2 暗号解読
大学の二限が終わり、移動していたとき。
「あ、あの、鴇野くん……」
声を掛けられて振り向くと、そこにいたのは穂咲だった。
「ん? どうしたんだ?」
そう訊くと、彼女はいくらか躊躇った後に、透明なラッピング袋を差し出してくる。リボンが結ばれたそれには、クッキーが入っていた。
「昨日クッキー焼いたんだけど……余ったから、あげる」
「ありがとう。いいのか?」
「え、ええ……」
穂咲は口をもごもごさせながら、なんとか言葉を発する。その頬は赤かった。
「えっと、あ、ありが……そ、それじゃ」
クッキーをもらったお礼をもっと言いたかったのだが、彼女は足早に立ち去ってしまった。
それにしても、急にクッキーなんて、どういうことだろう。彼女とは先日民俗学研究室で初めて出会ったし、特に関わりもないのに。
考えられるのは、先日不破を捕まえたときの一件だ。不破に消されそうになった彼女をかばう形になったから、もしかしてそれを気にしているのかもしれない。
そのためにわざわざクッキーを焼いてくれたのなら、逆に申し訳なくなってくるが。
大したことをしたわけじゃないんだし。
▶ ▶
俺と朝霧は、大学のラウンジに集まっていた。
なんとか連続失踪事件を解決したので、秋萩探しを再開させるのだ。
「ヒントは増えたけど、さっぱり分からないわね……」
テーブルの上に並べた三枚のカードを見て、朝霧は険しい顔をする。
「それなんだけど、実はもう答えは分かってるんだ」
「え!?」
三枚目のカードを手に入れたときに、なんとなく解けそうな気がしたのだ。
「やっぱりこれは換字式の暗号だった」
俺は右下に②と書かれたカードを指す。
――こにりなんううんしとまよさあ
「これだけではどうやっても解けないから、①のカードが手がかりになる」
――さわのめよわすろんししかを
――ひやしかを
――みほなうつこさ
――くさかなうつあ
「この意味不明な文字列、ヒントになるのは文字数だ」
「文字数? うーん……」
朝霧は、カードに目を落として考え込む。
「あ! これ、五・七・五・七・七になってるわ! 第二句目だけ字余りだけど」
「そうなんだ。そして、それらしき和歌はもう提示されてる」
「それって……最初のカードに載ってた、『北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて』のこと?」
「ああ。このカードはいわば、コードブック。置き換えられた文字の対応表。これで、法則性を見つけ出すことができる。
――さわのめよわすろんししかを
→きたやまにたなび くくもの
――ひやしかを
→あをくもの
――みほなうつこさ
→ほしはなれゆき
――くさかなうつあ
→つきをはなれて
「『ん』は、恐らく濁点という意味だろう。そして、この対応表を手がかりに②のカードの文字を置き換えていくと――」
――こにりなんううんしとまよさあ
→ゆ は゛なな゛く にきて
「『〇〇に来て』ってこと……? でも、『な』に濁点なんて、不自然じゃない?」
「実は、この解法には間違いがあるんだ」
「え!?」
「最初のカードに書かれていたのは、『向南山 陳雲之 靑雲之 星離去 月牟離而』だけだ。書き下しまでは書いていない。そして、『北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月を離れて』と読むのは、この暗号では正解じゃない」
古い和歌によくあることだが、人によって読み方は複数存在する。どれが正解かなんて一概には言えない。
この和歌も、本によって様々な読み方がされている。
「現状の読み方で対応表を作ると、『たなびく雲の』の『も』は『か』に置き換えられているのに、『月を離れて』の『を』も『か』に置き換えられていることになる。さらに、『あをくも』の『を』は『や』に読むにも拘らず。これではそもそも対応表として矛盾してしまう。でも、これは『月を離れて』を『月も離れて』と読むパターンを採用すれば、矛盾はなくなる」
「ちょ、ちょっと待って。こんがらがってきたんだけど……」
「えっと、とりあえず今の読み方だと暗号として成り立たないんだ。だから、別の読み方を探す必要が出てくる」
これに気づいてから、また色々な『万葉集』に目を通して、読み方の候補をリストアップした。
「色々試したんだけど――この暗号では、『北山に たなびく雲の 青雲の 星
×きたやまにたなびくくもの あをくもの ほしはなれゆき つきをはなれて
○きたやまにたなびくくもの あをくもの ほしさかれゆき つきもさかれて
「こうすることで、対応表も変わってくる。複数ある読み方の中で、特定のものじゃないと解けない暗号。ここでも、ある種のひっかけが行われている」
相当意地悪な暗号だ。
――さわのめよわすろんししかを
→きたやまにたなひ゛くくもの
――ひやしかを
→あをくもの
――みほなうつこさ
→ほしさかれゆき
――くさかなうつあ
→つきもさかれて
「こっちの方の対応表を使って、②の暗号を解くと――」
――こにりなんううんしとまよさあ
→ゆ さ゛かか゛く にきて
「これでもまだ文字に抜けがあるけど……『ゆ○○ざかがく○○』に来て、と言ってることは読み取れる。そして、俺はこの場所を知っている」
九文字で「ゆ○○ざかがく○○」という場所なんて、候補はそんなにないだろう。
「
以前瀬名から聞いた、夜臼坂学園で秋萩を見たという情報とも一致する。
「す、すごい……」
朝霧は感嘆の声を漏らす。
にしても、解かせる気があまり感じられない暗号だ。
図書館の本にヒントを隠すことによって、そもそもヒントを完全に見つけられない可能性を大きくしている。ただでさえどれかのカードが欠けていたら絶対に解けないのに、これでは暗号として成立しない。
なんとか暗号の対応表を完成させても、それだけでは②のカードは全て解けない。「ゆ○○ざかがく○○」から、夜臼坂学園を導き出す必要がある。
これは朝霧と秋萩の勝負だと言っていたが……相当ダーティプレイをしている。
「これ、あたしじゃ絶対に解けなかったわ。本当にありがとう」
「あはは……どういたしまして」
学生が偶然借りていた『万葉集』までカバーするのは、時間旅行者にはほとんど不可能だろう。
「でも、夜臼坂学園ってだけじゃヒントとしては物足りないな」
小中高一貫校ということもあって、だいぶ敷地が広いのだ。母校だから、いくらか力にはなれそうだが。
「とりあえず、行ってみるしかないわね」
「そうだな……」
頷きながらも、俺ははっと気づく。
「ん?」
行く?
夜臼坂学園に?
どうやって?
▶ ▶
まだ日の高い時間に家に帰ったからか、瀬名はいなかった。
穂咲からもらったクッキーを取り出す。
手作りクッキーはこれまで何度かもらったことがあるが、人によって個性が出て、面白い。今回は、お菓子作りに慣れていなさそうなクッキーだった。
形が不揃いで、少し崩れている。こういうのも、作った人を感じさせて好きだった。
ひとくち食べてみると、やはり既製品とは違った味がしておいしい。
改めてお礼を言いたかったが、そういえば俺は穂咲の連絡先を知らない。
また今度見かけたら、声を掛けてみるか。
そんなことを考えていると、棚の上に見慣れない花があることに気づいた。
また違う花が活けられている。これは、恐らくアマリリスだ。
家に帰って、こんなふうに部屋に彩りが加えられているのを見つけると、誰かと一緒に暮らしていることの喜ばしさとはこういうものかと感じる。瀬名が花を一輪買って、ガラスの花瓶に入れている姿を想像すると、彼女が愛おしく思える。
なぜこの花を選んだのだろう。飾る場所や向きにも、きっと気を遣ったことだろう。部屋に花を飾ろうなんて発想は俺にはないし、瀬名のそんな心配りがうれしかった。
そうやって考えを巡らせながら、花の茎をへし折る。力を加えると、茎はぽきっと簡単に折れた。重い花弁が傾き、頭を垂れる。やがて花はぽとりと落ちた。
そこで我に返る。
俺は――何をしているのだろう。
どうして花を手折った?
何の意味もないどころか、むしろマイナスだ。折角瀬名が活けた花を、こんなふうに台無しにしてしまうなんて。彼女が見たらきっと悲しむ。
俺は急いで花屋に行って、よく似たアマリリスを一輪買ってきて挿し替えた。ひとまずはこれでなんとかなったが……これからは気をつけよう。
明日は、夜臼坂学園に向かうことになっている。とはいえ、小中高一貫校は大学よりも余程部外者が立ち入りづらい。
朝霧は一体どうするつもりなのだろう。
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