幕間 神が現れた日
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ラストオーダーが終わった店から出たはいいものの、夜の繁華街は依然として集団客などの熱気が残っていて、俺は逃れるように裏路地に入り込んだ。
三軒目を探すという選択肢もあったが、虚しい一人酒をこれ以上続ける意味も見いだせなかった。かといって、家に帰る気にもなれなかった。
酒はだいぶ回っているが、気持ちのいい酔い方ではなかった。少なくとも暗雲立ち込める現実から目を背けさせてはくれなかった。
職業無職になってから、三ヶ月が経とうとしていた。終身雇用の時代が終わってからだいぶ経ったとはいえ、それでも突然のリストラは堪えた。なんであの同僚じゃなくて俺なんだとか、何がいけなかったのか、そんなことがぐるぐると頭の中から離れなかった。
次の就職先の当てなどあるはずもなく、かといって本腰を入れて探す気力もなかった。だからこんなしみったれた現実逃避に終始している。こんなことをしていても、何にもならないというのに。
全てがどうでもよくなって、俺はアスファルトの上に腰を下ろした。
生まれてこの方、要領がいい方ではなかった。就職する際にも難儀した。正直、会社でも失敗ばかりだった。それでも、なんとか取り返すために努力して、周囲と良好な関係を築こうと身骨を砕いてきたつもりだった。
だが、結果がこれだ。
今までの努力は何の意味も持たなかった。
俺は切り捨てられる側の人間だった。
「死にてえなあ……」
思わずそんな声が漏れていた。
将来のことを考えるたびに、その選択肢が頭をちらついた。考えまいとして酒を呷っても、同じだった。
「あら、もったいないこと言うのね」
突然冬の湖に突き落とされたような、そんな声。
顔を上げると、そこには中学生くらいの少女がいた。わずかに漏れる繁華街の明かりを背に、死人のように立っている。
青白いほどの肌。色素の薄い長髪。いやに細い四肢。こちらが目を逸らすことを許さないほどの引力を持った瞳。
非現実性と不健康さの上に成り立った美しい容貌。
酒精に曇った脳が生み出した幻覚かと思った。それほど、こんな場所に現れた理由がわからない不条理な存在だった。
彼女がこちらに一歩近づく。細い裏路地を、刺すように冷たい風が通り抜ける。少女の長い髪がレースカーテンの如く広がった。
「ねえ、あなた」
澄んだ美しい声。しかし、不安定さも含まれている。その響きが、脳の深くまで揺らしてくるようだった。
「こんな世界を変えてみたいとは思わない?」
身体が芯から冷え切っていく。酒による火照りもどこかに行ってしまった。何もかも全てに現実味がない。自分を取り巻く世界がその骨組みを失って、がたがたと崩れていく感覚。
「……な、何を」
辛うじて声を絞り出す。
「何を、言ってるんだ? 君は……」
動揺が現れて、声は調子外れだった。潰れた蛙の方がまだマシな声を出す。
「言った通りよ。ねえ、世界を変えてみない? もちろん、今よりもよくするなんて、そんなやわなものじゃないわよ。恐らくは、多くの人間が望まない方向に、世界を突き落とすの」
少女の戯言と、一笑に付すのは簡単だった。いや、そのはずだった。
「できるはずが、ない」
その質問は、実現性を前提とした言葉。
「ふふ、そうね――」
彼女の白い指が、傍らの薄汚れた壁に触れた。
すると、突然黒色が広がり、壁を覆っていく。
いや、壁だけではない。地面も、空も、全てが色を失っていく。
空気が止まった。風の流れがなくなった。繁華街の方から漏れ聞こえてくる声や物音も、全て消えた。
もう、ダメだった。
理解を超えている。
今すぐにでも錯乱して、逃げ出しかねなかった。
しかし、目の前の少女に、この場に縫い留められていた。一歩たりとも動ける気がしなかった。
「大丈夫、すぐに戻すわ。閉じ込めたりなんかしない」
この少女は、尋常ならざる存在だ。理由は不明だが、否が応でもそう実感させられた。
「ねえ、頷くだけでいいの。私と一緒に、世界を終わらせてくれるわよね?」
それは、命令だった。
身体が自分のものではないようだった。
俺は、彼女に強制的に首を縦に振らされていた。
それを見て、少女はまた笑い声を漏らす。
「き、君は、一体……」
「私は――そうね、黒闇天、よ」
コクアンテン? それは奇妙な響きを持った言葉だった。
だけど、もう全てがどうでもよかった。
酒浸りになるのも、少女の戯言に付き合うのも、同じようなものだ。
先のことを考えずにいられるなら、俺はそれで構わなかった。
⏩ ⏩
心臓が早鐘を打つ。
全て冗談だと思っていたのに。
触れただけで他人を殺せるなんて、そんなことあるはずがなかった。
だけど、目の前の現実は違うことを示していた。
俺が触れた人間は、たった今消えてしまったのだから。
俺にリストラを言い渡した上司。半笑いで、自主退職を勧めてきた上司。
あんなに、頑張ってきたのに。無茶な仕事を振られても、意味のない揚げ足取りをされても、全部従ってきたのに、俺をばっさり切り捨てた上司。
憎んでいないと言えば、嘘になる。
だけど、いざ殺してしまうと、とめどなく罪悪感が溢れ出してくる。してはいけない、ことだった。それなのに、してしまった。
黒闇天は薄い笑みを浮かべて、こちらを眺めている。そこには超然とした美しさがあった。彼女の纏っている空気だけが清冽であるように思えた。
目の前にいるのは殺人の目撃者だ――と一瞬焦ったが。
そもそもこれが殺人にあたるなら、彼女も殺人教唆の罪に問われるだろう。
この少女は……一体なんなんだ? こんなの、明らかに人智を超えている。
この能力は何物だ? 消えた人間はどうなるんだ?
だが、訊くことは躊躇われた。触れてはいけない領域のように思えた。
彼女は、俺の耳元でささやく。相変わらずの、凍えるほど透き通った声で。
「ねえ、次は誰を消してみる?」
「こ、こんなことは、も、もうできない」
「どうして?」
屈託の無さすら感じるような質問に、俺は言葉に詰まる。
「憎んでいたんでしょう? それなら別にいいじゃない。この世にいてはならない人間というのは確かに存在していて、そういう人間はいなくなった方がいいわ」
「だ、だからって、こんな……」
「もしかして、社会で禁じられているからダメだと思っているの? それなら、頑張ってきた社員を、情け容赦なく辞めさせる社員や会社が許されている社会は、正しいの?」
「そ、それは……」
黒闇天には、俺の考えが全て見透かされているような気がした。余計なことを言い募れば言い募るほど、醜態を晒す気がした。
「元から間違っているんだから、だから全部壊すのよ。それに、私たちの目的は世界を終わらせることでしょう? それを実現できたら、人間がひとりふたり消えるなんて、その程度じゃ済まないわ。この人は、消えるのが少し早かっただけ。そうでしょう?」
「…………」
俺は、考えることに疲れていた。黒闇天の言葉に従うのが、一番楽であるように思えた。
既に人をひとり殺している以上、後戻りすることもできなかった。
「私はね、あなたを救いたいと思っているの」
黒闇天の言葉は、脳の奥を揺らしてくるようだった。
「大丈夫、あなたは何も間違ってないわ。そんなあなただから、選んだの。この人となら、世界を終わらせられるって」
もし俺が拒絶したら、きっと彼女は目の前から姿を消すだろう。
奇妙な少女と過ごした時間は、全て夢のように感じられるだろう。
後に残るのは、どうしようもない現実だけ。人を殺した罪悪感にも苦しめられるかもしれない。
そんなの、一体どうすれば良いんだ?
「ねえ、分かってくれた?」
その問いに、気がつけば俺は頷いていた。
「ふふ、じゃあこれからも頑張りましょうね」
笑い声が、また脳の奥を揺らした。
⏩ ⏩
古式ゆかしい日本邸宅の離れにある蔵。そこに俺はいた。やたら年季の入ってそうな書物が、周りに無数に積み重ねられている。
最初は人家の敷地に勝手に足を踏み入れることに抵抗があった。いくら黒闇天様が裏口の鍵を開け放っていたとしても、こんな豪邸、気軽に入れるものではない。とはいえ、もういい加減慣れた。
ここは黒闇天様の家なのだろうか。それならば、彼女の素性や経歴を調べることもできるかもしれない。しかし、それは出過ぎた真似だった。黒闇天様を凡百の人間に貶めるような愚行だった。
蔵には十人ほどの人間が集められていた。
俺と同じくらいの年齢の男もいれば、まだ学生であろう少女もいた。皆揃って、黒闇天様に目を向けている。
こういった集会は、定期的に行われた。
黒闇天様に会うために、俺は毎回参加していた。
彼女の話では、世界は実際に壊してしまえるという。
あちこちに歪みを生じさせれば、やがて世界は軋み、秩序を失って破綻するというのだ。
そして、その歪みを生じさせる方法が、あの奇妙な能力――触れただけで他人を消せる能力なのだという。
だから黒闇天様は、俺たちに多くの人間を消すように命じた。可能な限り大量に無作為に。
俺たちは、最近消した人間のことを次々に言っていく。正直、他に集まった人間に対して興味はなかった。むしろ、際立って黒闇天様から気に掛けられている人間がいたら、不快だった。
もちろん、黒闇天様はそんな不平等な真似をしないが。
彼女は、誰の話も真摯に聞いていた。
誰かが世間への不平不満を漏らしたら、真剣に耳を傾けて心を痛める。どんなくだらない話でも、一笑に付したりしない。
本当に俺たちを救おうとしているようだった。
こんなに心根の清い人は初めて見た。
誰にも関心を払われないような人間に手を差し伸べて、導こうとしている。こんなどうしようもない世界を、正しい方向へと向かわせようとしている。
黒闇天様が俺の前に立つ。
順番がやってきた。話す内容はあらかじめ考えていた。
彼女の赤い瞳がこちらを見つめている。目を合わせると、抜け出せなくなりそうな、瞳が。
自然と俺の口は開いた。
「俺に仕事を探せって言ってきたお袋と口論になって、それで……」
「消したのね?」
笑みの混じった声。
俺は何も答えなかったが、黒闇天様には全て見通されていた。
「素晴らしいわ」
銀髪の少女が、そっと抱きしめてくる。
死人のように体温が感じられない身体だった。しかし、甘い花の香りが髪から漂ってくる。
消した人間が多ければ多いほど――近い存在であればあるほど、黒闇天様からの称賛がもらえた。
それは、世界を終わらせることに実直な証だから。
一通り話を聞き終えた黒闇天様は、周囲にいる人間を見回す。
「ねえ、こんな世界なんて、終わらせてしまった方がいいとは思わない?」
その場にいる者全員が頷いた。
「人間なんて、卑小で蒙昧な者の集合体よ。誰も彼もが、いくらでも代替可能で無価値な自分自身のために、醜く這い回る。世界という大きな流れの中で、取るに足らない一人のちっぽけな心が満たされたって何の利益もないのに、そのためにいくらでも他人を犠牲にする。そんなことをいつまでも繰り返しているだけなの。紀元前から今日に至るまでね。愚かしいでしょう?」
彼女は朗々と語る。
「真の安寧は暗闇の中にしか存在しない。呼吸を止めた人間だけが価値を持つの。それなのに、彼らは依然として再生産を繰り返し、この世に厄災を振り撒き続ける。だから、終わらせた方がいいわ」
この場にいる誰もが、黒闇天様の言葉に逆らおうなどとは微塵も考えていなかった。
黒闇天様の発する言葉は全て真理で、何も間違っていなかった。
「こんな世界なんて、一刻も早く終わらせましょう」
黒闇天様の瞳は、俺に向けられていた。
「ねえ、従ってくれるわよね? 不破さん」
最早俺の身体は俺自身のものではなかった。
だから、首を縦に振った。
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