8 祭り、晴れの一日
暗号はまた翌日考えることにして、自宅に舞い戻る。
「先輩、わたし、支度があるので、先に行っていてもらえますか?」
「ああ、わかったよ」
今日は、川瀬祭がある。
俺は瀬名に見送られて、一足先に家を出た。
別に支度が終わるまで待っていてもいいが、こっちの方が待ち合わせのようで趣があるか。一緒に暮らしてると、待ち合わせする機会なんてあまりなくなるし。
▶ ▶
鳥居の前に立っていると、待ち人はやってきた。
夕顔が描かれた水色の浴衣に紫色の帯。歩くと、からんころんと下駄の小気味良い音がする。髪を後ろでまとめており、相変わらず白い花の髪飾りが似合っている。
「花の名は人めきて」――ともあれ、その麗しい黒髪や透明感のある容貌に、和装はよく映えた。
瀬名は俺を見ると、駆け寄ってくる。
「先輩っ、あ――」
しかし、段差に躓いて足を取られる。
ぐらりと傾いたその身体に慌てて手を伸ばすと、どうにか抱き留められた。
「ご、ごめんなさい……」
「足元もちゃんと見てくれよ?」
しかしこうして間近で見てみると、より卓越した精巧な顔立ちや清らかな美しさが際立つ。
色づいているくちびるや頬。黒い髪には一切他の色が混じっておらず、白い肌にはくすみひとつない。
瞳は提灯の明かりに照らされて、朱色に染まっている。
そして、俺の影を写し出していた。
瀬名は何か言いたげにこちらを見ていた。耳まで真っ赤にしている。
しまった、ついじっと見過ぎてしまった。
「ああ、ごめん。瀬名ってやっぱりかわいいなと思って」
「……もう、先輩ったら」
瀬名は身体を離すと、
「どうですか? 着付け、変ではないでしょうか」
「全然変じゃないよ。すごく似合ってる。元から瀬名には和装が似合いそうだと思ってたけど、ここまでなのは予想外だよ」
華奢な肩に、楚々とした佇まい。浴衣はこの上なく調和していた。
「…………」
彼女は恥ずかしそうに目を逸らす。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
小柄な後輩は頷いて、俺の横に立って歩き出す。なんか違和感があると思ったら、下駄を履いているから普段よりちょっと背が高いのか。
境内には屋台が並び、既に人でごった返していた。
「混んでるな……」
「ええ、本当に」
はぐれないように瀬名の手を握ると、彼女は指を絡めてきた。
屋台は、お馴染みのものが揃っていた。
たこ焼きに焼きそばに、射的、かき氷。一体どこに寄ろうか。
「先輩、あれって……」
瀬名の視線は、ひとつの出店に向いていた。
「ああ、わたあめ? 食べるか?」
後輩はこくりと頷く。
白くてふわふわな物体を購入し、瀬名はまじまじと見つめる。
「これが、わたあめ……」
まるで初めて見たかのような反応だ。いや、彼女なら実際初めて見たということもあり得る。
その白い指で、砂糖の糸束をつんつんとつついている。
「ふわふわです」
「あはは、そうだな」
花の髪飾りを着けた少女は、恐る恐るわたあめを食べる。
「甘いです……」
目を見るだけで分かるほど、彼女は感動していた。
「結構ざらざらした食感なんですね。これは予想していませんでした」
小さな口で、どんどん食べていく。相変わらず、彼女のお菓子を口にする速度は尋常ではなかった。
▶ ▶
再び境内を歩き出すと、瀬名はまた屋台に目を留める。
「先輩、これって……」
「りんご飴だな」
「…………」
「……食べるか?」
手の中の赤い飴を見て、浴衣の少女は目をきらきら輝かせる。
「本当にりんご丸々一個に飴がコーティングされています!」
彼女のくちびるが赤いりんご飴に触れる。
「とっても甘いです……!」
俺はみかん飴を買った。同じものを買うよりは違うものを買った方がいいだろう。
うれしそうにフルーツ菓子を舐める後輩を見ながら、みかん飴を小さくかじる。
「こっちのみかん飴もおいしいよ」
そう言って差し出すと、瀬名は受け取ることなく、そのまま舐め始める。
「本当だ! おいしいです!」
飴の一口、というのは確かに難しい概念だが、彼女はひたすらみかん飴を口にしている。一切やめる気配がない。こんなに迅速に飴を食べられる人間が存在していたのか。
そろそろみかん飴を持つ手が疲れてきた。夢中になって舐め続けている。
「…………」
このまま全部食べられそうな勢いだ。いやまぁ、別にいいけど。
やがて、みかん飴を平らげてから瀬名ははっと我に返る。
「あっ……」
しまった!という顔をしている。
「せ、先輩、りんご飴、どうぞ……」
恐る恐る差し出されたので、一口だけもらう。
「甘いな」
「……そうですね」
▶ ▶
祭りに来てから砂糖の塊しか摂っていない。そろそろ血糖値が心配になってきたが、次に後輩が興味を示したのは金魚すくいだった。
瀬名は浴衣の袖をまくって、ポイを構える。水槽をじっと睨むかのように見て、思い切り腕を振り上げる。
こう言っちゃなんだが、とても下手だった。無闇に何匹もすくい上げようとしてはポイに穴を開け、結局一匹も取れなかった。
「ぐ……」
破れたポイを、瀬名は忌々しげに見つめる。
「今度は俺がやるよ」
水の重みでポイが破れないように、横に滑らせる。
ポイのフレームに引っ掛けるようにして、金魚をすくい上げる。
俺も上手い方じゃないが、さすがに一匹くらいは取れる。
「わあ……すごいです! 今の、どうやったんですか?」
瀬名は、あまりにもきらきらした目でこちらを見つめてくる。そんなに屈託のない瞳を向けられると、なんだか、少しひるんでしまう。
「そんなすごいことじゃないって」
瀬名は俺の服の裾を引っ張る。
「先輩、もう一匹取りましょうよ」
「え? ああ、そうだな」
そうして、全部で二匹の金魚をすくい上げた。
▶ ▶
その後も瀬名は屋台を見て回っては、ガラスのような瞳をきらきら輝かせた。そんな姿を見ているだけで、俺の方もうれしくなってくる。
だが。
不意に。
彼女の表情から明るさが失われた。
「瀬名?」
「いえ……たくさんお店を回ったので、そろそろ時間かと思って」
「まだまだ時間はあるよ。花火だって打ち上がってないんだし」
「……そうですね」
瀬名は寂しげに微笑む。
なぜだか、彼女がひどく頼りない存在に見えた。目を離したら次の瞬間消えてしまいそうだと、そう思えてしまうほどに。
「……瀬名、少し休もうか」
▶ ▶
時枝神社本殿の脇にある、雑木林。ここには申し訳程度にベンチが置かれていて、参拝客が休めるようになっている。
この辺には露店もなく、祭りの喧噪も遠い。
ふたりで並んでベンチに腰掛ける。こうしていると、昔公園でよく話していたことを思い出す。
横を見ると、小さな頭と小さなつむじが見える。
瀬名がこちらを見上げてきて、目が合った。
本当に端正な顔立ちだ。無駄がない。熱気ゆえか少し上気した頬も、提灯の灯りを写し取って朱色に染まった瞳も。
永遠にしたい一瞬。
別に尾上の哲学に感化されたわけではないが、写真を撮っておくのも悪くないだろう。
「瀬名、浴衣姿の写真、撮ってもいいか?」
そう訊くと、彼女は躊躇う様子を見せる。
「実は、写真は苦手なんです。撮られるの、あんまり慣れていなくて。笑うのも得意じゃないし」
いつもあんなに、にこにこしているのに。さっきまでだって。
「折角の綺麗な浴衣姿なんだから、残しておかないともったいないじゃないか」
「…………」
瀬名は少し考え込んだ後、顔を上げる。
「先輩も一緒に写ってくれるなら、いいですよ?」
「仕方ないな……」
携帯電話のインカメラに切り替える。これだと全身が撮りづらいが、詮方ない。
フレーム内に収まるよう、瀬名が身体を寄せてくる。
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859783215260)
ぱしゃり、とシャッター音が響く。一応何枚か撮ってから、液晶を見て確認する。
そこには、花のようにたおやかで可憐な少女が写っていた。
ひかえめに、はにかんだ表情。横に写っている男が邪魔なくらいに美しかった。
「……そんなにまじまじと見ないでください」
瀬名は恥ずかしそうにしている。
「ああ、ごめん」
改めて、ふたりでベンチに座り直す。
「やっと落ち着きました」
横の少女が、そう声を漏らす。
「騒がしいところは疲れます。あなたと一緒なら、楽しいですが」
つがいの赤い金魚が、ゆらゆら泳いでいる。
小さな袋の中で、くっついたり、すれ違ったり、せわしない。
「わたし、お祭りには初めて来ました」
「え、そうだったのか?」
「はい」
彼女は頷いて、言葉を継ぐ。
「わたし、あなたに出会えてよかったです。毎日本当に楽しいし……もうあなたがいない世界なんて、考えられません」
俺は頭を掻く。
「……なん、か、そうやって面と向かって言われると、照れるな。昔はあんなに素直じゃなかったのに」
瀬名は困ったように微笑む。
「素直なわたしは嫌いですか?」
「いや、昔の瀬名もかわいかったけど、今の瀬名の方が好きだよ」
「そう、ですか」
小柄な後輩は真っ赤になってうつむく。照れているらしかった。
「わたしも、今のあなたの方が好きです」
顔を上げて、瀬名はおずおずと言葉を紡ぐ。
「先輩、その……来年も、一緒に来てくれますか?」
「もちろん――というか、来年と言わず、毎年来てもいいくらいだよ」
「本当ですか?」
彼女の瞳に、不安の色が浮かぶ。
「本当に……ずっと一緒に、いてくれますか?」
その表情はこれ以上ないくらいに幼く見えた。
とても十七歳には見えず、なんだったら、小学生の頃の韮沢瀬名と何も変わらない。
「指切りでもしようか」
冗談でそう言うと、瀬名は真面目な顔で頷く。
「あはは、わかったよ」
小指を差し出す。そこに、彼女は細い小指を絡めた。
「約束、ですよ?」
「ああ」
瀬名とずっと一緒にいるのは、全く悪い話ではなかった。彼女と暮らすのは楽しいし、こんな日々が続けばいいとも思う。
「ここだと、星空が見えるんだな」
空を見上げると、一際まばゆいものに限るが、星が見える。「星はすばる、彦星、夕筒、
「もう、先輩ったら」
瀬名はくすくすと笑みをこぼす。
「もうすぐグレア流星群の時期ですよ」
「へえ、そうなのか」
「あ、流れ星です」
その声に、夜空に意識を向けると、濃紺の空に一筋の線を描いて火球が落ちていくのが見えた。流星群は近いらしい。
「流れ終わるまでに三回お願い事を唱えるのは、難しいですね」
「あはは、神社なんだから、もっと他に祈るべき相手がいるだろ」
「ふふ、それもそうですね」
この神社が祀っているのは、
「……ん?」
星?
――北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月も離れて
――月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを こよひしりぬる
秋萩のカードに出てきた和歌は、どちらも星と月の歌だ。
偶然だろうか?
いや、そんなはずはない。何か意味があるはずだ。
もしかして――
これは、明日朝霧に話そう。
今は瀬名と一緒にいるのだから。
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