の大学に進学した後も、俺は瀬名とこまめに連絡を取り合った。

 彼女が東京でのコンクールに参加するときは、会いに行った。顔を合わせるたびに、瀬名は変わらず目を輝かせていた。




 ▶ ▶




 大学が初めての夏休みに入ったので、俺は皆原に帰省していた。


 早速、瀬名の家に招かれる。

 女性専用マンションなので、立ち入るだけでなんだか悪いことをしている気分になってくる。来客なら、男性でも入っていいというルールとはいえ……。


 築浅の建物は壁も天井も白く、とても綺麗だった。しかも、広々としている。一人暮らしなのに、2LDKらしい。


 部屋数が多い割に、物が極端に少ない。必要最低限の家具は、白を基調としている。白木のフローリングの床にはカーペットも敷かれていない。


 白いアップライトピアノも、学校で使う用品の数々も、几帳面に整理整頓されていることも相まって、生活感が一切抜け落ちていた。


 本棚にぎゅうぎゅうに押し込まれた本に、娯楽の要素は一切ない。全て参考書や教本の類だ。以前俺がおすすめした古文全集も全部揃っているが。

 モデルルームからそのまま持ってきたような――いや、モデルルームだってまだ安らぎを演出するだろう。


 この部屋だけ見ても、居住者がどんな人間で、どんな趣味を持っているのか一切伺えなかった。


 ふと、棚の上に置いてある、青い瞳のダックスフンドのぬいぐるみが目に入った。

 それを見て、俺はほっとした。

 こんな人間味が感じられるものもあるのか。


「一人暮らしにはもう慣れたか? 部屋、すごい綺麗にしてて驚いたよ」

 来客が来るから片付けたとか、そういうレベルじゃなく、日頃からこうしているのだろうが。


「はい。家事を覚えるのは楽しいですし、ひとりの方が色々と気楽ですから」

 瀬名はどこか寂しそうに微笑む。


 今日は丈が長い薄水色のノースリーブワンピースを着ていた。胸元を青い花の飾りが彩るデザインで、涼しげだ。


「今、料理を勉強してるんです」

 ダイニングから見えるキッチンに視線を向けると、調理器具がやたら充実している。もちろん、それらも四角四面に並べられていたが。


「その……先輩のお嫁さんになるなら、料理ができた方がいいと思って」

「あはは、ありがとう」

 いつものくせで頭を撫でると、世界で一番愛らしい笑顔が浮かんだ。


 彼女は、早速手料理を振る舞ってくれる。車海老と夏野菜の天ぷらは揚げたてで、ほかにも冷やし出汁茶漬け、甘鯛の塩焼きといったメニューが並んでおり、やはり瀬名の料理はおいしかった。


「先輩、東京の大学はどうですか?」

「ああ。教授陣も錚々たる面々が揃ってるし、充実してるよ。図書館の蔵書数も、貴重資料も、皆原の大学より豊富だし」


 俺と似た趣味の学生もいて話が盛り上がるし、とは口には出さないが。

 正直、安曇大学よりよほど研究が捗っている。孟母三遷とはよく言ったものだ。学びの環境は、あまりにも重要だ。


 それに、東京の大学は多様な人間が集まっている。日本各地から学生が上京しているし、留学生も多い。

 様々な価値観に触れられるのも大きかった。


「瀬名の方はどうだ?」

「わたしは――」

 彼女も、最近あったことを朗々と話してくれる。


 戸殿さんや周囲の人間と相変わらず仲良くしていること。新しく入ってきた後輩にも、頼られていること。このままだと美術部の次期部長を任せられる見込みで、忙しくなりそうなこと。


 その表情を見ているだけで、楽しく過ごしていることが伝わってくる。元気そうでよかった。


 食事中も、終わった後も、とりとめもない会話を交わす。久々に顔を合わせたからか、瀬名はいつもより饒舌だった。

 途中、冷えた紅茶を淹れてくれたり、お茶菓子を出してくれたり、甲斐甲斐しさも変わらない。



 ▶ ▶




 気がつけば、窓の外の太陽が沈みかけていた。あまり女の子の一人暮らしの家に長居しても悪いか。その辺の線引きはしっかりしないといけないし。


「そろそろ暗くなってきたし、俺は帰るよ」

 瀬名は一瞬何か言いたげにする。だが、すぐに顔を伏せた。


「大丈夫だって。まだまだこっちにはいるし。明日も会おう」

「そう、ですね」


「ああ、ごめん。ちょっとお手洗い借りてもいいか?」

「構いませんよ。ダイニングから廊下に出てすぐのところにある扉です」

「ありがとう」


 色々あったが、一周目のような未来を避けられてよかった。

 意味もなく死体を積み上げるなんて言語道断だし、何より瀬名にあんなことをさせたくない。


 唯一、朝霧のことが気がかりだった。この世界での俺は安曇大学に通っていないし、彼女の謎解きの手伝いができないどころか、出会うことすら難しいだろう。


 しかし如何なる世界でも、きっと彼女は答えに辿り着く。

 恐らく、そういう運命だから。


 ふと、朝霧の言葉が頭をよぎった。


――時間移動には制約も多いの。その最たるものが、『運命』は変えられないってこと。


 運命。

 世界を導く大きな流れ。


――何か嫌なことがあって、時間を巻き戻したいと思うのは自然な感情だわ。でもね、そうやって嫌なことから全て逃れようとしたら、際限がなくなる。


 なんだ?

 どうして今、こんなことを思い出す?


 戸惑いながら、ドアノブをひねる。件の、ダイニングから廊下に出てすぐのところにある扉を。

 油絵具の匂いが広がった。

 部屋を間違えた、と気づくと同時に身がすくむ。


「な、なんだこれ……?」

 電灯も陽光も照らしていない暗い部屋の中には、無数のイーゼルが置かれていた。壁も全てキャンバスで埋め尽くされており、足の踏み場もない。


 そして、キャンバスには。

 茶色い髪に、水色の瞳。

 毎日、鏡の前で見る顔。


 俺だ。

 俺が笑っている。


 どのキャンバスにも、一枚残らず俺が描かれている。いや、俺しか描かれていない。それ以外のものは何もない。

 まるで写真のように精巧で、無数の同じ色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。


 俺の知らない俺が、夥しいほどの数生み出されていた。

 置き場所がないのか、隙間なくぎっしりと。


 先程までいた部屋の、寂寥とした広さとはまるで違う。今にでも壁を、扉を突き破って噴き出しそうなほど煮えたぎるものが、強引に押し込まれている。

 こんなの、誰が描いたのか明白だった。


 瀬名は、きっと毎日のように俺を描いていたのだ。

 キャンバスでここまで埋め尽くすほどに。


 しかも、この部屋には見覚えがあった。

 最早遠いものとなった記憶。

 そうか、ここは。

 俺が彼女に監禁されていた部屋だ。


――孝太郎くん、「同期」って知ってる?


 脳裏に、唐突な声が響いた。大昔、聞いたことすら忘れていたような話が、頭の中で再生される。


――魂は、あらゆる世界、過去や未来を超越して共通するものなの。だから、魂が変化すれば、全ての世界に変化が生じる。


 そうだ、それが「百年の壁」を超えた呪いから逃れられないメカニズム。

 魂に刻まれた死の運命は、どんな並行世界でも不変だ。


――魂は人間が介入できない領域だけど……ふふ、何事にも例外というものは存在するわよね?


 うんざりするほどよく回る舌が、記憶の中でも楽しそうにしゃべり続ける。


――ラネットは世界の歪みで、バグなの。秩序を、均衡を、不安定にさせるのよ。歪みの中では、時として予想し得ない挙動が起き得るものだわ。


 光に照らされて銀色に輝く髪まで、幻視してしまいそうだ。もうとっくに消えてしまった赤い瞳が、こちらをじっと見ている錯覚すら覚える。


――もし、その歪みに非常に近い場所にいた人間が、その上世界を捻じ曲げるほどの強い意志を持っていたら、どうなると思う?


――自らの核が、魂の有り様までもが、捻じ曲げられてしまうかもしれないわよね?


 魂が、捻じ曲げられる?

 意志によって?

 そんなことが起きたら、どうなるんだ?


 その瞬間、後ろから抱きつかれた。身体に、彼女の両腕が絡みつく。

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。


「ねえ、先輩」

 それは瀬名の声だった。


 いや、違う。

 この世界の瀬名は、こんな声は出さない。

 こんな、嫣然とした声は。


「やっぱりあなたは、わたしとずっと一緒にいてくれないんですね」

 俺の腰部に電流が走る。

 なす術もなく、崩れ落ちた。


 彼女はスタンガンを仕舞うと、慣れた手際で俺を拘束する。

 こちらを見下ろす瞳は、表情は、見覚えがあった。もう見ることはないと、思っていたのに。


 「同期」。

 一周目における瀬名が。気が狂った殺人鬼が。

 韮沢瀬名という少女の魂に刻み込まれてしまったら?


 無数の並行世界で、瀬名に上書きされてしまう。

 彼女から絶対に切り離すことができない、不可逆で、逃れられない、運命。


「せ、瀬名」

 二度目﹅﹅﹅だからか、どうにか声が出せた。

「この世界も、ダメなのか?」

 大丈夫だって、言っていたのに。


「言ったでしょう? あなたがいないと生きていけないんです。わたしにとって必要なのはあなただけなんです。それ以外の全てが無価値なのに」

 鉛筆の黒鉛で引っ掻き回したような両目が床に――こちらに向けられている。


この世界﹅﹅﹅﹅のわたしは愚かでした。全部あなたの言う通りにして、どうでもいい人たちと仲良くして、本当は上京してほしくないのに、あなたに見てもらえなくなることを恐れて、大丈夫なように振る舞って。実際はあなたのことしか考えていなくて、あなたと一緒にいること以外望んでいないのに」


 どうでもいい人たちと?

 じゃあ、ほかの人との思い出を楽しそうに話していた姿はなんだったんだ?


――そ、その、わたしがやったことで喜んでもらえるのは、うれしいです。


 そう言ってたのに――いや。

 あれはまさか。

 瀬名が周りと仲良くしている話を聞いて、喜んでいる俺に向けた――


 だったら端から全部、俺の顔色を窺って機嫌を取るためにやってたのか?

 俺に喜ばれる話題作りのためだけに?


「東京で行われる表彰式に呼ばれればあなたに会えると思って、必死に絵画コンクールに出展したり……バカみたいですよね。こうすれば、何も我慢する必要なんてないのに。あなたはずっと一緒にいてくれるんですから」


 こ――こんなの、救いようがない。打つ手立ても、手の施しようも、一切。

 俺が何をしようがどうしようが、彼女は過去も未来も、全ての世界で縋り付いて縛り付けようとしてくるのだから。


「でも、わたし﹅﹅﹅が現れるまでもありませんでした。この世界のわたしはとっくに限界なんて超えていたのに、必死に抑えていたんですから。遅かれ早かれこうなっていました」


 俺の両手に、両足に、また枷が取り着けられる。

 電流で収縮させられた全身の筋肉では、抗うことすらできない。


 朝霧の死が不可避の運命だったように――みたきも、魂に逃れられぬ死を刻み込まれたように――瀬名も。

 変えようも、逃れようもない。


――あなたから与えられるものだけが幸福で、この気持ちは死ぬまで――いいえ、死んでもなくなることはありません。


 そういえば、一周目瀬名は最後にそんなことを言っていた。

 こんなの、どうやって逃れればいいんだ? ありとあらゆる道も、未来も、袋小路につながっている。


――私はあなたを愛しているから、あなたには最後に破滅をプレゼントしてあげる。


 みたきはここまで見越していたのか……。こんな、なす術ない破滅を。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817139555238542776


「ずっとずっと永遠に一緒ですからね、先輩」

 笑顔を――この世で一番好きな表情を、彼女は浮かべた。


 終わりがないということ、永遠というものは最上の牢獄だ。

 端から過去を変えることなんてできなかった。

 時間を巻き戻そうが、世界はもっと大きなものに縛られている。


 死がふたりを別つまで――いや。死んでもなお追い縋ってくるもの。

 きっと、これが永遠なのだ。




 🔁 🔁


――――――――――――――――――――――――

あとがき→https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817139555238572146

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