10 最後のミステリー


 地方都市の中核を成す皆原駅は、一日に十万人近くが利用する巨大な駅だ。帰宅ラッシュのため、人通りが多い。

 足早に歩く人の合間を縫って、俺と朝霧は南口を目指す。


 コインロッカーに書かれた数字を辿っていくと、『コインロッカー1121』は比較的すぐに見つかった。

 四ケタのダイヤル錠で頑丈に閉じられている。


 一般的に、コインロッカーの利用期限は三日までとされている。朝霧と安曇大学の正門で出会った日を思い出すと、とっくに過ぎていそうだが。さすがに秋萩が何らかの対処をしているだろう。秋萩探しの期限自体は一ヶ月あるらしいし、それより前に謎が解けなくなったら、そもそも勝負が成立しない。


 つまり、最大三日間ここに張り付けば、秋萩か、あるいは荷物を回収するためにやってきた駅員を察知することができる。原始的な手段だが、これで謎は解けなくもない。


「ど、どうする? 四ケタなら、最悪全部試せば……」

 朝霧は固唾を呑む。

 一万通り総当りするのは、なかなかぞっとしない。休みなく頑張っても、半日以上かかる。


 俺は、試しにダイヤルを操作して「2159」に合わせてみる。すると、鍵は開いた。

「ええっ、どうやったの!?」


「ああ、『月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを こよひしりぬる』は、玉葉和歌集の二一五九番目だから」

 歌番号にずれが生じることもあって、二一五一の可能性などもあったが、それくらいだったら簡単に試せる。試行錯誤の内にも入らない。

「す、すごいわね……」


 中に入っていたのは、一枚のカードだった。最早お馴染みと言ってもいい。

 だが、これまでのものとは違う。

 表面に皆原グランドホテルと書いてあったのだ。


「これは……」

 十中八九ホテルのカードキーだろう。触れてみると、特有の厚みと硬さがある。

 暗号のようなまどろっこしいものではない。直接正解につながるカード。


「…………」

 朝霧は、じっとカードキーを見ていた。

 恐らくは自分の弟に辿り着くであろう、鍵を。


 なぜだろう。その表情に翳りが見えたのは。

 彼女は喜んでいなかった。むしろ、どこか沈痛な面持ちだった。まるで、来てはならないときが来てしまったかのような。


 もしかして――もしかして、この謎を解くことは、朝霧にとって望むべき事態ではないのだろうか。むしろ、解いてはならなかったのかもしれない。


 ……いや、秋萩に辿り着くことは、朝霧が望んでいたことだ。そうでなかったら、手伝っていない。


「どうする? 今からこの場所に行くか?」

「いえ、制服から着替えたいし、今日は疲れたわ。明日でもいい?」

「いいけど……明日は大学が六限まであるから、それからになっちゃうけど大丈夫か?」

「大丈夫よ。来てくれるとありがたい。あいつのことだから、そのカードキーの先にもまた何か謎を用意しているかもしれないし」

「そうだな……」




 ▶ ▶




 朝霧と別れた後、俺はちょうど駅に来ていたのをいいことに、駅近辺の時計屋に向かった。止まった時計を見てもらったが、原因がわからないらしい。とりあえず預けて、調べてもらうことにした。


 それから、大学の駐輪場へ自転車を取りに行こうとしたとき。

 突然だった。

 俺の鞄のポケットから、耳をつんざくようなアラート音がしたのだ。


 慌ててポケットを探ると、ポケベル――尾上からもらった、緊急事態を知らせる機械が鳴っている。

 そういえば尾上の奴が念のため引き続き持っておけと言っていたんだった。


 でも、どうして今なんだ?

 これは、連続失踪事件の犯人に出くわしたときに使う手筈になっていた。

 犯人は捕まえただろ?

 もう危険は去ったのに。


 すぐさま手に取ると、液晶に地図が映し出されている。

 そして、その一点を指すポイントの上には、『A』の文字が表示されていた。

 これは、朝霧からのSOS――


 俺は風を切って走り出す。

 朝霧の居場所は、それほど遠いわけではないが、近いわけでもない。誰かが朝霧を消そうとしているのなら――朝霧に触れるだけなら、ゆうに可能な時間があるだろう。

 自転車さえあればもっと早く向かえたが、もちろん取りに行っている余裕はない。


「頼む、間に合ってくれ――」




 ▶ ▶




 既に日は沈んでいた。

 世界から太陽が消え、人工の光だけが頼りとなる。だが、それも裏路地には届かない。だから、あるのは暗闇ばかりだ。


 まるで絶望が広がっているようだ、と思った。

 いや、真の絶望はもっと暗い。全ての境目がわからなくなるほどの黒色だ。

 だけど、俺には絶望に見えた。


 地図上の『A』を目指して、俺はひたすら駆けた。

 大学に入ってから運動なんて長らくしていなかったせいで、全力疾走に身体が耐えきれない。

 心臓が苦しい。張り裂けそうだ。

「はぁ、はぁ……っ」


 人通りのない小道。『A』のポイント。朝霧は、そこに倒れ込んでいた。

「あ、朝霧!?」

「……鴇野」


 彼女は無事だった。辺りにラネットが広がっているわけでもない。

 だが、憔悴しきった顔をしていた。明らかに只事ではない。


「犯人は、まだ残ってたみたい。あなたから借りたこれ﹅﹅のおかげで、なんとか防げたけど……」

 朝霧は自分の首元にある紐を指し示す。竹紐の首飾り。黒闇天の如意宝珠。

 そうか、それを渡していたんだった。


「無事で、本当によかった」

「ふふ、ありがとう。この首飾りもそうだけど、すぐに駆けつけてくれて」

「ポケベルを鳴らしてくれただろ? そりゃ、急いで駆けつけるよ」


 俺は、一番気になっていた疑問を尋ねる。

「……誰にやられたんだ?」

 目の前の女性は、唇を噛んだ。口に出すことすら厭うように。


「かわいい女の子、だったわ」

 かわいい、女の子。

 その言葉に、なぜだか背中に嫌な汗が流れる。


「背は低くて、黒い髪で、ショートカットだった」

「え……?」

 俺の頭には、ひとりの人間の名前が浮かぶ。


 韮沢瀬名。

 俺の、後輩。


「すごく、恐ろしかったわ。あんな人間がいるなんて信じられない……」

 朝霧は青ざめた顔のまま口を動かす。


「まだ中学生くらいなのに、何の表情も浮かべずに、何の言葉も発さずに、ただあたしを殺そうとしてきたわ。消せないとわかったらスタンガンを取り出してきたし、それがダメならまた別の武器を、そしてまた別のをただ淡々と。機械的に、仕留めて来ようとした。一切の躊躇も抵抗もなく。研究者がモルモットに対する負荷を徐々に高めていくように」


 いつか、夜臼坂学園で見た瀬名の姿が頭に浮かぶ。

 表情が全て剥がれ落ちた顔を。


「あたしにはあれが人間だとは思えないわ。黒闇天の信奉者の方がまだマシなくらい。だって、彼女からは何も感じられなかったもの。人間味が、まるでない。プログラムされた何かの人形のよう。どこを見ているのかもわからない。言葉が通じるとも思えない。明らかに人間とは別種の存在。相対していて、震え上がったわ」


 自分が今、誰の話を聞いているのかわからなかった。

 当然だ。見ず知らずの犯人なのだから。


「どうにかしてその子に組み付いて技をかけたんだけど、彼女、肩を脱臼させてまで逃げ出して……それで、どこかに行っちゃったの。それからあなたが来て、今の通りよ」

「だ、脱臼……?」

 なんだそれは。明らかに尋常じゃない。


「そういえば、犯人が逃げる前に、突然その子の携帯電話が鳴ったのよ。そうしたら彼女、急に立ち止まって……そこをあたしが組み付いたんだけど」

「そ、そうか……」


「もしもそれらしい女の子に出会ったら、気を付けてね」

「……ああ」


 そんなのが瀬名であるはずがない。

 きっと気のせいだ。

 俺の携帯電話には瀬名の写真もいくらか入っているが、わざわざそれを見せて確認するまでもない。


「……あのさ、朝霧、実は、ちょっと言いづらいことがあるんだ」

 俺は口を開いた。こうするしかないと思った。

「何、どうしたの?」


「その少女の特徴なんだけど……尾上の姪に似てる気がするんだ」

「え?」

「でも、だからこそ、この後ポケベルのアラートで尾上も来ると思うんだけど……この情報は伏せておかないか?」


 尾上は瀬名と直接会ったことがある。朝霧の目撃情報を伝えたら、瀬名が犯人などという間違った考えに辿り着くかもしれない。そんな事態は、避けられるのなら避けるべきだ。


「もし本当に尾上の姪だったら、尾上本人に伝えたら握りつぶされるかもしれない。さすがのあいつだって、身内の犯行だと判明すれば、都合が悪くて隠したがるかもしれないだろ?」

「そ、そうかしら……確かに性格はよくないけど、犯人を捕まえることには真摯だったと思うわ」


「それが、わからないんだ。最悪、俺たちの口まで塞がれるかもしれない。だから、今見た少女の情報は隠そう。ポケベルのボタンを間違えて押してしまったとでも言えばいいんだ」

「そんなこと……」

「正しい情報に関しては、後で俺から民俗学研究会の人に伝えておくから。信頼できそうな人を探すよ。とりあえず、今あいつに言うのは危険だ」


 朝霧は戸惑ったように頷く。

「そ、そう……鴇野がそう言うなら……」


 正直に言ってしまえば、俺の言葉に真実は一片たりとも含まれていなかった。以前尾上から聞いた情報を繋ぎ合わせて、それらしいことをでっち上げただけだ。

 こんなこと、すべきではなかった。


 瀬名が犯人であるかどうかは、後で確かめることができる。家に帰って、彼女の様子を見てみればいい。不審な要素があれば、それくらいわからないはずがないのだから。


 その後、尾上がやってきた。

 彼は白衣を纏ったままママチャリを漕いでいた。相当急いでいたことが伺える。


 俺たちは事前の手筈通り、ポケベルは押し間違いだったことを伝えた。

 朝霧は気まずそうな顔をしていたが、間違えてボタンを押したときでもこういう顔はするだろう。

 最後に、用心して彼女を滞在する宿泊施設に送り、帰路に就いた。




 ▶ ▶




「先輩、おかえりなさい」

 家に着くなり、瀬名はいつものように微笑む。部屋着の長いワンピースに、エプロンを着ていた。

「……ただいま」

 普段と何も変わらないやり取り。


 先程のことについて、訊こうかと一瞬躊躇った。あの時間、どこにいたのかと。

 しかし、そんなことに一体何の意味があるのだろうか。


「ごはん、もう少しで出来ますからね」

 彼女が用意しているのは。仕込みが必要な料理だ。ほんの数十分で用意できるものじゃない。


 犯人がどちらの肩を脱臼したのかは不明だが、瀬名の様子を見るに、特に異常はない。ふつうに料理している。


 瀬名はそもそも朝霧の顔も知らないし、ラネットについても何も知らない。それに、朝霧を襲う動機がない。彼女が黒闇天の信奉者であったなんてそんな無茶苦茶な話、あるわけないだろう。


 黒髪ショートカットで少女なんて街にはいくらでもいるし、朝霧が白い花の髪飾りの話をしなかったということは、彼女﹅﹅はそれを着けていなかったということで、それはすなわち瀬名ではないことを意味する。


「瀬名、手は大丈夫か?」

「ふふ、大丈夫ですよ。言われた通り病院にも行きました。ほら」

 彼女は左手を見せてくる。そこには、看護師の処置と思しき包帯が几帳面に巻かれていた。


 そもそも、瀬名は昨日左手を怪我したばかりなのだ。

 誰かを襲いに行くはずがない。


 だから、韮沢瀬名が犯人であるなんて、あり得なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る