白紙の水槽・下
水族館は、光の演出が綺麗で、水の中を悠々と泳ぐ魚たちの鱗もきらめいて、とても美しいところだった。
隣に立つ先輩を見上げる。
先輩は水槽に目を遣っていたが、すぐにわたしの視線に気づいてこちらに笑顔を向けてくれる。
よかった。やっぱり先輩はわたしを見てくれる。
「イルカショーまでまだ時間あるし、甘いものでも食べようか」
「はい」
館内のカフェは、魚やアクアリウムをモチーフとして飾り付けられていた。
わたしがメニューを見て注文を決める前に、先輩は店員を呼ぶ。
「金魚鉢かき氷をふたつで」
かき氷は、金魚鉢の形の器に入れられていた。この店の売りらしい。
ブルーハワイのシロップがかけられた氷は、見ていて爽涼感がある。魚の形をしたカラフルなラムネが散らしてあるのも相まって、甘いアクアリウムのようだ。
やっぱり、先輩に選んでもらうのが一番いい。
先輩の言う通りにしていれば、何も間違いがない。
先輩にもっと色んなことを教えてほしい。
どうすれば喜んでくれるのかも、わたしが次に何をすればいいのかも。
先輩は全部正しいから。
▶ ▶
ベンチに座ると、鞄からスケッチブックを取り出す。今見た光景を忘れないうちに、描き留めておきたかった。
初めて見たイルカショーは、想像していたものよりずっと素晴らしかった。
間近に迫る躍動感や、イルカのジャンプに合わせて光る水粒が、目に焼き付いている。
水族館に来てまで絵を描くなんて、先輩に嫌がられたりしないだろうか。心配になって横を見上げるが、先輩はにこにこしながらこちらを見ていた。
「先輩、その、絵を描いてもいいですか?」
「ああ、折角だし、描きたいだけ描いてくれよ」
……よかった。先輩は、わたしが絵を描くと喜んでくれる。
許可をもらったので、紙の上に線を走らせていく。
黒鉛一本で、イルカたちの華麗な動きや水しぶき、光の加減を再現する。
「構図のセンスがすごいな」
彼はスケッチブックを見下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「そ、そんな……」
「イルカショーを俯瞰の構図で描くなんて発想、俺にはないよ。見たこともないのに」
「その、上から見たらどんな感じなんだろうと思って……」
褒められるのは、いつまで経っても慣れない。褒められるほどのことでもないし、もしかして賞賛欲しさに能力をひけらかそうとしていたのかもしれないと心配になるから。
だけど、先輩が優しくしてくれるのは、とても嬉しい。わたしのことを気にかけてくれるのも。
▶ ▶
家に帰ったわたしは、計画していた献立通りに夕食の用意を始める。
お出かけする日でも、滅多に外食はしない。先輩が、わたしに気を遣ってくれているのだろう。
わたしは先輩のお嫁さんになるんだから、毎日三食先輩のためにごはんを用意しないと。
わたしが作った料理を先輩がおいしそうに食べてくれると、わたしは生きていていいんだって思える。
食卓に並べた料理に早速箸をつけた先輩は、笑いかけてくれる。
「おいしいよ」
よかった。日頃先輩の好みを研究している成果があった。
「えへへ、ありがとうございます。わたし、もっともっと頑張りますね」
もっとも、彼がわたしの料理を「不味い」なんて言うことはないけど。
それでも反応に強弱があるのは、毎日見ていればわかる。
わたしが作った料理で先輩に喜んでもらえてうれしい。もっともっと先輩に喜んでもらえるように、もっとたくさん練習をして、もっと上手に料理が作れるようにならないと。
先輩が、わたしの作ったもの以外食べられなくなればいいのに。ほかの人が作ったものなんて口の中に入れないでほしい。
一生わたしが作ったごはんだけを食べてほしい。
……何を考えているんだろう?
そんなの、いけないことだ。
先輩に飽きられてしまったら大変だし。
先輩に飽きられたら。その言葉だけで、胸が苦しくなる。
ほかの人がいないところに行きたい。そうすれば誰も邪魔できないし、先輩と永遠に一緒にいられる。
世界に存在するのが先輩だけだったら、どれだけ幸せだろう。
ううん、先輩はわたしとずっと一緒にいてくれるって約束してくれたし、先輩を信じていれば何も心配しなくていい。
食事を摂り終え、後片付けを終えたわたしは、水族館で描いた絵の続きに着手する。
今日はとても素敵な一日だった。やっぱり、先輩とお出かけするのは楽しい。水族館があんなにきらきらしたところだなんて初めて知った。
先輩は、わたしに色んなことを教えてくれる。ショッピングモールのにぎやかさも、国営公園に広がる花畑の色鮮やかさも、遊園地の楽しさも。出かけた先々で食べる甘いもののおいしさも。
誰かと一緒に暮らすことが、こんなに幸せな時間だということも。
彼と一緒にいたら、いつか彼の世界の一部になれるような気がした。
きっと小さなことでも楽しく思えたり、色んないいことを見つけられたり、先輩みたいに――楽しく笑ったり。
昔、そんなことを考えていた覚えがある。
今のわたしは、確かに先輩の世界の一部になれている気がする。
先輩に出会えてよかった。何度も思ったことを、また心の中で繰り返す。
いつかわたしの世界全てが塗り替えられる日が来るのだろうか。
早くその日が来ればいいのに、と思った。
「瀬名」
ソファで、横に座ってテレビを見ていた先輩が、不意に声をかけてくる。
「来週の木曜休みだろ? 映画見に行こうか。もう予約してあるんだ」
「はい」
わたしは首肯した。
聞いたことがない映画だったけど、先輩が選んだのだからきっと面白いはず。すごく楽しみだ。
全部先輩に任せていれば安心だから。
わたしのお金も、キャッシュカードも、保険証も、大事なものは全部先輩が管理してくれている。
先輩に何もかも決めてもらえれば、先輩に喜んでもらえないことをしなくて済むし、不安に思うこともない。
「先輩、その、わたし……大学院に進むのもいいかなって思うんです。もちろん、先輩と同じ中世文学の研究室に。先輩の好きなものならわたしも研究したいですし、先輩にお手伝いできることの幅が広がるでしょうし。それに、その方が先輩と一緒にいられる時間が増えます」
喜んでもらえるかと思ったのに、先輩の表情は変わらなかった。
「院進してその先はどうするんだ? 研究者になるのか?」
「は、はい、その……先輩と一緒に……」
「瀬名は、本当に研究者になりたいのか?」
「えっと、わたしは……」
どうしよう。間違えたことを言ってしまったんだ。
どうして間違えてしまったんだろう。
何がいけなかったんだろう。
「進路は軽い気持ちで決めるものじゃないよ。俺が研究者を目指しているからって理由でなろうとするのは、真剣に研究に携わっている人たちにも失礼だ。瀬名は、本当に古文が好きなのか?」
息が苦しくなってくる。
底のない暗闇の感触が、すぐ間近まで迫っている。
先輩が望む正しいわたしにならないと。先輩に喜んでもらえるようなことを言わないと。
先輩には絶対に逆らってはいけない。先輩の機嫌を損ねることは許されない。
「ご、ごめんなさい、先輩……」
謝罪の言葉を発したわたしを、先輩は黙って見ていた。
怒るでもなく、許すでもなく。
「わ、わたし、院には進みません」
全部先輩の言う通りだ。
先輩に相談してよかった。間違ったことをせずに済んだのだから。
先輩は、頭を撫でてくれる。
よかった。先輩はわたしに失望していないんだ。わたしのことが嫌いになったわけじゃないんだ。
すごくうれしい。先輩はわたしを見捨てないでくれる。わたしをお嫁さんにしてくれる。
「瀬名が、自分の意思で決めたんだよな?」
「はい。わたしの意思で大学院には進学しません」
わたしは胸を撫で下ろす。これが正しいんだ。これで先輩に喜んでもらえるんだ。
先輩はわたしがどうすればいいのか全部教えてくれるし、全部決めてくれる。
わたしを導いてくれる。先輩がいれば不安なことなんて何ひとつない。
先輩に出会えてよかった。わたしは、やっぱり先輩に出会うために生まれてきたんだ。
「えへへ、ありがとうございます」
先輩は、無理してほかの人と仲良くしようとしなくていいって言ってくれるし、関わる必要はないって言ってくれる。
「わたし、先輩と一緒にいられて幸せです。先輩とずっと一緒にいたいです」
先輩がいないと生きていけないから。
「先輩、わたしとずっとずっと永遠に一緒にいてくれますよね?」
「ああ、ずっと一緒にいるよ」
先輩のやわらかい表情を見ていると、すごくほっとする。
「えへへ、先輩、大好きです。先輩の全部が、大好きです」
先輩と一緒にいると安心するし、幸せな気持ちだけでいっぱいになれる。
こんなに幸せな日々がずっとずっと続くように、もっともっと頑張らないと。
先輩に見捨てられたら、全て終わりだから。
つなぎとめるために、わたしはどんなことでもやらないと。
大好きな人と、そっと唇を触れ合わせる。それは、永遠を誓う証。死でさえも別つことができない、絶対の永遠を。
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