the apple of my eye・上
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また、目の前の光景が大きく変わった。床に広がっていた赤い血だまりが消え去る。
瀬名に監禁されてからは、既視感溢れる日々の開幕だった。大体が元通りに戻り、人は消され、破滅へと転がり落ちていくだけだった。
どうしようもなくて、再度瀬名を自殺に追いやってしまった。彼女が自分に耐えきれなくなって自ら息の根を止めるか、外的要因によって終止符が打たれるよりは、俺自身の手で終わらせた方がずっとマシだった。
すると、視界が歪んで、一瞬身体が宙に浮く感覚がして、居場所がいきなり変化した。明らかに、時間移動だ。
やはり俺の時間移動のトリガーは、瀬名を死に至らしめることらしい。ほかならぬ自分の意志が、そうさせてしまっているのだ。
別に時間移動しようが、あの殺人鬼はどの世界へでもついて回ってくるのに。俺が死ぬまで――いや、死んでも別の世界の俺が餌食になることは変わらない。
こうなっては、みたきに時間移動しても消えない「おまじない」を掛けられたことが、袋小路を加速させている。
俺にできるのは、「同期」を極力避けることだ。
なぜ彼女があのタイミングで、一周目の人格に上書きされてしまったのか。トリガーはどう考えても、俺が帰ろうとしたから――もっと言えば、俺と一緒にいられないからだろう。
あまりにも簡単な条件。俺と一緒にいられるかどうか。それが、全てなのだ。
夜風が肌を撫でる感触も、久々だった。
時間移動した先は、今となっては見飽きた夜の公園だった。例によってベンチに腰掛けていて、俺は瀬名を抱き締めていた。
これは――と、記憶を辿る。
確か、瀬名が中学三年生の頃に、習い事をほとんどやめさせられたときだ。ひどく落ち込んでいて、抜け殻のようになっていたから、なんとか励まそうとしたんだ。
二周目よりもどうしようもない始まり方だ。ここから、どうやって彼女と距離を取ればいいんだ。俺が手を離せば、その瞬間消えてなくなりそうなくらいなのに。
瀬名は本当に離してくれないようだ。
もう、どうでもいいか。
「瀬名」
名前を呼ぶと、腕の中の少女は力なく反応した。
わずかにこちらを見上げた白い顔に、唇を重ねる。
「――――」
彼女のかすかな息遣いを感じる。確かに温度を持つそれは、絶たれる前の生命の証だった。
「せ、先輩?」
顔を離すと、瀬名は真っ赤になっていた。
「俺は――」
決まりきった台詞を並べた愛の告白は、二度目だった。
「……先輩、わたしをお嫁さんにしてくれますか?」
やがて、聞き覚えのある言葉が出てくる。
俺は、約束したのだ。いつ如何なるときでも、命ある限り永遠に共にいると。
「ああ。瀬名をお嫁さんにしてあげるよ」
⏩ ⏩
それから、四年が過ぎた。
どうやら俺が瀬名と一緒にい続ける限り、殺人鬼の少女の人格が同期されることはないらしい。
数ヶ月や数年スパンで離れたり、ずっと一緒にいられないという状況を作ったりしなければ、何の問題もなかった。
瀬名の様子にはより一層注意を払っているが、不審な様子はない。奇妙な行方不明事件も起こっていないし。
東京の大学に行くという選択肢は存在しなかった。だから、皆原市内のところに進学した。
だが、安曇大学ではない。
瀬名が俺と同じところに入学するのは目に見えていたので、それなりのところに行かなければ、彼女の学力がもったいない。
そのため、勉強にかなりの時間を割いて地元の難関大学に合格した。
さすがに大学受験を三度もやれば、要領は掴めてくる。二浪しているようなものだし。未来で入試問題を盗み見るなんて真似は一切していないが。
第一志望の大学ほどではないが、文学研究の環境が整っていて、勉強は充実している。
瀬名も大学生になった。当然のように俺と同じ大学で同じ学部の同じ学科である。首席合格なところがすごいが。
もう他人と仲良くするよう言うのはやめた。そんな茶番、やっても仕方がないし。
相変わらず人前では冷ややかな態度だが、可能な限り俺と同じ講義を取りたがるし、同じ教室になったときは俺の斜め後ろに座りたがる。隣の席ではないところがなんとも瀬名らしい。
昼は、一緒に瀬名が作ってくれた弁当を食べる。
彼女は大学でも成績優秀で、俺の方が教えてもらうことが多いくらいだった。
五限が終わってから、帰路に就く。日は傾いているが、まだ暑さが残っていた。アスファルトから熱気が立ち上るようだ。
大学進学に併せて、一人暮らしを始めた。
親は自立心の現れだとして歓迎したし、とんとん拍子でアパートを借りた。
鍵が掛かっていない玄関のドアを開けると、すぐにとたとたと軽い足音が寄ってくる。薄水色の丈の長いワンピースの上に水色のエプロンを身に纏った、小柄でかわいらしい女の子。
「えへへ、先輩、おかえりなさい」
熱の籠った目で見つめてくる。
「ただいま」
家で瀬名が待っているから、なるべく早めに帰るようにしている。
「先輩、その、ただいまのキス、してほしいです」
「あはは、わかったよ」
そっとキスすると、瀬名は抱きついてくる。一切離れようとしない。
……仕方がない。もう少し長めにしておくか。
ただいまの挨拶が終わると、瀬名は、キッチンで料理の続きに戻る。
「えへへ、お料理、楽しいです。先輩に喜んでもらえますし」
そのエプロンは、
最初の内は一緒に暮らすことへの戸惑いもよく見せていたが、今ではすっかり慣れたようだった。不安な表情を見せることも、ほとんどなくなった。
瀬名の頭を撫でると、相変わらず目をきらきらと輝かせている。
ついでに、彼女が髪に着けた花韮の髪飾りに触れる。
「先輩?」
不思議そうに、見上げてくる瀬名。
白い六弁の花は、その鴉の濡れ羽色の髪によく映えた。
「ああ、似合ってるなって思って」
二周目でも、贈っていればよかった。下手に自制せずに。
褒められて、瀬名はまた笑顔を見せる。
彼女は常時この髪飾りを着けていた。外すのは入浴時か寝るときぐらいなものである。まぁ、性格を考えれば至極当然とも言えたが。
一周目で彼女と暮らしていたアパートは、元々ふたりで住むことを想定して借りたものではないので、今回は少し広めのところにした。
彼女が親からもらったという分譲マンションの一室は、処分させた。必要ないからである。
「女性専用マンションなら一緒に住めないし、今後使うことはないだろう」と言ったら、瀬名は二つ返事で承諾した。
瀬名は親とはほとんど絶縁状態のようだし、頼れる人間もほかにいないから、仮にどこかの住居に移り住もうとしても、契約に至るまで大変だろう。しかし、そもそもそんなことをする必要はないのだから、何も問題はないのだった。
「先輩のお嫁さんになるんですから、先輩の好きな料理をたくさん作れるようになりたいです」
「あはは、ありがとう」
やがて料理が完成し、ダイニングのテーブルに並べられる。
前の世界と同様、彼女は毎日てきぱきと家事をする。俺が手伝おうとすると表情を曇らせるくらいだ。
「できたてでおいしいよ」
「えへへ、先輩が帰ってくるタイミングは、GPSで見計らっていますから。先輩にできたてを食べてもらえるように作っているんです」
この前、瀬名が俺の携帯電話にカップル用の位置情報共有アプリを入れたいと言ってきた。瀬名がこんなふうに自分の希望を伝えてくるなんてと、ちょっとした感動すら覚えたものだった。
前の世界だったら、俺に気取られないように勝手に携帯電話に仕込んでいただろうし。ここまでやってきた甲斐があったというものだ。
そんなわけで、俺の位置情報は瀬名に筒抜けだった。まぁ、彼女のGPS情報も俺の携帯電話から確認できるのだが。
試しに一度瀬名の位置情報を見てみたが、特に何も感じなかった。彼女の行動範囲は狭くて、予測の範疇を一切超えなかったからというのもあるだろう。今の時間ならそりゃここにいるよな、という感想しかなかった。
GPSは、相手の位置が予想外のものだったら不安を掻き立てるのに、別に予想内なら嬉しいかといわれればそうでもないので、あまり割りに合っていないような気がした。とはいえ、瀬名が安心できるならそれでいい。
▶ ▶
食事の後、瀬名はベランダの鉢植えの世話を始める。
土の上には、水色で五弁の小さな花が、いくつも咲いていた。
そういえば、一周目の瀬名もこの花を育てていた気がする。
「なんて名前の花なんだ?」
「ブルースターです」
「へえ、かわいい花だな」
「はい、綺麗な空色だし……すごく好きな花です」
それが終わると、瀬名は背筋を伸ばしてソファ――俺の横に座る。それはいつも通りの所作だったが、なぜだか彼女の表情には緊張感が覗いていた。
しばらくタイミングを見計らうように黙っていたが、ようやく口を開く。
「先輩、その、わたしは将来どういう職業に就いた方がいいと思いますか?」
ああ、と納得する。それが訊きたかったのか。
「瀬名は俺のお嫁さんになるんだろ? それなら、働く必要はないじゃないか」
「今の時代は共働きが主流ですし……研究のお仕事は色々大変だって聞きました。わたしも働いて、少しでも先輩の役に立ちたいです」
随分真面目な考え方だった。
「そんなこと気にしなくて大丈夫だよ。瀬名はほかの人と関わったりするのが苦手だろ? 仕事ってなると、色んな人と関わる必要が出てくるんだぞ? 瀬名が疲れたりしないか心配だよ」
「そ、それは……」
「考えてみてくれ。性質の悪い上司や同僚、客なんてのはいくらでもいる。そんな人たちに囲まれたら、一体どうするんだ?」
「わ、わたし、その……」
俺は、念のために様々なニュースを持ち出す。仕事が人を壊す話を。彼女の顔はどんどん青ざめていった。
「瀬名は何も心配しなくて良いんだよ。大学を卒業したら、すぐに結婚しよう」
目の前の女の子は、おずおずと頷いた。
「ご、ごめんなさい、わたしがもっとしっかりしてたら、働いて先輩の役に立てたのに……」
「大丈夫だよ」
そう声を掛けても、彼女の表情が晴れないことはわかりきっていたが。
「そんなに俺の負担が心配だったら、瀬名の貯金を生活費に充てようか?」
彼女が、以前親からまとまった金額をもらったことは、聞き出している。それに、分譲マンションを売り払った分もある。
「い、いいんですか?」
それは、なんとも奇妙な返答だった。
彼女はいつも俺に迷惑を掛けることより利益になることを望んでおり、可能であればいつでも金銭を渡したいのだろう。しかし以前彼女が俺に金銭を渡そうとして断られたから、それを気にしているのだ。
「ああ、結婚するんだから、共有財産にするのは当然だろ?」
瀬名はこくりと首を縦に振る。
結婚前の資産は共有財産にならないというのに。素直な子だ。
「そうだ、どうせなら全部俺が管理しようか?」
「ありがとうございます。先輩に管理してもらえるなら安心です」
目の前の女の子は、屈託のない笑顔を見せる。
そして、うれしそうに銀行口座の通帳とキャッシュカードを差し出してくる。
「先輩に喜んでもらえるのなら、全部あげます」
「あはは、ちゃんとした手順を踏まないとダメだろ? もらうのは、それからだよ」
「はい」
俺は、彼女の頭を撫でた。
本当にかわいくて良い子だ。
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