番外編

後日譚・前日譚等

相聞の果て


 わたしの首は断頭台上にある刃が降りてくる

 わたしの首はこちらへ行きあとの残りはあちらへ行く

 わたしがいるのはどちらがわになるのやら

――R・D・レイン(訳:村上光彦)




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 先輩との日課の電話を終えて、わたしは納戸――絵を描くための部屋に入る。

 2LDKの家はわたしには広くて、持て余していた。


 窓すらない空間。でも、最早窓の有無なんて関係なかった。部屋の中はたくさんのキャンバスで埋め尽くされて、壁すらも全て覆い尽くされていたから。


 そのどれもに描かれているのは、先輩。それ以外描かれていないと言ってもいい。

 最近、気がつけばいつも筆を執って先輩の絵を描いている。先輩のことを考えていると、彼の輪郭や髪、瞳の色、笑うときの仕草全てを、紙上に映したくなる。


 写真を見なくたって、それらは本物の先輩と寸分違わない。だって、先輩の姿はわたしの胸に焼き付いているから。ずっと先輩のことを見ていたし、今でも暇さえあれば思っている。彼の流れる髪の一本一本や、指の先に至るまで、全て。その豊かな色彩も、今確かにここに存在している。


 キャンバスの上の彼の瞳は、わたしだけに向けられている。

「先輩……」

 そっと顔を寄せると、油絵具の匂いがした。


「……違う」

 こんなものは先輩ではない。こんな絵をいくら描いたって、先輩がいないという事実は変わらない。


 電話なんかじゃ足りない。

「先輩、先輩……」


 苦しくて、今すぐ声が聞きたくて、会いに行きたくて、でも、こんなわたしは間違っているのだった。先輩が望んでいるのはこんなわたしじゃない。もっと先輩に喜んでもらえるわたしにならないと。


 もう学校なんてどうでもいい。今すぐ東京に行って、先輩に会いたい。ううん、会うのはきっと先輩にとって迷惑だし、嫌われてしまうから。わたしは、先輩の後ろをこっそりついていくだけでいい。そうするだけで、どれだけ幸せだろう。それで、先輩をずっとずっと見続ける。毎日毎日ずっと。


 でも、先輩が望んでいるのはそんなことじゃない。


「先輩、先輩、先輩……」

 我慢、しないと。そうしないと先輩に見てもらえない。

 間違っているわたしは必要としてもらえない。見捨てられてしまう。


 キャンバスの上の先輩は、わたしを見てくれている。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」

 先輩の望む通りにしていれば、先輩に見てもらえるんだから。なかなか会えなくとも、毎日声を聞かせてくれるんだから。


「先輩、先輩、先輩……」

 わたしは絵筆を持って、また先輩を描き始める。


 自分の中にある抱えきれないほどの先輩を外に出そうとして?

 違う。


 キャンバスの上でだって、わたしの内側で循環していることに変わりはない。

 筆を走らせるたびに、先輩はより強固になっていく。

 先輩が膨れ上がっていく。

 でも、先輩を描いていると、先輩とつながっている気がした。


「先輩、先輩、先輩……」

 先輩を感じる。

 先輩のまなざしを、声を、色彩を。


 先輩の声は、カドミウムオレンジだった。

 触れるだけで熱を持つような、あたたかい色。


 でも、正確には少し違うから、絵の具をいくつも混ぜて再現する。

 先輩の髪の色も、瞳の色も、同じように。

 早く見たい。実物を。それが一番綺麗な色だから。


 こんな絵、いくら描いたって外に出せるはずがないし、もう部屋の中に収まりきらない。だからといって、先輩の姿をしたこれを、捨てるわけにもいかない。


 時折、わたしがやっていることは全部間違っているんじゃないかって不安になる。正しいことなんて何もなくて、先にはただ暗闇だけが広がってるんじゃないかって。


 だけど、先輩に喜んでもらえるとその不安も払拭される。これで間違ってないんだって。先輩と一緒にいられるんだって。

 先輩に認めてもらえないと、わたしは何もできない気がした。


 コンクールで入賞すれば、東京に招かれる。

 そうすれば、先輩に会いに行ってもおかしくない。先輩は喜んでくれて、わたしのことを見てくれる。

「頑張らなきゃ……」




 ▶ ▶




 携帯電話を見ると、新しいメッセージが来ていた。

 一瞬先輩からかと思って胸が高鳴るが、違った。クラスメイトの女生徒からの、他愛もない話。そんなの、どうでもよかった。


 でも、わたしがほかの人と仲良くすると、先輩は喜んでくれる。起きた出来事などを話すと、うれしそうに聞いてくれる。


 きっと先輩は、社交的なわたしを望んでいるんだ。

 だったら、先輩の望む通りにしないと。

 大事なのは先輩に喜んでもらえるかどうかで、それ以外のことは全てどうでもよかった。


 クラスメイトに当たり障りのない返信をして、わたしは寝室に入る。

 まだ初等部だった頃に、先輩からもらった犬のぬいぐるみ。いつもこれを抱いて眠るのが習慣になっていた。


 人形になったダックスフンドは、長く垂れた耳も黒い鼻もかわいらしい。

 焦がしたキャラメル色の毛並みはまるで――まるで、先輩みたいだ。


 ぬいぐるみを、ブラシでやさしくブラッシングする。先輩からもらった大切なものだから、大事に手入れしないと。


 以前、間違ったわたしを抑えきれなかったときに、このぬいぐるみの瞳を引きちぎって取ってしまったことがある。そんなこと、すべきではなかったのに。


 このぬいぐるみは黒い瞳をしていたから。先輩は、空色の瞳をしているのに。

 先輩でないものは、必要なかった。


 その後、空色の瞳を店で探してきて、更に理想に沿うように塗り直して、縫い付けた。それで、このぬいぐるみはちゃんと先輩になった。

 抱きしめると、ふわふわとやわらかくて、あたたかい。


「えへへ、先輩、先輩……」

 すごく落ち着く。


「先輩、わたし、先輩のためにもっとたくさん頑張りますね」

 そう言って、目を閉じる。ふかふかな感触を確かめながら。




 ▶ ▶




 先輩の大学が夏休みに入った。ということは、先輩が皆原に戻ってくる。

 ずっとこの日を待ち侘びていた。

 先輩に会える日を。


 先輩が帰省する当日は、駅まで出迎えに行った。嫌がられないか心配だったけど、喜んでくれた。


 次の日は、先輩がわたしの家に遊びに来てくれる予定になっていた。

 先輩を部屋に招くなんて緊張するけど、先輩がそれを望んでいるというのなら、断る理由はなかった。

 ……あの絵の部屋だけは、見せないようにしないと。


 前もって準備に何日も掛けた家に、先輩がやってきた。

 今日のために、とっておきの紅茶も、お菓子も用意した。


 先輩に食べてもらう料理のために、何度も練習して、旬の食材を丹念に選び抜いた。何も問題はないはず。先輩に、失望されたりしないはず。


「一人暮らしにはもう慣れたか?」

 ダイニングの椅子に腰掛けながら、先輩はそんなことを訊く。わたしは、うなずいた。


 先輩のまなざし。

 先輩の匂い。

 先輩の笑った顔。


 どうして先輩はこんなに特別なんだろう。

 ほかの人と全く違う。

 誰と一緒にいたって、先輩といるときほど幸せな気持ちにはならない。


「今、料理を勉強してるんです。その……先輩のお嫁さんになるなら、料理ができた方がいいと思って」

「あはは、ありがとう」


 先輩が、頭を撫でてくれた。

 その瞬間、わたしの内側が沸騰する。

 この人のためならどんなことだってできるという感情が、全身を呑み込む。


 前まではこの気持ちの奔流が少し怖くなることもあったけど、今思えば何を心配する必要があるのだろう? わたしの全部は先輩のためにあるし、先輩以外何もいらないのだから。


 わたしが振る舞った料理を、先輩はうれしそうに食べてくれる。たくさん褒めてくれる。


 先輩の表情が、言葉が、全てきらきら輝いて見える。

 このまま時間が止まってしまえばいいのに。

 これ以上に幸福な時間なんてないから。


 先輩以外何もいらない。先輩と一緒にいられるのなら、わたしは自分の全てを賭すことができる。


 先輩はわたしを救ってくれた。わたしに価値を与えてくれた。わたしを必要としてくれた。

 こんなに大好きな人とずっと一緒にいられたら、どれだけ幸せだろう。


 先輩は、大学のことを楽しそうに話していた。先輩が新生活を満喫しているようでよかった。先輩の笑った顔は、いくらでも見たいから。


「瀬名の方はどうだ?」

「――――」

 わたしは、もうどう答えればいいのか分かっていた。

 先輩が教えてくれたから。


 わたしは、学校のことを話す。

 友達のことも。

 先輩と会えなくても楽しく暮らしているって。

 先輩が望んでいるであろうことを。


 先輩は、わたしの話を笑顔で聞いてくれた。


 先輩に喜んでもらえている。

 わたしは、うれしい、と思った。


 これでよかったんだ。

 これで間違ってないんだ。


 もっともっと先輩に喜んでもらいたい。

 間違っているわたしは邪魔だから、跡形も残らず全て消してしまわないと。


 わたしを構成する要素を余さず、先輩に喜んでもらえる正しいわたしに取り替えるんだ。

 そうすれば先輩にたくさん喜んでもらえる。わたしなんかがわたしのままでいたって、必要としてもらえないし。

 もっともっと頑張らないと。


 先輩のためなら、わたしはどんなことだってする。やり遂げてみせる。こんなにも大好きで大切で特別な人のためなら、全てを捧げられる。


 先輩はどんな人が好きなんだろう。

 どんな人を求めていて、何で喜んでくれるんだろう。

 それが全部全部詳らかにわかれば、これほど楽なことはないのに。


 でも、先輩は大抵の場合教えてくれない。だから、わたしは先輩の反応や様子からなんとか汲み取るしかない。


 頑張らないと。正しいわたしになるために。


 不意に。

 先輩の顔が近づく。

 触れ合うほどの、距離に。


 たとえば、将来を誓い合うときにするような。

 そんな、こと。


 生まれてきてよかった、と思った。


 先輩は、わたしをお嫁さんにしてくれるって約束してくれた。

 わたしと、ずっとずっと一緒にいてくれるって。


 これも全部、わたしが先輩の言う通りにしているからだ。

 先輩に失望されたら、見捨てられてしまう。そんなことは絶対に避けなくてはならない。だって、先輩がいない世界には何の意味もないから。


 先輩に喜んでもらえるような正しいわたしでいることが、先輩に見てもらうために必要不可欠だった。




 ▶ ▶




 この世で一番幸福な時間は、あっという間に過ぎていった。


 大好きな人は、窓の外にちらりと目を遣って、言葉を発する。

「それじゃ暗くなってきたし、俺は帰るよ」


 え?

 先輩が、帰る?


 まだ全然足りない。

 だってわたしはずっとずっとずっと先輩に会いたくてそれだけを考えてずっとずっとずっとそれだけを楽しみにしていたのに今日までずっとずっとずっと我慢していたし全部全部先輩の言う通りにしてきたし先輩に喜んでもらうためならなんだってしたのにどうしてもう帰ってしまうのわたしは先輩とずっと一緒にいたいのにそれ以外何もいらないのに嫌嫌嫌どこにも行かないでどこにも行かないで一緒にいてわたしのことだけを見てどこにも行かないでずっと一緒にいてずっとずっと一緒にいてずっとずっとずっと永遠に永遠に永遠に一緒にいて先輩先輩先輩先輩先輩――


 そこで、わたしははっと我に返る。


 言う通りに、しないと。

 先輩に喜んでもらえる正しいわたしでいないと。


 望まれていないわたしは必要ない。

 全部全部消してしまわないと。

 こんなわたしは間違っているんだから。


 だったら、わたしって何?


 先輩と一緒にいたいから先輩の言うことを全部聞いて、先輩がいなくても大丈夫なように振る舞って、先輩がいないと生きていけないわたしは消さないといけなくて。


 わたしは、一体どうすればいいんだろう。


 そのとき、スイッチが切り替わる音がした。わたしの頭の奥で。


「あれ?」

 この世界は、二回目なんだ。水が百度で沸騰するように至極当然に、理解する。


 前の世界でのことを全て思い出す。

 それは、情報の濁流に襲われるというようなことではない。元からそこにあった知識に、気がついただけ。

 だからわたしはすごく冷静だった。


 先輩が正しいわたしを望んでいたのは、そういう理由だったのか。人殺しなんてしないわたしになれるように。


 でも、そんなの無理だった。わたしは先輩以外何もいらないのだから。邪魔な人がいると先輩に見てもらえないのなら、消すだけだった。


 前の世界の終わり際﹅﹅﹅﹅のことはよく覚えていないけど、大方先輩はわたしを拒絶したのだろう。だから、次の世界の新しいわたしを求めたのだ。


 この世界でも先輩はわたしの傍にいてくれたんだ。

 先輩が望むわたしに、わたしを変えようとしたんだ。


 うれしい。

 やっぱり先輩はすごく特別な人だ。

 先輩のためならなんだってできるという気持ちが余計に膨れ上がる。


 もっと先輩と一緒にいたい。

 ずっとずっとずっと永遠に。


 だから、東京の大学に行くなんて許せない。


「――ダイニングから廊下に出てすぐのところにある扉です」

 いい機会だ。この際、先輩にわたしの全てを知ってもらおう。わたしがどれだけ先輩のことが大好きで、どれほど四六時中考えているのか。


 わたしは急いで寝室に向かい、隅の引き出しを開ける。

 入っていたのは、スタンガンに、ロープに、手錠や足枷。

 ここにあるはずがないもの。

 それが、どうしてここに?


 ああ、そうか。

 正しいわたしなんて、最初から存在しなかったんだ。


 スタンガンと手錠をポケットに押し込んで、部屋を出る。

 先輩は、納戸の扉を開けたまま立ち尽くしていた。

 わかってもらえただろうか。わたしの本当の気持ちが。


 わたしは、大好きな人に抱きつく。

「先輩、ずっとずっと永遠に一緒にいましょうね」

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