the apple of my eye・下
風呂から上がると、瀬名はソファでスケッチブックに熱心に何かを描いていた。
かつて行っていた習い事の大半は、やめてからはプライベートでも続けていないが、絵だけはよく描いている。やっぱり好きなのだろう。
キャンバスやイーゼルを置いている、絵専用の部屋もあるが、こうした素描などは、リビングで描くことが多かった。というか、瀬名は基本的に俺と同じ部屋にいたがるのだ。
「瀬名、何描いてるんだ?」
横から覗き込もうとすると、彼女は真っ赤になって画帳を抱きしめる。
「は、恥ずかしいです……」
「今更隠し事なんてする必要ないじゃないか。俺がからかったりすると思うか?」
「それは……思いませんけど」
「じゃあ何も心配する要素ないよ。ほら、見せて」
「もう、先輩ったら……」
瀬名はおずおずとスケッチブックを差し出してくる。
白く少しざらついた紙の上には、俺が描かれていた。
写真のように正確で、とはいえだいぶ美化されているような気もする。たとえるなら、だいぶ写真写りがいいときの俺だった。
爽やかで柔和な笑みと、善良そうな雰囲気。瞳はまっすぐ正面に向けられている。
瀬名からは、こんなふうに見えているのか。
昔は、他人を描くのを躊躇っていたのに。
自分の知らないところで自分が作り出されているというのは、やはり少しぞっとしないものがある。
「好きなだけ描いていいよ」
そう言うと、花の髪飾りを着けた少女は安堵した表情を見せる。
「えへへ、先輩の絵だけを描いていたいです。どんな絵よりも楽しいんです」
一瞬脳裏に、俺の絵だけで埋め尽くされた白い部屋の光景が浮かぶ。
……とはいえ、やめるよう言ったところで何になるのだろう?
「でも、先輩の絵ばかり発表していたら、変に思われてしまいますよね」
「折角だし、色んな題材を描いた瀬名の絵を見てみたいよ」
「そう、ですね。それに、先輩の絵はほかの人に見せたいとは思わないんです。先輩とわたしだけの、特別です」
「ああ。別に、絵はコンクールのためだけにあるわけじゃないしな」
横で、小さく首を縦に振る少女。
「わたしが描いた絵は、本当は先輩だけに見てほしいです。だって、全部全部先輩のために描いてるんですから。でも、コンクールに出して一番の賞を取って、先輩に喜んでもらいたいですし……」
彼女が賞を取ろうが極論俺には何の利益もないのだが、それが彼女が絵を描き続ける理由になって、何らかの充足を得られるのなら、いいことだった。
「わたし、先輩を見なくても実物と全く同じように描けます。だって、わたしの瞳に、胸に焼き付いているんですから。むしろ、紙の上に描き出して発散させないと、どうにかなってしまいそうで……わたしの中で、氾濫しそうで……」
そこまで言ったところで、はっと我に返る瀬名。
「あ、ご、ごめんなさい……。こんなこと言われても困りますよね」
「気にするなって。全然困らないよ」
「……先輩、わたし、おかしいですか?」
彼女は不安げにこちらを見上げてくる。
「瀬名はどこもおかしくないよ」
そう言うと、安心した顔になる。
「えへへ、よかったです。わたし、先輩のためにもっと頑張りますから」
▶ ▶
外がすっかり静まり返った小夜中。扇風機のモーターと、真横の微かな息遣いだけが、存在する音だった。部屋の中も、灯りを消したから夜の暗さだけが広がっている。
窓を開けてから、そろそろ寝ようかと枕に頭を置き直すと、薄い布団の中で瀬名は抱きついてくる。
「えへへ、先輩」
大きくて丸い一対の瞳がこちらに真っ直ぐ向けられている。
夏のじっとりとした体温が伝わってきた。
「わたし、先輩とこうして一緒に暮らせて、とっても幸せです」
こういうときは、普段より饒舌になる。
「最初の頃は緊張してたのにな」
「そ、それは……誰かと一緒に暮らすって、どうすればいいのかわからなくて。でも、先輩となら、なんだか安心できるんです」
身体ごと横に傾き、瀬名と向かい合う。色鉛筆の淡く繊細な線で輪郭を描き出すのが似合う少女だった。
「えへへ、先輩、瀬名とずっとずっと一緒にいてくれますよね?」
「ああ、もちろん」
俺の返答を聞いて、彼女は屈託のない笑顔を見せる。
「わたし、すごくうれしいです。えへへ、先輩に出会えてよかった……だって、毎日こんなに幸せなんですから」
瀬名は俺の胸に顔をうずめると、背に回した腕に力を込める。
「先輩、ずっとずっと永遠に一緒にいましょうね。もう先輩以外の人は全部どうだっていいんです。先輩と一緒にいられるのなら、わたし、ほかに何も要りません。先輩がいなければ、何もかもが無価値ですから」
随分素直に自分の気持ちを話してくれるようになった。無理して溜め込まれるよりは、言ってくれた方がよほどありがたかった。
「瀬名が自分のことを話してくれるの、うれしいよ」
そう言われて、目の前の少女は頬を染めてはにかむ。そして、俺を喜ばせようと、更に率直な思いの丈を口にする。
「先輩、大好きです。先輩がいないと、先輩に見てもらえないと、生きていたって仕方がないです。先輩、わたしのことを置いていったりしないでくださいね。わたし、先輩のためならなんでもしますから。先輩の言うことは、全部聞きます。もっと先輩に喜んでもらえるわたしになります。ずっと瀬名だけを見てください。瀬名だけの先輩でいてください。わたし、絶対に離しませんから。どこにも行かないでください。先輩、先輩、先輩……」
俺は、彼女の頭を撫でながら話を聞いていた。
人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。瀬名のことも、最大限尊重する。彼女が手に負えない殺人鬼にならない限りは。
「他人と一緒にいるときでも、俺はずっと瀬名のことを考えてるよ」
「本当ですか!?」
嬉々として、大きな両目を向けてくる瀬名。
ずっと、というのはいくらか盛ったが、これくらい言わないと安心しないだろう。
結局物事は捉え方に依るのだから。
「ああ。俺だって、瀬名以外の人間は全部どうでもいいよ」
案の定、こちらを見る丸い瞳が爛々と輝き出す。喜ばせるために言ったのだから、当然だが。
「だから、心配しなくても大丈夫だよ。俺は、瀬名を見捨てたりしない」
たとえ全ての世界で追い縋って、縛り付けて来ようとしても。俺は既に、特別な彼女に囚われてしまっているから。
「えへへ、ありがとうございます。わたし、ずっとずっとずっと先輩のことを考えています。寝ても覚めても、先輩のことだけを。こんなふうに先輩と毎日ずっと一緒にいて、ずっと先輩のことだけを考えて、毎日先輩のためだけに頑張るの、すごく幸せです」
瀬名が手を伸ばしてきたので、その小さく華奢な手と指を絡める。細く白く、わずかに熱を帯びた指先だった。
「先輩、大好きです……好き、大好き、先輩……」
目の前の、世界で一番好きな笑顔を、俺は見る。
青く透き通った虹彩には、俺の影が映っている。向こうから見ても、俺の目には瀬名が映っているのだろう。
他人を支配するとき、もっとも有効なのは物理的に束縛することでも、社会的に掌握することでも、もちろん殺すことでもない。
幸福にすることだ。
というようなことを最近よく考える。
それに、幸福にするなんて別に悪いことではないのだ。誰も不幸になっていない。
「俺も、瀬名のこと大好きだよ」
それは心からの言葉だった。こんなにも深く俺の心を惹きつけるのは、彼女のほかにいなかった。
また唇を重ねた。
瀬名の呼吸と、熱を直接感じる。このまま続けていたら、窒息するのだろうか。そう思いながら、顔を離す。
「瀬名、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
彼女は俺から離れないまま、目を閉じる。
しばらくすると、安心しきったように、すやすやと小さな寝息が聞こえ始める。
「ん?」
彼女の髪には、白い花韮の飾りが着いたままだった。外すのを忘れて、眠ってしまったらしい。
なんでも器用にできるのに、結構抜けているところが多い女の子だ。自分自身のことになると、特に。
起こすのも悪いし、寝かせておくか。
そう思いながらそっと髪を撫でる。
あどけなくて無防備な寝顔だ。
薄いくちびるはかすかに開いていて、閉じられた瞳は睫毛の長さがはっきりとわかる。
そしてやっぱり、花韮が似合っている。似合っているのだから、ずっと着けていればいいのだ。
俺が外的要因によって死ないしはそれに類する事態に陥ったら、瀬名はどうなるのだろう。だが、彼女がほかの道を望んでいないのだから、仕方がない。
結婚しても子どもはいらないな、と思った。「同期」されても、またやり直すだけだった。
瀬名はこういうかわいがり方をされても一切嫌がらないだろう。むしろ、喜ぶはずだ。
だから、余計に彼女のことが好きになる。
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