3 夜臼坂学園
登校する瀬名を見送ってから、俺は出かける準備を始める。
今日は、朝霧と夜臼坂学園に行く。
卒業してからまだ一年半も経っていないし、母校には顔を出しづらいんだが……朝霧のためだ、仕方がない。
何か持っていった方がいいものはあるだろうか――と考えながら身支度していると、部屋の中に携帯電話を見つける。
瀬名のものだ。
珍しいな、彼女が忘れ物するなんて……。
今から急いで届ければ間に合うかと思ったが、結構時間が経っている。どうしたものか。
そうだ、どうせ高校に行く用があるんだから、合間を見て届けるか。まさか教室まで行くわけにもいかないが。
▶ ▶
待ち合わせ場所に着くと、当然のように朝霧はいた。
だが。
普段と恰好が大いに違った。
朝霧は、夜臼坂学園高等部の制服を身に着けていた。
サスペンダーのハイウエストスカートに、ミニネクタイ。白いハイソックス。楚々とした女学生の出で立ち。長い髪はポニーテールにしている。
「ど、どこでそれを……」
「近所のお店で売ってたわよ? 他にもいろいろな制服を取り扱っていたわ。体操服や、果てには水着まであったわね」
「それってまさか……」
いや、深くは首を突っ込むまい。
「何よ、じろじろ見たりして。制服はさすがにきついって思ってる?」
「ちが――」
「あたしはまだまだいけるわよ。大体あたしを何歳だと思ってるの?」
「……何歳なんだよ?」
「教えない」
朝霧は、「嫌だわ。どうせあたしのことを年増だと思ってるんでしょ?」とぼやいている。
「嫌ね。若さに踊らされる人間って」
かなり気にしているらしかった。
世辞でもなんでもなく、精々二十代に届いているかいないかくらいだろうに。色々あるらしい。
▶ ▶
夜臼坂学園。
小中高一貫教育の学校だ。
広大な敷地内には何棟もの校舎が並んでいる。
学校段階ごとに校舎こそ違えど、特別教室等は共用のものもあり、年齢の違う生徒が入り乱れる混沌とした空間になっている。
警備はわりと厳重だが、卒業生として挨拶をしたら簡単に入校許可証をもらえた。朝霧の場合はそうはいかないが、彼女は素知らぬ顔で校門を通った。
……いいのかどうか良心の呵責が生じるところではあるが、まぁここはやむを得ない。
それにしても、母校を私服で歩くというのはなかなか落ち着かないものがある。十二年間制服で通っていたからなおさらだ。
「え、こんなに広いの?」
朝霧の第一声は、なんとも気の抜けるような言葉だった。しかしそれも仕方ないといえば仕方ない。夜臼坂学園は確かに広いのだ。
初等部棟に中等部棟、高等部棟、そして五年前に新築された特別教室棟、通称ユース棟の四つで校舎は構成されている。ユース棟はガラス張りの先進的なデザインで、特別教室の他にユースクラス――いわゆるところの特進クラス――の教室がある。瀬名はこのユースクラスだ。しかも理系の。
校庭は大グラウンドと小グラウンドがあり、体育室は計五つ。極めつけに歴史ある講堂、ユースホールがある。
如何せん敷地が広いし、下は小一、上は高三の生徒が行き交う分、人も多い。
瀬名の友達が見かけたというのなら、ユース棟か高等部棟を主に探せばいいのかもしれないが、それでも骨が折れる。
「念のため訊いておくけど、『秋萩』って何歳なんだ?」
「十六よ」
「へえ……」
瀬名の一個下か。侵入者――過去からの来訪者がまさか自分の年齢に沿った棟にいるなんて決まりはないけれども。
……弟が十六歳ということは、ふつうに考えれば朝霧はそれ以上の年齢ということになるが。
いや、詮索はよそう。
「とりあえずユース棟に行こう」
▶ ▶
ガラス張りの建物に入ると、嫌でも気が引き締まる。
ユース棟は俺が中三のときに完成したが、それでもやはり縁遠い場所だ。
卒業生の有名な建築家が設計したらしく、特殊な建築構造を採用していると一部では有名だ。賞もいくつか取っていたはずだし。
当然、なかなか見ないようなデザインになっている。まぁ、そんなこと生徒にはあまり関係ないのだが。
ただでさえエレベーターまでガラス張りという解放感なのに、校舎の真ん中は広々とした吹き抜けになっている。
屋上には天体観測室があり、大きな天体望遠鏡が設置されている。ほかにも、様々な設備を備えた特別教室が充実している。
「す、すごいわね……これが学校なんて」
朝霧は、感嘆の声を漏らしながら見上げている。確かに、学校らしさはない。
年齢不詳の少女はふと立ち止まった。
「へえ、きれいな絵ね」
玄関に面する壁に飾られた、一枚の絵。
豊かな色彩と繊細な筆致。細部に至るまで描き込まれた丁寧な作品。『天体の運行』と題されている。
額縁の下のタイトルと作者名に、朝霧は目を留める。
「あれ、これってもしかして、あなたのガールフレンドが描いたもの?」
ガールフレンド……なんともむずがゆい響きだが。否定するのもややこしいので、話を流す。
「瀬名が小学生のときに描いたものだよ」
全日本学生絵画コンクールの最優秀賞を、小学生にして受賞したものだ。
これを見た学園長がいたく気に入り、たっての希望ということで学校に展示され続けることとなった。
時折廊下を通る生徒や教師が足を止めるほど、人の心を惹きつける絵だった。赤子ですら見入るものが、瀬名の描く絵にはあったのだ。これは、紛れもなく才能だと思う。
「力のある絵、って感じね。人の心をつかもうという意志が、一筆一筆に込められている」
「……なるほど」
瀬名の絵をそう評する人間は初めて見た。誰もがその卓越した技巧か、あるいは色使いのセンス、そしてただ単純に「美しい」とか「綺麗」とか、そういったありふれた言葉で形容する。
だが、言われてみれば確かに、この絵には力があった。
「こういうものを作る人は何かが満たされていないんだって、おばあさまが昔言っていたわ。渇望が強ければ強いほど、人の胸を打つ力になるんだって」
「へえ……」
俺は昔の瀬名を思い浮かべてみる。全然素直ではなかった彼女。
あの少女は、何に渇していたのだろう。
「それにしてもすごいわね。小学生でこれって、今はどれだけの腕前になってるの?」
「今は……」
俺の言葉はそこで途切れる。そういえば、最後に絵を描いている瀬名を見たのはいつだろう。高校生の頃――いや、中学生の頃まで遡らないと覚えがない。
「だけど、いいことなのかもしれないわね」
朝霧は言った。
「きっと彼女は、今は満たされているんだわ」
そうなのだろうか。
瀬名は今幸せなのだろうか。
そうならいいと思うものの、俺にはよくわからなかった。
▶ ▶
ユース棟を見て回った後は、高等部棟に移る。こちらは至ってふつうの校舎だった。
特進クラスとそれ以外とでここまで格差があるのもどうかと思うが。良く言えば実力主義、なのだろう。
「あたしは女子トイレと女子更衣室を回るから、あなたは男子トイレと男子更衣室を回って」
「え? 秋萩って男なんだろ? 女子トイレとかを探す必要はあるのか?」
「あいつを普通の常識で考えちゃダメなのよ!」
「そ、そうなのか……」
とんでもない奴らしい。
朝霧と別れて、俺は校舎をぶらつく。ちょうど休み時間になったようで、時折生徒が訝しげな目をこちらに向けてくるが、首から下げた入校証を見て得心行ったように目を離す。
なんとなく居心地の悪さを感じて、学生がいない特別教室の方に足が向く。
廊下の角を曲がろうとして、右の方から見慣れた小さなシルエットが歩いてくるのが見える。黒い髪に、白い花の髪飾り。瀬名だった。
声を掛けようとして、しかし俺の口は動かなかった。
そこにいるのは確かに瀬名だった。見間違えるはずもない。だが、明らかに何かが違ってもいた。
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859688094086)
彼女は何の表情も浮かべていなかった。その瞳からは何の色も窺えない。全ての感情が抜け落ちている。
いや、それだけなら別に何も不思議ではない。ひとりでいるときに表情豊かな人間の方が珍しいだろう。その、はずなのだが――なんというか、何かが足りないというか、あそこにいる少女が瀬名だとは思えなかった。別人であってほしいくらいだった。
表情がないというよりも、何もかもがない。
瞳は黒く塗りつぶされ、虚ろにここではないどこかを見ている。血の気が失せた肌は青白く、死体のようだ。
教科書通りの端然とした歩き方も、整った容貌も、あまりに均整が取れすぎていて人間らしさがない。計ったように均等な歩幅。全くぶれることのない軸。その瞳は動くことなくただ虚空を見つめている。いや、虚空すらも見つめていなかった。ここでないどこかを見ていた。ただ、前に向けられているというだけの双眸。
プログラム通りに動いている、と思った。
感情も温度も、人間なら有していて当然であるはずの機微も、何もない。
時間、すらも。
一瞬、出会ったばかりの頃の瀬名を思い出した。いや、それよりも――
「先輩?」
瀬名が、不意にこちらに顔を向けた。
次の瞬間、彼女は駆け寄ってきて、眩しい笑顔を向けてくる。頬は朱色を帯びていて、瞳は太陽の色を反射してきらきらと輝いていた。
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859688104973)
「先輩、どうしたんですか? こんなところで」
弾んだ声で話しかけてくる。
先程までの姿はそこにはない。いつもの瀬名だ。
「あ、いや……」
俺は思わず口ごもる。
学校で瀬名を見るのは久々だったから、だからあんなに雰囲気が違って見えたんだ。いや、それとも単なる見間違いか何かだったのかもしれない。
「そうだ、先輩、こっちです。ここだと誰かに見られるかもしれないので」
手を引かれて、空き教室に入る。
「別にいいじゃないか、見られたって」
「わたし、学校では品行方正で通ってるんです」
「そ、そうか……」
俺は携帯電話を取り出す。
「瀬名、これ忘れただろ?」
「あ……まさか、わざわざこのために?」
「いいや。こないだ、ここで『秋萩』を見たって教えてくれただろ? だから探しに来たんだ」
「ああ、そういえばそんなことを言っていましたね」
瀬名は携帯電話を受け取る。
「先輩、ありがとうございます。これがないと、困るので」
期せずしてここで瀬名に会えてよかった。教室まで行って届けたら瀬名の学校生活に悪影響を与えそうだし、朝霧と一緒にいるときに出くわしたら、朝霧に囃し立てられそうだし。
そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。
「あ、瀬名、ごめんな、引き留めて」
「え? ああ……そう、ですね。なんだか名残惜しいですが」
彼女は背伸びをして、俺の耳元に顔を寄せる。ふわりと石鹸の香りが広がって、瀬名の息が耳朶をくすぐる。
「わたし、家で待っていますから、今日は寄り道せず早く帰ってきてくださいね」
「ああ、わかったよ」
そう答えると、瀬名は微笑む。
「先輩、それではまた後で」
小さく手を振って、彼女は去っていった。
そういえば、ユースコースに通っている彼女が、どうして高等部棟にいるのだろう。まぁ、何か用事があったんだろうな。
▶ ▶
その後学校の中を探し回ったが、めぼしいものはなかった。
朝霧と落ち合ったが、彼女の方も同様だったらしい。
ほかの場所も一緒に歩いたが、秋萩を見つけることも、手がかりを得ることもできなかった。
「うーん、やっぱり学校っていうだけじゃ如何ともし難いな……」
「そうね……」
午後から大学の講義があるため、俺はひとまず夜臼坂学園を去った。
朝霧はまだまだ探すようなので、講義が終わった後また手伝いに来ることも出来たが、今日は早く帰ると約束したのだ。
朝霧には申し訳ないが、また明日探すことにしよう。
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