9 星に願いを



 等間隔に並ぶナトリウムランプが、アスファルトに光を落としている。

 花火を見終え、俺たちは家路についていた。手を繋いだまま、歩く。


「ん?」

 道の先に、見覚えのある姿があった。翁丸が電柱につながれていたのだ。


 彼は俺と見るや否や駆け寄ってくる。すぐにリードが伸びきってそれ以上進めなくなるが、構わずに走り続ける。その一直線な様子は心和ませるものがあって、俺は慌てて翁丸のもとに向かった。


「おばさんはどうしたんだ? お祭りか?」

 当然犬が何か言うはずもない。ただ足元でくるくる回っているだけだ。おばさんは買い物か何かだろう。


「お知り合いですか? かわいらしい犬ですね」

「こいつの母親の代からの長い付き合いなんだよ」

 俺が撫でてやると、翁丸はまなじりを下げる。そしていつものように転がって腹を向けてきた。しょうがないので、応えてやる。


 折角実家を出たんだし、犬を飼ってみるのもいいかもしれないな……。いや、瀬名がいるんだし、無理か。俺の思い付きに彼女を巻き込むわけにはいかない。

「ふふ、仲がいいんですね」

 瀬名は目を細めて、柴犬に手を伸ばす。


 しかし、その瞬間翁丸は大きく口を開けた。

「おっ、翁丸!」

 慌てて止めようとするが、遅かった。彼は思い切り瀬名の左手に噛み付いていた。


 すぐに瀬名と翁丸を充分な距離遠ざける。柴犬は低く唸っている。こんな姿、見たことがない。

「瀬名、大丈夫か!?」

 彼女の左手を見ると、幸い傷は深くない。だが、鮮血が滴り落ちていて痛々しい。


「は、早く消毒しないと……! ごめん、瀬名、ちょっと待っててくれ。コンビニ行ってくる」


「わかりました。わたし、あなたが戻ってくるまで、ここで待っていますね」

 そう言う瀬名を残して、俺は駆け出した。




 ▶ ▶




 急いでコンビニで消毒液や包帯などを買ってきた俺は、近くの公園の水道に移動し、すぐに患部を流水で清める。

 犬に噛まれた場合、五分は傷口を洗い流さないといけない。


「染みるか?」

「大丈夫です」

 石鹸や消毒液を交えて、消毒する。


「ごめんな、瀬名。いつもは噛みついたりするような奴じゃないんだけど。気が立ってたのかもしれない」

「あ、いえ……」


 五分間の洗浄を終え、俺はしゃがんで彼女の左手を取る。

 こうして見ると、本当に細くて綺麗な指だ。繊細で、とても自分のそれと同じだとは思えない。

 だからこそ傷と、そこから滴り落ちる血が見るに堪えない。


「もう、先輩ったら……」

 瀬名は右手で俺の頬に触れる。

「そんな顔をしないでください。この程度の傷、何の問題もありませんから」

 彼女の細い指が、輪郭をなぞった。


 そうは言っても、もし悪い菌に感染したら大変だ。ガーゼや包帯で処置を施し、止血する。

 瀬名はじっと包帯と自分の指を見つめていた。

「……先輩」


「瀬名、今から救急外来に行こう」

「え、そんな……いいですよ」

「大丈夫じゃないよ。感染症が怖いし、診てもらった方がいい」


「もう、先輩は心配症ですね」

 彼女の方こそ、もっと自分について心配してほしかった。


 浴衣の少女は、俺の腕に抱き着いてくる。

「瀬名?」

「いえ……早く行きましょうか」


「瀬名、怪我してるんだから――」

「いけませんか?」

 彼女の一対の瞳は、じっとこちらに向けられていた。

 そして、顔を寄せてきて、キスされた。


 時間が止まったような感覚。夏の熱気にすら隔たりを持つ。

 もちろん、それは絶望とは程遠いが。


 顔を離しても、瀬名はまだこちらを見つめていた。

 その瞳は、ナトリウムランプの橙色の光に染まっている。


 俺がいつも抱いていた違和感。

 ……果たして韮沢瀬名とはこんな少女だっただろうか?




 ▶ ▶




「……眠い」

 どうにかあくびを噛み殺し、シャツのボタンを一番上まで留める。


 あれから、昨夜は救急外来に行って処置をしてもらった。幸い見たところ異常はなく、傷も縫うほどではないとのことだった。

 何かしらに感染していないか経過を確認するために、今日も通院するように言われた。


「俺も一緒についていくよ」

 至極当然のことを言ったつもりだったが、瀬名は困惑した顔になる。

「傷のその後の様子を見るだけですし、大丈夫ですよ」


 やはり彼女には危機感が不足している気がした。

「手が使えないと色々不便な場面もあるだろ?」

「先輩が心配するほどの傷ではありません。利き手ではないですし、料理も作れるくらいですから」


 本当に大丈夫だろうか。一抹の不安が残るが。

「じゃあついては行かないけど……必ず病院に行ってくれよ?」

「はい」


 昨日の一件は、きちんと飼い主のおばさんに伝えなければならない。隙を見て、家を訪ねるか。




 ▶ ▶




 家を出て、ちらりと腕時計に目を遣ると、針が止まっていた。

 なんだろう、電池切れか? 新品なのに。故障だったら面倒だが、何にせよ一度店に行って見てもらうか。今日は朝霧との用があるから行けないが。


 このことは、瀬名には言わないでおこう。折角贈ったばかりの時計が止まったと知ったら、気に病んでしまうかもしれない。


 大学の講義の後に待ち合わせ場所に行くと、朝霧は既に来ていた。

 彼女には伝えたいことがあった。


 顔を合わせるなり、俺は口を開く。

「朝霧、夜臼坂学園に行こう」




 ▶ ▶




「いきなり夜臼坂学園に行こうなんて言うから、びっくりしたわ」

 俺たちは、ユース棟にいた。


 手間を掛けさせて申し訳ないが、朝霧には一度ホテルに戻って制服に着替えてもらった。

 俺の方は、またぞろ卒業生の特権で中に入った。とはいえ、さすがにこの頻度で来たせいで怪しまれている。そろそろ限界だろう。


「昨日、思いついたんだ。これまで秋萩のカードに出てきた和歌は、全て星に関連しているって」

「ああ……言われてみればそうね」


「俺たちは、カードに書かれたわずかな情報から秋萩にたどり着かないといけない。だから、こんな共通項を見逃すわけにはいかない」


 「こにりなんううんしとまよさあ」の暗号では、和歌はコードブックになった。いわば、暗号を解く鍵だ。

 今回の暗号に出てきた「月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを こよひしりぬる」も、当然鍵になる。


「星を見るために必要なものは、はっきりしてる」

 俺の足は止まる。目的地に着いたからだ。

 ユース棟の屋上にある、天体観測室に。


 幸運にも扉に鍵は掛かっておらず、難なく入ることが出来た。

 中には誰もいない。まぁ、部活動か授業でもなければ使われることは少ないだろう。


「え、ここで何をするつもり?」

「昨日言っただろ? この暗号は、スキュタレー暗号かもしれないって」

「そうね。でも、紙を巻きつける棒がないって話だったわ」


「星を見るときは、天体望遠鏡に頼るだろ?」

「そうだけど……そ、そんなまさか……」

「だから、今回も天体望遠鏡に頼るんだ」


 これこそが、暗号の鍵。

 この暗号は、天体望遠鏡をスキュタレーとした暗号だったのだ。


 ずっと引っかかっていた。秋萩はなぜ夜臼坂学園を、暗号を隠す場所に選んだのか。

 無論、図書室――『万葉集』がなければ暗号が成立しないというのが一番の理由だろう。だが、それだけではない。

 夜臼坂学園には、天体望遠鏡があるから。


 紙を天体望遠鏡に巻きつける。すると、縦に並んだ数字の列が七つ生まれる。


図①(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859813117482


「これをローマ字に置き換えていくと……」

 そろそろ数字をローマ字に変換する作業に嫌気が差してきた。全く楽ではない。


図②(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859813135442


 ローマ字に変換された暗号から、言葉が浮かび上がってくる。

 左から縦に読んでいくと、「暗号はこれで全て終わりだ 今から指定する場所に来い 皆原駅南口のコインロッカーくの暗証番号は」となる。


 いくつか不要の文字が混ざっているが、これは字数を合わせるためというよりも、スキュタレー抜きで強引に筒の形を作っても解きにくくするためのノイズであるように思える。


「ほ、本当に天体望遠鏡が鍵になるなんて……」

 朝霧は唖然としている。

「こんなの、ふつう解けないわ。どうやったらこの発想が浮かぶっていうの?」


 星と夜臼坂学園を結びつけて、どうにか導き出せるといったところだろうか。それでも、だいぶ思いつきに頼っているが。

 ここに来て、秋萩もだいぶなりふり構わなくなってきた感がある。


 一般的なスキュタレー暗号は、棒を横に倒して左端から紙を巻いていく。だが、この暗号は天体望遠鏡を使っている性質上、紙は上から巻き、文字は縦に読むことになる。だいぶ変則的だ。いざ巻くときも、様々な形を試すことになった。


 ローマ字であるため、暗号を下から上に読むことも可能だし、一文字が列をまたぐこともある。これでは、試しに紙を筒の形にして解こうとしても、難しい。強引に解くことを妨げるギミックが何重にも施されているのだ。

 秋萩の、絶対に解かせないという意志を感じる。


「ねえ、『コインロッカー』の『く』ってどういうこと?」

 疑問を呈す朝霧。

「そうだな……文脈的にコインロッカーを識別する文字だと思うけど……」

 皆原駅のコインロッカーは、別に平仮名を割り振られているわけではない。


「もしかして、『コインロッカー区』ってことなんじゃない?」

 コインロッカー区? そんな言葉はない気がするが。

 何か間違っているのか……?


「うーん、そうねえ、あるいは『コインロッカー句』とか『コインロッカー九』とか……」

 若菖蒲の髪の女性の声を聞きながら、俺は思索を巡らせる。

 コインロッカーに割り振られるのは、ふつう番号だ。


「……あ!」

 俺は急いで暗号を見返す。

「これは『く』じゃないんだ!」


「え、どういうこと?」

「この『く』は、『11 21』を『k u』に置き換えた結果生まれたんだ。でも、ここだけは最初から暗号じゃなかった。そのまま『1121』と読めばよかったんだ」


 だから、正確にはこうなるのだ。


図③(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927859813152508


 『コインロッカー1121』――千百二十一番目のコインロッカーということだろう。

 ローマ字を数字に置き換えた暗号なのに、元の文にも数字を仕込むという嫌がらせ。全力でこちらの気勢をそごうとしている。


「あ、あいつ、しょうもないことをしてくるのね……」

 さしもの朝霧も苦笑いをしている。


「ここまでわかったのはいいけど、そもそも完成した文章も途切れてない? 『暗証番号は』の先は?」

「それは……わからない。暗号文はここまでだったし」


 だが、次の目的地は判明した。

「とりあえず行ってみよう、皆原駅に」


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