二話 過去から来た少女

1 後始末



 ⏪ ⏪




「孝太郎くん、赤ん坊はどうして泣くのか知ってる?」

 彼女の話はいつも唐突だった。

 通い慣れた蔵の中で、他愛もない言葉を交わす。


「原始的な意思表示だろ? 未発達な赤ん坊は、そうすることで他人からの世話を求めるんだ」

 これで正解だろうかと、みたきの反応を窺うと、

「じゃあ、泣いても泣いても放置され続けた赤ん坊はどうなると思う?」


「え? それは……どんな想定だ?」

 俺が戸惑っていると、みたきはくすくすと笑った。

「泣かなくなるのよ。いわゆるサイレントベビーってやつね。学習能力があるわよね。やっても意味のないことをしても、仕方がないもの」


 泣けば周囲の人間が相手をしてくれると学んだ赤ん坊は、泣くという手段を使い続ける。

 その逆も然りで、泣いても誰にも相手にしてもらえなければ、泣かなくなる。

 だからといって、泣く赤ん坊を放っておくのが正しいのか、正しくないのか、一概には答えを出せない。そんなの時と場合で随分変わってくるからだ。


「ねえ、もしもその赤ん坊が――涙を流さない存在が――そのまま大きくなったら、どうなると思う?」

 泣かない、赤ん坊が?


「昔、こういう実験をした王様がいたらしいわ。赤ん坊を育てるとき、ふれあいの一切を禁じさせたというの。笑いかけてはいけないし、抱き上げてもいけない。話しかけてもいけない。そうしたら、赤ん坊がどんなふうに育つのか、見てみたかったらしいの。でもね、失敗した。赤ん坊全員が、大きくなる前に死んでしまったから」

 面白い話よね、とみたきは話す。


「でもね、戦時中にも似たような実験が行われたらしいの。そうしたら赤ん坊は、もちろん泣かないし、動かないし、表情も変えなくなったんですって。当然のように、これも全員亡くなった」

「…………」


 俺には、到底面白い話とは思えなかった。

 ふれあいを禁じられた赤ん坊が、みんな亡くなってしまった話なんて。人の生命をそんなふうにみだりに扱う実験なんて。


「私ね、こう思うの。その赤ん坊たちは、きっと理解したんだわ。生きていたって仕方ないって。泣いても誰にも相手にしてもらえないのなら、泣くのをやめるように。生きていても誰にも相手にしてもらえないのなら、生きることをやめるしかないって」


「……俺は、そういう話、苦手かもしれない」

「ふふ、そう?」

 まるで、そうではないと言いたげだった。


「だけど、気になることがあるの。もしその実験を受けた赤ん坊が、たまたま死ぬことなく大きくなったら、どうなっていたと思う?」

 みたきは、なおも笑みを絶やさない。


「泣いても仕方ないって――生きていても仕方ないって悟った赤ん坊が成長したら、どうなると思う?」




 ⏩ ⏩




 この茶屋に来るのは、初めてだった。

 俺と尾上は、店先に設けられた赤い野点傘の下に腰掛ける。


「大学だとあの女がうるさいからな」

「ああ、穂咲か」

 だからといって、茶屋に誘われるとは思わなかったが。


「尾上もこんなところ来るんだな」

「姪が好きなんだよ」

「なるほど……」

 こいつも親戚の世話に駆り出されることがあるのか。


 皆原市で起きていた連続失踪事件は、なんとか一応の解決を見た。今回は、尾上が事件のその後について教えてくれるという。律儀なところもあるものだ。


 朝霧は、「あたしは別の時代の人間だから」と言って、来なかった。彼女はやはり、この時代とはどこか一線を引こうとしている。時間旅行者の姿勢とは、そういうものなのかもしれない。

 それでも、その時代で起きている危機は見逃せずに、解決に尽力してしまうのも彼女らしいが。


 店員が、注文した商品を持ってきてくれる。

 俺が頼んだのは、抹茶と団子だった。別に特別甘いものが好きなわけではないが、食べる機会は多い。無論瀬名の影響だ。

 ここの和菓子がおいしかったら、今度彼女と一緒に来よう。


 みたらし団子うまいな……。帰りに何個か包んでもらうか。

 尾上の方は、茶以外の何も頼んでいない。ただ玉露を啜っている。

「それで、本題なんだが――」


 彼の話が始まった。

 民俗学研究会は、不破の身辺調査を徹底的に行ったらしい。動機から出自まで、余すところなく調べ上げた。

 

 不破は単独犯だった。ほかのシンパなど、協力者はいなかったのだ。

 なぜ被害者をこの大学の生徒に限定したのかというと、予言書の名前が『安曇』だったからだという。

 ……本当に理解不能な理由だ。


 不破は安曇大学の事務パートだったらしい。二年前に中途で採用された。周囲と距離を置いていたこと以外は、特に勤務態度に問題はないとのことだった。

 しかし、今年の四月中旬、急に「辞める」とだけ言って、来なくなったという。


 今回の事件が始まったのが恐らく四月二十八日頃だから、時期は符合している。今年度の学生の名簿情報を得た後、消す候補の選定を行ったり、実際に尾行してみたりといった準備期間を挟んで、犯行を開始したのだ。


 いくら職員だからって、そんなふうに学生の個人情報をほしいままに扱えるという安曇大学の事務環境が気になったが。

 不破はきっと、その個人情報を得るために安曇大学に勤めていたのだから、仕方がない。

 コンプライアンスというものは、当人が遵守しようと思わなければ、如何ともし難いものだ。


「それで、不破は今どうしてるんだ?」

「あいつは消した﹅﹅﹅

「え……?」

 自分の耳を疑った。消したって……まさか、ラネットで消したっていうのか?


「あの異常者に、改心なんてものを求める気か? あそこまでおかしくなった人間を止めるには、もう消すしかない。あいつを生かしておいて、犠牲者がこれ以上ひとりでも増えたら、その時点で我々の失策だ」

「それは……そう、だけど」


「十人以上殺した人間なんて、司法の場に出れば間違いなく死刑だ。だが、ラネットは法では裁けない。だから、我々が私刑を行うしかなかった」

 あの男が人々を消して回っていたなんて、法廷に持ち込めないだろう。時間操作の術をいたずらに広めることにもなりかねない。第二第三の不破が生まれる可能性だってある。


「あの男、消される前になんて言ったかわかるか? 『殺さないでくれ』だとよ。自分が手に掛けた被害者全員の前で言ってもらいたいものだ」

「…………」

 因果応報、と言うべきなのだろうか。俺にはそう断じる気力はなかった。


「じゃあ、消された人々の家族は、友人は、真実を知らないまま、帰りを待ち続けないといけないのか?」

「ああ、元より彼らが行っていたのはそういう殺人だ」


 本当に、やるせない事件だ。誰も救われない。

「どうにもならないのか……?」


「やめておけ」

 俺の言葉を聞いて、尾上は吐き捨てる。

「お前はラネットに関われば、きっと身を滅ぼす。そういうタイプの人間だ」


 身を滅ぼす? 俺が?

 確かに、前回犯人を捕まえるとき、危うく消されるところだった。危険と言えば危険だ。


 だが、入れ込みすぎて身を滅ぼすことはないだろう。

 だって俺は――


「先輩?」

 突然した声の方向を見ると、可憐でかわいらしい少女がいた。学校帰りなのか制服姿で、近所のスーパーの袋を提げている。


「偶然ですね、こんなところで会えるなんて」

 瀬名はとことこと歩み寄って、俺の横に立ち、こちらを見る。

「先輩、この方は?」

「大学の同期だよ。尾上っていうんだ」


 尾上は会釈すらしない。ただ忌々しげに瀬名を睨んでいる。態度の悪い奴だ。

「……その少女は?」

「ああ、この子は――」

「後輩の韮沢瀬名といいます。はじめまして」

 彼女はそう言って、綺麗な角度のお辞儀をする。


「先輩、何の話をしていたんですか?」

 しまった、もしかして瀬名にラネットの話を聞かれていたかもしれない。

 いや、ちょうど俺が考え込んでいたタイミングだったから、会話していなかった。聞かれるのはありえない。


「大学の話だよ。最近物騒だから」

 瀬名を変なことに巻き込みたくなくて、そう答える。危険な目にでも遭ったりしたら大変だ。


「先輩、もしかして行方不明事件について調べているんですか?」

「ああ、ごめんな。心配掛けるようなことしちゃって。でも、もうそれはやめたから大丈夫だよ」

 何しろ犯人は捕まったのだから。


「もう、先輩ったら……あんまり危ないことはしないでくださいね」

 彼女はやはり心配そうな顔を向けてくる。


「あ、ごめんなさい、お話の邪魔をしてしまって。わたしはもう帰ります。先輩、それではまた」

 彼女は小さく手を振ると、去っていった。

 荷物が重そうだから一緒に帰ろうかとも思ったが。まぁ、まだ話の途中だしな。


「美しい少女だな。私の知り合いに似ている」

「知り合い?」

「漆糸の髪。初雪の肌。神秘さすら感じさせる容貌だ。そしてそれを彩る崖際の寂寞。触れるのを躊躇わせる神聖さ。まさに信仰を集めるに足るだけの、物言う花。どこをとっても美しい」


「尾上……?」

 こいつは急に何を言ってるんだ? 瀬名を変な目で見てたら許さないが。


「惜しむらくはもっと早くに出会いたかったということだ。どうせお前の情婦か何かだろう?」

「じょ――お、お前、言葉の選び方が最悪だな!」

「大切にしろよ」

「あ、ああ……」

 なんなんだこいつは……。よくわからない。


良いもの﹅﹅﹅﹅は保存すべきだ」

 ひとりごちるように、尾上は言う。

「ケースの中に入れて、大切に飾っておけばいい。紛失も劣化もしないように。高尚な芸術品も、偉人の脳も、そうされてきた。そうされて然るべきなのだ。違うか?」

「……俺に訊いてるのか?」


「人はなぜ写真を撮る? なぜ、映像に記録する? 答えは明白だ。尊い一瞬を永遠にするためだよ。人は追い求める。永遠の一瞬を。他の全てを投げうってでも。それが運命から与えられた使命だと言わんばかりに」

 わかるようなわからないような話だ。


「そういうのって、所有欲じゃないのか?」

「所有欲?」

 尾上は意外そうな顔をした。こいつには珍しい表情だ。


「重要なのは『保存』じゃなくて『所有』だと思う。偉人の脳が分割されて各地で保管されている例が顕著だけど。このレベルに至ると、最早原型がどうとかじゃないだろ?」

 保存ではなく、剥奪だ。そう言うと、彼は頷く。


「そうだな。『空間』の剥奪だけでは足りない。重要なのは『時間』の剥奪だ。鮮やかな蝶も、美しい鳥も、籠に入れるより標本や剥製にした方が手っ取り早い。逃げ出す恐れも、劣化の心配もなくなる」

 時間の剥奪か。それは言い得て妙だった。

 時間を剥奪すること。続いていくはずだった緒を理不尽に断ち切ること。それが『所有』の究極系に違いない。


 なんだか話が逸れたが、とりあえず連続失踪事件は終わりを迎えた。




 ▶ ▶




 家に帰ると、すぐに瀬名が出迎えてくれる。既に制服から着替えていて、見慣れた水色のワンピースを身に纏っていた。

「先輩、おかえりなさい」

「ただいま」


 彼女は不思議そうな顔で、匂いをかいでくる。

「先輩、甘い匂いがします」

「ああ、これかな。お土産だよ」

 鞄の中に入れてるのにわかるものなのかと思いながら、今日の茶屋で包んでもらった団子を差し出す。


「おいしかったから、瀬名にも食べてほしくて」

 そう言うと、目の前の少女は恥ずかしそうにうつむく。

「そ、そんな……わざわざお気遣いいただかなくても……」


 瀬名はちゃぶ台の上に広げていた参考書やノートをそそくさと仕舞うと、袋から団子のパックを取り出す。

 プラスチックの容器の中には、さくら、きなこ、みたらしにずんだ、合わせて四本の団子が入っている。


「わあ……色とりどりで、おいしそうですね」

 瀬名は目を輝かせる。そして、次にこちらを見上げてきた。

「わたし、お茶淹れますから、先輩も一緒に食べましょう」




 ▶ ▶




 小柄な後輩はハミングしながら緑茶を淹れている。いつになく上機嫌だ。

 そもそも夕食前なのに菓子を食べていいのかと思わなくもないが。まぁ、彼女は甘いものならいくらでも入るからな。普段はどちらかといえば少食なのに。

 俺もさすがに団子の数本で食事に障るほど胃が小さいわけではないし、付き合おう。


「え、わたしが選んでいいんですか!?」

「もちろん」

 どれも瀬名の好きそうなものを選んだけども。


「なんだか迷ってしまいますね……」

 彼女はじっと団子を見つめている。選べないらしい。変なところで優柔不断だ。


「では、その、きなことずんだで」

 だいぶ時間を掛けて、やっと決まったようだ。 


「えへへ、とてもおいしいですね」

 団子を頬張りながら、にこにこしている。それは、見ているだけで幸せになれる表情だった。ちょっと菓子を買ってくるだけでこの表情が見られるのなら、安いものだ。


「そんなに好きなら、俺の分もあげるよ」

「いっ、いいです!」

 瀬名は慌てて固辞する。

「先輩の分に手を出すほど食い意地は張ってませんから!」

 遠慮しなくてもいいのに。


 俺は団子を口にして、冷えた緑茶を一口飲む。ほんのりとした苦みが、団子の甘さやしょっぱさを引き立てる。


「先輩、このお店のお団子、おいしいですね」

「ああ、そうだな。今度、店に一緒に行くか?」

「本当ですか!?」

 瀬名は前のめりになって、目の色を変える。


 相変わらずすごい食いつきよう。

 そういえば、彼女は昔からこんな感じだったなと、どこか懐かしくなる。何も変わっていない。

「ああ、あそこ案外近いだろ? 行こうと思えばいつでも行けるよ」


「忘れないでくださいね? わたし、楽しみにしていますから」


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