白紙の水槽・上

時系列的には「the apple of my eye」の後の話です。

――――――――――――――――――――――――



 気がつくと、わたしは右も左も見えない暗闇の中にいた。


 ここはどこだろう。光ひとつなく、何の音もしない。


「先輩?」

 わたしの声は、空虚な黒色の中に消えていく。

 闇は、果てなどないと言わんばかりに静かに佇んでいる。


 先輩はどこにいるんだろう。

 早く先輩に会いたい。


 先輩なら、きっとここから出る方法を知っているはず。

 わたしがどうすればいいのか教えてくれるはず。

 わたしを救ってくれるはず。


 そうでなくても、先輩と一緒ならなんとかなる気がした。


「先輩、どこにいるんですか?」


 だけど、先輩はいない。

 わたしが呼ぶ声に応えてくれる人はいない。


 先輩がいないとどうすればいいのかわからない。

 先輩に導いてもらえないとどこに進めばいいのかわからない。

 先輩に見てもらえないと自分がここに存在しているかどうかもわからない。


「先輩、先輩、先輩……」


 歩き出すと、黒い泥濘ぬかるみに足を取られて落ちていきそうだった。

 身体が芯から冷え切って、指先がかじかんで、震えが止まらない。


 先輩はどこ?


 わたしは喉が枯れるのも厭わずに、必死に声を張り上げる。

 先輩を、呼ぶ声を。


 どうして?

 どうして来てくれないの?


 叫べば叫ぶほど、わたしは気が触れそうになって、だけどやめるのも恐ろしくて、続ける以外の選択肢はなかった。


 声は誰にも届かない。


 やがて立っていられなくなって、わたしはその場に崩れ落ちてしまう。

「先輩、先輩、先輩……」


 ああ、先輩に置いていかれたんだ、とわたしは悟った。

 だからこんなに暗くて冷たい場所にいるんだ。


 わたしは先輩を見失って、離れ離れになって。

 いくら呼んでも先輩は来てくれない。


 どうして置いていかれてしまったんだろう。

 わたしが何か間違えてしまったから?

 これは何かの罰なのだろうか。


 震える口から、歯の隙間から、声が漏れる。

 先輩に見捨てられたという事実が、わたしを内側から食い破ろうとする。


 きっと、何かの間違いだ。

 先輩がわたしを置いていくなんて。

 もう少し待っていれば、戻ってきてくれる。わたしを見つけてくれる。そして、一緒にいてくれる。


 ……どうして?

 先輩がわたしと一緒にいる理由なんてないのに。

 わざわざわたしを探しに来てくれる理由もないのに。


 どこで間違えてしまったんだろう。

 何がいけなかったんだろう。


 理由なんて、とっくにわかっていた。

 わたしが、出来損ないだから。


 どこで間違えたのかと言えば。

 生まれたときから。


 何も音がしないのに、ざわざわとした騒音がわたしの中で膨れ上がっていく。うだるような蟬の音が、深夜のテレビの砂嵐が、踏切の警告音が、アスファルトを穿つ機械の音が、耳鳴りが、混ざり合って、ひずんで、反響して、暴走する。


「あ――」

 苦しい。息ができない。身体中の管が全て堰き止められてしまった。


 引っ掻くような声。ざらついた音の波がたわんで、歪む。もがき、苦しむ。それ﹅﹅は、わたしの口から発されていた。


 嫌だ。

 わたしは早くわたしの思考を止めないと。

 わたしがそれを認識してしまう前にわたしがそれを理解してしまう前にわたしがそれを知覚してしまう前に。


 今すぐ自分の頭を潰して考える脳を壊さないと間に合わなくなってしまう。

 早く脳漿を辺り一面にぶち撒けないともっとぐちゃぐちゃにシナプスを断ち切らないと。


 わたしの白い指先が、黒色に混ざり合っていく。

 消えてしまえる。

 これで考えずに済む。


 早く、早く消えてしまわないと耐えられない耐えられない耐えられない。

 何も考えたくない。気づきたくない。知りたくない。


 全てがもう終わってしまっていることに。




 ▶ ▶




 目を覚ますのと、夢を見ていたことに気づくのは同時だった。

 心臓の鼓動が痛いくらいで、今すぐ止まってしまいそうな有り様だ。


 横では、大好きな人が眠っている。その安らかそうな顔を見ただけで、幸福がわたしの中に溢れてくる。


「先輩、先輩、先輩……」


 よかった。

 先輩はまだわたしの側にいてくれている。わたしのことを置いて行ったりしていない。


 カーテンの隙間からは、朝の訪れを示す光が差し込んでいた。


「先輩、先輩、先輩……」


 まだ身体があの暗闇の中にいるようだった。

 わたしはあんなところにいないのに。先輩と一緒にいるのに。


 もっと頑張らないと、もっと頑張らないと、もっと頑張らないと……。




 ▶ ▶




 いつもの花の髪飾りを髪に着ける。


 クローゼットには、先輩に選んでもらった服ばかりが入っていた。

 先輩に褒めてもらえた服を着ると、先輩に喜んでもらえるわたしに近づけたみたいで、すごく安心する。


 髪型も、身に着けるものも、しゃべり方も、仕草も、性格も、何が正しいのか全部先輩に教えてもらいたい。そうすれば、もっともっと先輩に喜んでもらえるから。


「瀬名、出かける準備できたか?」

「はい」


 今日は先輩と一緒に水族館に行く。

 一体どんなところなのだろう。 さすがに、水槽に魚がいっぱい入ってることは知っているけど。


 実際に行ってみないと、分からないことばかりだろう。


 家の外に出ると、先輩がわたしの手を引いてくれる。

 指の先から、かすかに先輩の温度を感じる。


 わたしは、つないだ手に力を込めた。




 ▶ ▶




 水族館に来て早々、少し気分が悪くなったわたしは、お手洗いに抜け出した。

 すぐによくなったので、急いで先輩のもとに戻る。


「せんぱ――」


 だけど、彼はひとりではなかった。

 先輩は、知らない人と話していた。


 多分、知り合いと偶然出くわしたのだろう。和気藹々と話に花を咲かせている。


「……先輩」

 邪魔をしたら悪いから、わたしはもう少し離れていよう。


 先輩とお出かけするのは楽しいけど、たまにこういうことがあるのが嫌だった。


 聞きたくないのに、会話の声がわずかにこちらにまで届いてくる。内容はわからないけど、楽しそうな先輩の声や、笑いが。


 もっと離れていようかな……でも、それだと先輩がひとりになったときに気づけないし。


 考えが、徐々によくない方向に向いていく。

 悪いことばかりが頭に浮かぶ。


 少しずつ、息が苦しくなっていく。


 どうすればいいんだろう、わたしは。

 どうしたらこの気持ちを止められるんだろう。


 こんなこと、思わなくなったら楽なのに。

 たったこれだけのことでこうなってしまうなんて、ふつうじゃないってわかってる。


 わたしは、逃れるように先輩とは反対の方向に歩き出した。

「先輩……先輩……」


 ふと、今日見た夢を思い出した。


 わたしの脳はいつだって悪い方向に進んでいくんだ、と思った。

 考えたくもないことを考えさせられて、感じたくもない感情を与えてくる。


 何も考えられなくなったらいいのに。

 きっとわたしを一番苦しめているのはこの脳で、これがなかったらもっと色んなことが楽しめるのに。


 わたしが暗くてうまく笑えないのも、絵以外に取り柄がないのも、先輩に喜んでもらえないのも、全部この脳のせい。


 結局何をしても、ひび割れたガラスの凹凸おうとつが増えるだけ。ざらついた表面をなぞって、指先を切るだけ。


 館内は薄暗く、その分だけ水槽の照明が際立った。壁には、「暗いので足元にお気をつけください」という注意書きが貼ってあった。


 暗いところは嫌いだ、と思った。

 それなのにわたしは明るさから逃げてきてしまった。


 小さな丸い水槽が等間隔に壁に並んている。

 水草の隙間を、名前も知らない熱帯魚が横切った。


「先輩……先輩……先輩……」


 何も音が聞こえない。

 胸の苦しさだけが増していく。


 何もない。

 わたしの内側には。

 空っぽが苦しくてたまらない。


 満たそうとしたって、無駄だった。

 何を注いでも、乾いた空洞の中に落ちて見えなくなるだけ。


 不意に、わたしの足が止まる。


 何も入っていない水槽があった。

 大きな水槽なのに、砂や水草すらない。


 アクリルガラスで隔てられた向こうには、照明すらない黒色が閉じ込められていた。

 キャプションには「展示物死亡につき展示中止」と書かれた紙が貼られている。


「――――」

 もう耐えられない。


「先輩――」

 わたしの足は、気づけば道を引き返して、先輩のもとに向かっていた。

 本当に何をやっているんだろう。


「先輩、先輩、先輩……」


 先輩がいないとどうすればいいのかわからない。

 先輩に導いてもらえないとどこに進めばいいのかわからない。

 先輩に見てもらえないと自分がここに存在しているかどうかもわからない。


 暗いところから急に太陽の光に照らされて、目が眩む。

 それでも、先輩の姿はすぐに見つけられた。


「先輩――」

 こちらに気づいた先輩が、一瞬申し訳なさそうな顔をした。


 どうして先輩を困らせてしまうんだろう。

 どうして余計な感情を殺し切ることができないんだろう。


 先輩の横にいた人間が、不思議そうな顔でこちらを見ている。

 一体この突然の闖入者は誰なのかと。


 先輩は、口を開いた。

「ああ、この子は――瀬名。後輩で、付き合ってるんだ」


 途端、先輩の知人が色めき立つ。その判で押したような反応は、とても居心地が悪いもので、わたしは顔から火が出そうになる。


「じゃあ、あんまり邪魔するのも悪いし」

 軽く挨拶してから、知人は足早に去って行った。


「せ、先輩……恥ずかしいです」

 付き合ってるなんて……そんな。


「恥ずかしがることないだろ? 事実なんだから」

「うう、もう、先輩ったら……」


 先輩がわたしの手を取るので、一緒に歩き出す。


「先輩、ずっとわたしのことだけを見てくれますよね?」

「ああ、もちろん」

 大好きな人は、にっこりと答えてくれる。


 わたしはうれしくて、うれしくてたまらなくて、口が勝手に動く。


「先輩、わたしとずっとずっと永遠に一緒にいてくれますよね? わたしをお嫁さんにしてくれますよね? わたしを見捨てたりしないですよね? わたしのこと置いて行ったりしないですよね? わたしのこと必要としてくれますよね? ほかの誰よりも瀬名を選んでくれますよね?」


 先輩は変わらず笑顔のままだった。

「当たり前だろ? 瀬名が心配するようなことは何もないよ」


 胸の中に広がっていた重いものは、全てなくなっていた。


 やっぱり何も心配する必要はないんだ。先輩はわたしをお嫁さんにしてくれるって約束してくれたし、わたしとずっとずっと一緒にいてくれる。


「えへへ、ありがとうございます」

 繋いだ手に、わたしは少し力を込める。その手はとてもあたたかかった。


 先輩の前だと、なんだか口が軽くなってしまう。

 でも、いいか。先輩はわたしを受け入れてくれるから。わたしを認めてくれるから。


 先輩とずっとずっと永遠に一緒にいたい。

 もっともっと先輩に喜んでもらえるように頑張らないと。


 わたしのことを置いて行ったりするはずないし、ずっとずっと見ていてくれる。

 誰にも邪魔できない。誰にも渡さない。絶対に離さない。


 何を不安になっていたんだろう? きっと、あんな夢を見たからだ。


「じゃあ、早速館内を見て回ろうか」

「はい」

 わたしはうなずく。


「先輩、その、こっちの水槽は空っぽなので、あっちに行きましょう」

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