6 普遍的な絶望




 いつものように、俺と朝霧は落ち合う。彼女の恰好は、普段通りの私服だった。

 今日は夜臼坂学園には行かない。これ以上ヒントがなさそうだから、というのが一番の理由だが。


「さすがに毎日行くと目立つもの」

「そうだな……」

 特に、朝霧は目を惹きそうだ。


「また喫茶店で暗号とにらめっこしましょうか」

「そうだな、実は昨日、瀬名に暗号を解いてもらって、進展があったんだ」

「まぁ! すごく聡明な子ね」


「ああ、紙を見せたらするする解いていって、驚いたよ。これまでの暗号でも、瀬名に出してもらったヒントに助けられたし」

「ふふ、あたしからもお礼を言わないといけないわね。いつもありがとうって」


 瀬名が賞賛されていると、こっちまでうれしくなってくる。俺が何かしたわけでもないが、瀬名はすごいのだと胸を張りたくなる。


 俺たちは、喫茶店に向かって並んで歩く。

 その道すがら、スモックを着た幼稚園児の女の子が、道の端にぽつんと立っていた。なんとなくそれが目につく。


 周りに誰かがいるわけでもなく、その園児もどこかに向かおうとしているわけではない。ただ立ち尽くして、うつむいている。

 しかも、今は平日の昼間だ。明らかに心配になる様子だった。


 朝霧は、迷わずその子に近づいていく。

「ねえ、どうしたの? 迷子?」

「…………」

 小さな子どもは、黙り込んでいる。


 若菖蒲の髪色の女性は、しゃがみ込むと園児に目線を合わせる。

「どうしたの? なんでもいいから、お姉さんに話してみてくれないかな」


 その子どもは、少し赤みがかった髪を右耳の辺りで一つ結びにしていた。

 近くで顔を見ると、そのあどけない顔にはどこか憔悴の色が滲んでいる。園児服には名札がついていて、そこから「あえか」という名前なのだと分かった。


「あえかちゃん、この近くの幼稚園の子?」

 そう訊いてみても、やはり返事はない。

 一体どうしたものか。


 俺と朝霧が考えあぐねていると、ぺこーと、目の前の女の子の小さなおなかが鳴った。




 ▶ ▶




 テーブルに、ハンバーグやオムライスが並べられる。

 場所は近くのファミレス。ボックス席の片方に俺と朝霧、向かい側にあえかちゃんが座っている。


 この子が何も言わないので、とりあえず子どもが好きそうなものを頼んでみたのだが……。

「いらない」

 けんもほろろな言葉しか返ってこない。


「どうして? おなかぺこぺこなのを我慢するのは、身体によくないのよ」

「しってる」

「じゃあ、なんで……」


「飢え死にするから」

 園児の口から発せられたのは、全く予想していない言葉だった。


「う、飢え死にって……死んでしまうんだぞ?」

 俺の言葉に、小さな子どもは頷く。

「うん、死ぬの」


 こんな幼い少女が、自ら死のうとしている。

 そのために、何も食べまいとしているのか?


「何か嫌なことでもあったの?」

「ううん。あえかは死なないといけないの」

 死なないと、いけない。随分穏やかではないワードだ。


「どうして? 死なないといけない人なんてそうそういないわ」

「…………」

 朝霧の言葉に、あえかちゃんは押し黙る。いくばくかの時間を置いて、口を開いた。


「こないだ、パパとママとお別れしたの。それで、お兄ちゃんがあえかのよーいくしゃになってくれたの」

「そ、そうなの……」

 お別れ。それは恐らく、永遠の別れなのだろう。そうでもなければ、兄が養育者になるのはあまり考えられない。


「でも、お兄ちゃんはだいがくに行ってて、お金がいっぱいかかるんだって。おじさんとおばさんが言ってた。あえかのためにだいがくをやめるかもしれないって。すごくかわいそうだって」

 両親を失った兄妹の生活。想像するまでもなく、楽なものではない。


「よーいくしゃになったお兄ちゃんは、あえかのためにおしごとするんだって。すごく大変だって、かわいそうだって、おじさんとおばさんが言ってた」

「そ、そんなことが……」


 なんとなく、彼女の言葉からは親戚の物言いが相当よろしくなかったことが伝わってくる。

 大方、幼稚園児の横で、人の家庭事情についてずけずけと話していたのだろう。同情する口ぶりなのに、そのくせ具体的な援助は一切せずに憐れむだけで。


「お兄ちゃんに言ったの。あえか、施設に行きたいって。そうすればお兄ちゃんが楽になるって、おじさんとおばさんが言ってたから。でも、お兄ちゃんはダメだって」


 施設に……。

 幼い妹にそう言われたときの兄の顔が想像できる。


 たぶん、彼女は大学のことも、仕事のことも、施設のことも、まだよく知らないだろう。

 それでも、話している人間の声色や表情から、ニュアンスを読み取ることはできる。だからこそ、こんなに真剣に悩んでいる。


「だから、あえかはいなくなるの。飢え死にするの」

 小さな手が、真っ黒に染まっている。


 自分の《時間》を止めた色。

 ラネット。

 ああ、これが絶望なのか、と思った。こんな小さな子が、絶望に瀕している。


 彼女は、自分なりにたくさん考えたのだ。どうすれば兄の負担にならずに済むのか。何をするのが一番なのか。その結論が、自らの死だった。

 餓死という方法を選んだのも、彼女にとってぱっと思いつく死が、それだったのだ。

 極端な思考だが、幼さゆえだと一蹴することはできなかった。


 こんな小さな子どもが、一体どれだけ親戚の話に傷つけられてきたのだろう。必要のない言葉を浴びせられて、自分から施設に行くことを、死を望むようになってしまうなんて。


 朝霧は、苦々しい顔をしている。この子になんて声を掛けるべきか、分からないようだった。

 やがて、重々しく口を開く。


「あえかちゃんは、もしお兄ちゃんがいなくなったら、どう思う?」

 それは、落ち着いた声だった。園児は、無邪気に即答する。

「やだ。いなくなってほしくない」


「お父さんとお母さんとお別れして、あえかちゃんまでいなくなっちゃったら、お兄さん、きっと悲しむわ」

「…………」

 小さな子どもは、俯く。そこまで考えていなかったらしい。


 あえかちゃんはきっとお兄ちゃんのことが大好きなのだ。そんなふうに好かれる兄が、自分の妹が死を選んだら楽になったと喜ぶだろうか。

 むしろ反対だろう。 


「あえかちゃんは、いなくなるんじゃなくて、お兄ちゃんのお手伝いを頑張るのはどうだ?」

「おてつだい?」

 幼稚園児は、首を傾げてこちらを見る。


「お兄ちゃんを楽にしたいんだろ? それなら、食べ終わったお皿の片付けとか、掃除とか、そういうことをやったら、お兄ちゃん、すごく助かると思うよ」

 自分が負担になるんじゃないかと心配しているのなら、それを解消すればいい。何も死ぬことはないのだ。


「あえかちゃんがいなくなったときより、いるときの方がお兄ちゃんが幸せになれるように、頑張るんだ」

 努力の方向性なら、そっちの方がよほど健全だ。


 あえかちゃんも、理に適っていると感じたらしい。それまでの暗い表情が一気に変わる。

「あえか、がんばる。お兄ちゃんのおてつだい、する」

 素直ないい子だ。その素直さが裏目に出て、自死の考えに辿り着いてしまったが。健全な環境にいれば、きっと問題ないだろう。


「偉いわね! あえかちゃん」

 明るい朝霧の声。それは、多少無理して出している節もあったが、たちまち重い雰囲気がやわらぐ。


「それなら、まずはおなかいっぱいごはんを食べないとね。あえかちゃん、どっちが食べたい?」

「あえか、ハンバーグだいすき」

「そうなの。じゃあ、いっぱい食べなさい。お姉ちゃんが奢ってあげるから」

「ありがとう、お姉ちゃん」


 小さな子どもの手のひらからは、すっかり黒色が失われていた。

 よかった、と思った。

 人は誰しも固有の人生を持っていて、その全てが尊重されるべきだから。




 ▶ ▶




 幼稚園に連れていくと、慌てた保育士たちと、あえかちゃんのお兄さんが駆け寄ってきた。いつの間にか園から抜け出して、騒動になっていたらしい。

 ひとまず、迷子になっていたところを保護したとだけ伝えた。誘拐を疑われないか心配だったが、幸いそんな事態にはならなかった。


「えっと、あえかちゃんのお兄さんにお伝えしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 ほかの人間がいなくなったタイミングを見計らって、声を掛ける。


「なんですか?」

 あえかちゃんの兄は、ふつうの大学生といった装いだった。妹と同じ髪色をしていて、顔もどことなく似ている。


 俺たちは、彼に事情を伝える。多少オブラートに包もうかとも思ったが、下手に隠して大事につながったら大変だ。養育者にはきちんと話しておく必要があった。


「あいつ、そんなことを……」

 だいぶショックを受けている顔。やはり、自分の幼い妹が死を考えていた話なんて、平静ではいられないだろう。


「……両親は、先月事故に遭ったんです。それからずっとばたばたして、妹は親戚に預けてて……。妹の様子も気にかけるようにはしていましたが、まさかそこまで思い詰めていたとは……ありがとうございます」

 その言葉を聞いて、やはりあえかちゃんと話ができてよかったと実感し直す。


「親戚にも話していませんが、実は今にも切羽詰まっているような状況ではないんです。色々打つ手はありますし。きっと憶測が膨れ上がってしまったんでしょうね」

 噂話とは、そんなものだ。だが、それで小さな少女が苦しめられるのは惜しすぎる。


 お兄さんは、何度もこちらにお礼を言っていた。

 その様子を見ていると、この兄妹は大丈夫なのだという気がした。




 ▶ ▶




「今日は、あんまり暗号の話ができなかったな」

「仕方ないわ。迷子の幼稚園児の方が急務だし」

 俺たちは帰路に就いていた。


「鴇野、また明日」

「じゃあな」

 そう言って朝霧と別れようとしたとき。

 一匹の柴犬が寄ってきた。


「あ、翁丸」

 実家の近所のおばさんが飼っている犬だ。


「まぁ! なんてかわいい柴ちゃん!」

 朝霧が歓声を上げる。


 犬のリードの向こうには、やはり見覚えのあるおばさんの姿があった。

「まぁ孝ちゃん、美人さんを連れて歩いちゃって、色気付いたものね。士別れて三日ならばなんとやら、ね」

「お、おばさん……!」

 子どもの頃から知っている間柄だと、こんなふうに茶化されるから困ったものだ。


「あはは、彼にはとてもよくしてもらってて、いい友達ですよ」

 軽く会釈しながらも、朝霧の視線は柴犬に向いていた。


 翁丸は激しく尻尾を振りながら俺の足元にじゃれついてくる。撫でてやると、今度はごろんと転がっておなかを見せてきた。仕方ないので更に撫でる。


「まぁ、すっごく仲がいいのね」

「ほんと、飼い主より懐いてるんじゃないかしら。全く、浮気性な子なんだから」

 おばさんは楽しそうに話す。


「人懐っこいんだよ、翁丸は。警戒心っていうものがないんだ」

 とはいえ、こうして懐いてくれるのはかわいくてたまらなかった。


「あの、あたしも撫でていい?」

「どうぞどうぞ。この子は撫でられるのが大好きだから」

 飼い主の許可を得て、朝霧は喜色満面で翁丸に手を伸ばす。


 美人に撫でられて、心なしか翁丸の顔がいつも以上に緩んでいる。

 そうやって、しばらく犬と戯れていた。




 ▶ ▶




「先輩、おかえりなさい」

「ただいま」

 家に帰ると、料理は既に完成していた。

 瀬名と一緒に食事を摂る。


 夕食が終わり片付けを済ませると、花の髪飾りを着けた少女は、背筋をまっすぐにして、正座してちゃぶ台に向かう。

 頭が痛くなりそうな数学の問題を、やっているようだ。

 受験生だから仕方がないとはいえ、頑張りすぎではないかと思う。いつも全く休憩しているようには見えない。


 俺は彼女の小さな両肩に手を置いた。

「ひゃっ、せ、先輩?」

「瀬名、肩たたきするよ」


 彼女の肩はかちこちだった。どうにかほぐそうと、肩もみをする。

「すごい凝ってるな」

「もうっ、先輩ったら……いいですよ、別に」

 とはいえ、これでは腕を上げるだけで大変だろう。普段おくびにも出していないのが逆に驚きだ。


「あんまり根を詰めすぎるなよ? 瀬名はいつも頑張ってるんだから、少しくらい休んでも罰は当たらないよ」

 彼女の成績は学年一位を争うほどの域に達している。きっとそれは、こうした日々のたゆまぬ努力によって支えられているのだろうが。


 ゆっくり少しずつほぐしていくと、徐々に肩が柔らかくなる。

「ふふ、肩が軽くなりました。ありがとうございます」

「ちゃんと勉強と家事以外の時間も過ごしてくれよ?」


「心配してくれてうれしいです。でも、ちゃんと過ごしていますよ。ほら」

 瀬名が指差したのは、部屋の棚だった。

 見ると、また棚の上に花が増えている。だが今回は少し様子が違っていた。


 花がガラス瓶の中に封じられている。

 あれは確か、瀬名がベランダで育てていた水色の花だ。


「綺麗に咲いたので、残しておこうと思って。プリザーブドフラワーにして、ハーバリウムとして飾っておこうと思ったんです」

 ハーバリウム――植物標本。瓶に花を入れて専用のオイルで満たし、花を長持ちさせる方法。


 透明な細長いボトルの中に、水色の花と、黄色の花、緑の葉が浮かんでいる。色鮮やかで、涼しげだ。

「へえ……綺麗だな」

「こうしておけば、ずっと長持ちするんですよ」


 瀬名は立ち上がると、瓶に水色のリボンを結ぶ。

「直射日光に当てるとよくないので、窓から離れたところに置かないと」


 瀬名がこんなふうに手遊てすさびするなんて、初めて見た。そういえば、最近花をよく飾っていたし、好きなのだろうか。いつも勉強に家事ばかりでは息が詰まるし、いいことだ。


「幸せは、きっと空の色をしているんだと思います」

「空?」

「はい、澄み渡った空の青色。それが、幸せの色です」

 空色――それは、水色、だろう。だが、彼女から見ると違うのかもしれない。


「いいな、空色。瀬名に似合うと思うよ」

 そう言うと、彼女は輝くような笑顔を浮かべる。

「ふふ、ありがとうございます」

 やはりその表情が一番好きだ、と思った。

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