7 運命のデッドロック




 今日こそは、暗号に取り組む。

 俺と朝霧は当初の予定通りに、喫茶店に入った。


「瀬名が言ってたことなんだけど――」

 一枚目の暗号が、「月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを こよひしりぬる」であることを伝える。


「なるほど! それじゃ、その和歌をコードブックにして暗号を解けばいいのね!」

「あはは、それなら話は早かったんだけど、もっと意地悪な謎だったんだ」

「む……そうなの」


 俺が現時点で辿り着いた情報は、全て話す。

「なんか、秋萩の性格が見えてきたよ」

 勝つためなら反則ギリギリの手段も躊躇なく使う性格が。


「困った弟でしょ? 普段もこんな感じなの」

 それは、随分苦労させられそうだ。とはいえ、朝霧は弟を嫌っているわけではなさそうである。根は悪い人間ではないのか、彼女が優しいだけなのか。


「弟は軽く見てるのよ、時間移動を。あいつにとっては旅客機に乗って海外旅行する程度の感覚でしょうね。奮発して遠出すれば、知らない世界があるって。だけど、全然違うわ。世界の理に逆らっているんだから」

 なるほど、違う時間に行くというのは、そういう感覚なのかもしれない。


「あたしの家はこの時間操作の力で代々富を築いてきたわ。この辺りでは、あの家は呪術を使うと恐れ半分で一目置かれていた。家の人間もみんな、独特の矜持を持っていたの」

 それは、想像できない世界の話だった。


「だけど、あたしはそんなものに何の価値も感じられなかった。それで自分たちが偉いと勘違いしてる家族にも、自分の一存で世界を変えようとすることにも。……親から見れば弟よりあたしの方が不良だったでしょうね」


「朝霧はすごいな。自分をしっかり持ってて」

 周りがそんな環境の中、疑問を抱けるのは並々ならぬことだ。


 彼女は、アイスコーヒーを口に運ぶ。どことなく曇った顔なのは、苦味ゆえではないだろう。

「あたしもまた、わがままを言っているだけに過ぎないのよ」


 そのとき、朝霧の身体がぼやけ、二重にぶれる。


「あ、朝霧……?」

 自分の目を疑った。だが、それは紛れもなく現実だった。

 俺の前にいる女性の存在が散逸し、消えようとしている。


「ああ――これね」

 朝霧は明滅するかのように揺らぐ自分の両手を見ながら、静かに呟く。


「言ったでしょう? 世界は時間の歪みを淘汰しようとするって」

「ああ……」

 それが、黒く染まったものが消えるメカニズムだ。


「本来いるはずのない時間にいる存在――あたし自身も、世界にとっては相当な歪みなのよ」

「え、それじゃ朝霧も淘汰されようとしてるってことか?」


「本来なら、なんともないはずなの。その辺りをかい潜るのも時間移動術の内だし。でもね、やっぱり今の世界は相当不安定になってるみたい」

 また、朝霧の姿がぶれる。ぼやけて、消えていきそうになる。


「あたしという不安定な存在が、こんなふうにぶれてしまうほどに、世界は安定を欠いている」


 見かねて、俺は彼女に竹紐の首飾りを手渡した。

 よくわからないが、この石は世界の淘汰を防ぐ効果があるらしい。もしかしたら、何か助けになるかもしれない。


「いいの? 大事なお守りなんでしょ?」

「さすがに消えそうになってる人を看過できないよ」

「ふふ、ありがとう。少し借りるわね」

 朝霧は竹紐を首に掛けると、服の中に入れる。


「これで安定したわ。やっぱりこの石の効果はすごいわね」

「それなら良かった」

 先程までのことがなかったかのように、彼女はしっかりとそこに存在していた。


 しかし、朝霧が心配だった。世界に淘汰される、というのはつまり。死んでしまうことと同義だから。

 お守りの効果で、ひとまずは事なきを得たようだが。


 会話が途切れる。どう声を掛けたものか。

 目の前の女性は、またコーヒーを飲む。


「……昨日の子、大丈夫かしら」

 ため息交じりの声だった。


「あえかちゃんのことか?」

「ええ」

 朝霧は頷くと、グラスをテーブルの上に置く。


「時間移動の力を使えば、あの子が両親とお別れする運命を変えられたかもしれない。でもね、あたしには変えられないと思うのよ」

「『運命』だから、か?」


「そうよ。何か嫌なことがあって、時間を巻き戻したいと思うのは自然な感情だわ。でもね、そうやって嫌なことから全て逃れようとしたら、際限がなくなる。こんなことを言ったら怒る人もいるだろうけど、あたしは人の死の運命も全て受け入れなくてはならないと思ってる」


 確かに、今まさに死に瀕している人に「受け入れろ」と言ったところで、逆鱗に触れるだけだろう。決して理解されない。


「だからね、ときどき嫌になるの。時間を操る術を持った自分自身を。あたしなら変えられるかもしれないから。たとえば昨日の子を、救えるかもしれないから」

「救える可能性があるのに救わないのは、最初から救えないよりも辛いことかもしれないな」

 そう言うと、朝霧は少し悲しげな笑みを浮かべた。


「変えられたとしても、いい運命になるとは限らない。その先に更なる不幸があったり、ほかの誰かが代わりに不幸になるかもしれない。だから、あたしは選択権を放棄した」


 彼女が持っているのは、残酷な選択権だ。ともすれば人の命の取捨選択すらできるほどの。それは、ひとりの人間の手には余る、ということなのだろう。

 俺は、みたきのことを考える。全ての人間を見下していたような彼女は、きっとその選択権を享受してしまったのだろう。


「……この髪はね、罰なの」

「罰?」


「あたしには、夢があったの。百年後の世界を見てみたいという、夢が。幸か不幸かあたしにはそれを可能にする能力があった」


 ラネット。

 時間を人の意志で操る力。


「……いえ、夢なんて綺麗なものじゃないわ。そのときのあたしは自惚れていた。ラネットの扱いは慣れたものだったし、ほかの人たちが縛られて逃れられない時間という絶対の鎖を、あたしは超越することができた。自分に不可能はないなんて、そんなことさえ思っていたかもしれない」


 朝霧も、そんなふうに思っていた時期があったのか。恐らくは、彼女の家族と同様の考えを持っていた時期が。


「だからね、時間跳躍に『百年の壁』があると聞いたとき、あたしならそれを超えられると思った。超えてみせるって、そう思った」


 「百年の壁」……そういうものがあるらしい。より離れた時間に跳ぶことの方が難易度が高そうだというのは、なんとなく掴めるが。

 朝霧の夢は、目標といってもよかった。

 困難なことを達成するというのは、それだけ自分の力量を示せることを意味するのだから。


「百年先の未来に跳ぶのは、かなり骨が折れたけど――でも、不可能じゃなかった。そして、やがて成功したの」

 目の前の女性は、アイスコーヒーを傾ける。


「だけど、辿りついたのはふつうの世界じゃなかった」

 グラスを持ったまま、彼女は痛みを耐えるような顔をした。いや、実際に痛みに苦しんでいるのかもしれなかった。


「一面極彩色の絵具がぶち撒けられた、毒々しい世界。そこには世界の摂理なんてない。一秒ごとに目が焼けるようだった。まるで宇宙からの色の中に落ちたようだったわ」

「え……」


「百年後の世界に移動することは、禁忌だった。それは、驕った人間の翼が蝋でしかないことを教えるような、絶対の縛め。人は、『百年の壁』を超えられないの」

 想像が及ばないような話だった。そこは、一体どんな光景なのだろう。


「その結果がこの、燃えるような烙印」

 朝霧の、退紅色と翠緑色の髪。ともすれば構造色のようだ。およそ人間の髪とは思えない色合い。

「あたしの髪は元の色を失い、歪な色に染まった」


 恐らく、染め直せば済むというような話ではないのだろう。どうやっても変えられないものが、烙印なのだから。


「……愚かだったわ。自業自得よ」

 彼女は、自嘲するように笑う。心底悔やんでるといった顔だ。


 その姿は見ていられなかった。

 励ましたくて、俺は口を開く。


「朝霧は、ただ不可能に挑戦したかったんじゃないのか? それは探究心で、褒められるべきだ。太陽に近づきたいと願うのは、別に罪じゃない。俺はこの話を聞いて、朝霧のことがもっと好きになったよ」


 彼女は、ぱちくりと瞬きをしてこちらを見つめる。そして、目を逸らした。

「そ、そう……」

 どこか照れているようだった。こほんと咳払いをして、飲み物を口にする。


「ふふ、不思議ね。あなたにはなんでも話してしまいそうになる」

 言われてみれば、俺はよく誰かに相談されたりする。話しやすい雰囲気でもあるのだろうか。


「あなたってあまり人に深入りしないのね」

「え、そうか? むしろおせっかいな方だと思ってたよ」

「あたしのことについて根掘り葉掘り訊こうとしないじゃない」

「ああ……確かに、そうだな」


「話はちゃんと聞いてくれるし応えてくれるけど、必要以上に首を突っ込んでこない。そういう距離感が、ちょうどいいのかもしれないわね」

 他人が話そうとしないことまで聞く気は起きなかった。口に出さないということはつまり言いたくないのだろうし。


「鴇野って、聞いた話は言いふらしたりしないでしょ?」

 尋ねられて、俺は頷く。


「そんなことやったら、失礼じゃないか。人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから」

 大事な話を聞かされて無闇に流布するなんて、あまりにもその人のことを尊重していない。


「そうなの、そういう行動原理なのね」

 彼女は少し意外そうな顔をした。

「どうしてそんなにほかの人を尊重しようと思ったの?」


 どうして、と訊かれても。

 俺にとってはそういうものだとしか答えられない。


「……昔、ちょっと入院してたことがあって。そのときに思うところがあったんだ」

 朝霧が大学の同期などだったら話していないが、まぁ、彼女は旅行者だし。


「へえ……あなたのそういうところ、美徳だと思うわ」

「あはは、ありがとう」


 美徳、か。

 真に美徳かどうか決められるのは、それこそ神くらいのものだろう。


「というか、だいぶ話がずれちゃったな」

 本題は暗号なのだから。


「そうね……片方のカードが和歌だって判明したのはいいけど、もう片方が解けないとどうしようもないわ」

 このやたら長い紙が問題だった。明らかにこの長さには意味があると思うのだが……。


「長い紙というところから、転置式暗号なんじゃないかとも考えたんだ」

 もっと言うなら、スキュタレー暗号なのではないかと。


 スキュタレー暗号とは、棒に長い紐や紙を巻きつけることで読み解く暗号だ。書かれたばらばらの文字が、棒に巻くという手順を踏むことで正しい順番に入れ替わるのである。


「でも、スキュタレー……暗号を解く鍵となる棒がないんだ」

 それらしいものは、これまで見なかった。


 最悪、棒がなくても雑にそれらしい形を作ってみて、文章が完成しないか試行錯誤してみるしかないかもしれない。とはいえ、元の暗号が数字となっている以上、それも難しい。ローマ字に置き換えるのが正しいとも限らないのだから。


「一体どうすればいいのかしらね……」

 やはり暗号は混迷を極めていた。



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