21 5分の2



 また朝がやってきた。


 ベージュの天井。

 カーテンでも遮ることのできない朝日が、部屋の中に差し込んでいる。

 先輩のアパートだった。


 わたしは身体を起こす。

 ここで目覚めるのは、もう何度目になるだろう。そんなくだらないこと、数えるのはやめてしまった。先輩の家に住み始めてから、もう一年が経とうとしているのだから。


 この1Kの家は、わたしが暮らしていた家の、わたしの部屋よりも小さくて窮屈だった。

 それに、限られた家具しか置いていない子ども部屋よりも、こちらは多くの家財やもので溢れているのだから、殊更に狭く感じる。


 傍らに目を遣ると、先輩はまだ眠っていた。苛立たしいほど無防備に。

 今だったら、彼のことを簡単に殺してしまえる。絞殺も刺殺も、なんだってできる。全てわたしの思い通りに、なる。


 だけど、そんな単純な殺し方では物足りない。どうせ苦しみは、一瞬かそこらしか続かないだろうし。

 彼に与えるべきなのは、永劫にも等しい苦痛だ。

 選択肢もない、終わりもない、逃げ場のない、苦しみ。それこそが先輩に相応しい。

 今わたしが、こうして先輩とくだらない時間を過ごしているのも、全てはそのためだ。


 彼の左手首に目を落とす。

 何もつけていない、まっさらな手首。

 先輩の腕時計はとっくの昔に処分した。もう二度と戻らないくらいに、壊した。


 それでいい。

 一生、そのままでいればいいんだ。

 幸せになることなんて、許さない。


 わたしは、先輩のことが大嫌いだから。

 これからも、二度と先輩が変な気を起こさないようにしないと……。




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 朝の身支度をするために、洗面台の前に立つ。

 鏡には見飽きた顔が映っている。


 自分の顔を直視するのが苦手だった。

 何の特徴もない平凡な顔で、暗くて、笑顔を浮かべるのが下手で、気が滅入るような顔。


 それに、背が低くてスタイルが悪い。どこへ行っても子どもに間違えられる。

 もっと容姿が整っていれば、何かが変わっていたのだろうか。そんなの、今更言ってもどうしようもないけど。


 自分を構成する要素で、好きなものなんて何ひとつなかった。


 わたしは、いつも通り花の髪飾りを着ける。先輩が、似合うと褒めてくれたもの。

 早く朝食を作ろう。




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 一日の授業を終え、わたしは夜臼坂学園を出る。

 真っ直ぐ帰りたいところだったが、そろそろ家に顔を出す頃合いだろう。


 わたしは今、対外的には一人暮らしをしているということになっている。

 住民票は、両親が用意した部屋に置いていた。


 元々暮らしていた白い家から出る際、分譲マンションの一室と、大学卒業まではゆうに暮らせるであろう額を与えられた。いや、なんだったら博士課程まで修めても不自由しない額だ。それが手切れ金らしい。


 住人は女性限定というマンションだ。

 エントランスは当然のようにオートロックつき。玄関の鍵にはサムターンカバーがつけられており、セキュリティは万全過ぎるほど整えられている。

 いかにもあの両親らしい、薄っぺらい考えだ。


 この厳重な警備は外敵を防ぐためのものじゃない。住民を閉じ込めるためのものだ。監獄と何一つ変わらない。

 まだ高校生なのに、こんな足枷のような部屋を与えてどうするのだろう。一生この皆原市で暮らせということだろうか。


 チラシやマンションの連絡事項で、ぱんぱんになっていた郵便受けを片付けて、部屋に入る。

 中には生ぬるい空気が停滞していた。

 とりあえず窓を開け、換気する。


 一々この部屋に寄るのも煩わしかったが、それでも定期的に足を運ぶ必要があった。

 とはいえ、わたしがここで過ごした時間なんてわずかなものに過ぎない。

 生活感が全くない部屋の様子が、それを嫌というほどはっきりと表していた。


 必要最低限だけ整えられた家具や生活必需品しか置かれておらず、それにも埃が積もっている。必要なものは全て先輩のアパートに持って行ったし、必要でないものはそもそも持っていない。

 郵便物も全て先輩の家に転送している。


 全くもって無意味な部屋だが、それでも必要だ。

 まさか男の家に入り浸っているなんて言うわけにもいかないし。


 ……もし、先輩と一緒に暮らしていることが両親に知られたら、どうなるのだろう。

 ないとは思うが、さすがに外聞が悪すぎるからと、何かしら介入してくるかもしれない。

 だが面倒になったら、あの人たちだって消してしまえばいいのだ。


 わたしの両親は、一体どんな顔をしていただろうか。

 ちっとも思い出せなかった。

 でも、どうだっていい、そんなこと。消すときに必要になるくらいだし、それだって、いざ目の前にすれば思い出せるだろう。


 スーパーに寄ってから、家に帰る。

 二階建てのアパート。もう見慣れてしまった。


 合鍵を差し込む。

 これは先輩からもらったものだ。


 そもそも県内の大学に進学したのに、彼が一人暮らしをしているのは、わたしが勧めたからにはほかならない。

 停学されて以来両親との関係が上手くいっていないようだったから、それなら自立も兼ねて一人暮らしすればいいと提案したのだ。


 それから、家に転がり込むのは簡単だった。

 同じ屋根の下で暮らすのは、色々と便利だ。如何様にも先輩を苦しめられる。こんなに素晴らしいことはない。


 先輩はまだ帰ってきていなかった。

 買ってきたものを冷蔵庫に移し、キッチンに立つ、


 わたしが先輩のために毎日食事を用意しているのは、別に先輩のためではない。

 こうすれば、先輩から外食する機会を奪えるからだ。特に、夕食。


 わたしが家で食事を作って待っていれば、律儀な先輩は外食なんてしてこない。ほかの誰かと親交を深めることも、その分減る。これは非常に重要だった。そのため、一日でも料理を欠かすことはできない。


 先輩は好き嫌いがないから、そういう意味では楽だった。とはいえときどきは彼の好物を作らないといけない。わたしが気の利かない人間だと思われるのも癪だし。

 今日は先輩の好きな牛すじの煮込みを作る。


 料理、特にお菓子作りは化学実験の要領で行うと捗った。温度、時間、量、組み合わせ。全て計算の上に成り立っている。それぞれの材料の性質を理解し、適した調理を加えていく。おいしさを引き立てるという一点に集中して。


 硬い牛すじをやわらかくするには時間がかかる。そのため、酵素を利用する。初歩的な手段だ。

 玉ねぎや料理酒と一緒に肉を一晩漬け込み、煮る。やわらかくなりすぎてすぐ煮崩れするので、細心の注意を払って。


 コラーゲンなどの栄養が溶け出した煮汁も無駄にはしない。きちんと灰汁や脂を取り、再利用する。

 味付けも様々な調整を経ている。


 大根、にんじんを加えた、牛すじの煮込み。

 仕上げに小口ねぎを散らして、完成だ。


 先輩が帰宅する時間に合わせて調理しているため、ちょうど完成した頃に先輩が帰ってくる。

 できたてを食べてもらえるという寸法だ。


「いかがですか? お味は」

 訊いてみると、先輩は笑顔を浮かべる。


「肉も野菜もやわらかいし味が染みてて、すごくおいしいよ」

「……そう、ですか」

 全く……先輩のことなんて大嫌いだ。


 受験が終わったら、栄養の勉強をするのも面白いかもしれない。各栄養素の一日の必要摂取量を満たすメニューを、毎日考えたい。

 それに、暇を見つけて、一日五十品目作ってみたい。毎日続けるのは大変だろうけど、でも、きっと先輩は喜ぶだろうから。




 � �




 家の中の先輩は、外と何ら変わらない。わたしに向ける表情も、声も。ただ、寝ぐせや気の抜けたあくびといったものを盗み見できるようになっただけ。

 1Kのこの部屋は、彼を盗み見ることに向いていた。顔を上げれば、いつでも姿が見える。


 この家に入り浸るようになった最初の頃は、こうはいかなかった。あの頃は――いや、もう昔の話だ。


 テレビを見ている先輩の姿を、注視する。

 彼がどんな人に目を留めるか。


 だけど、彼の好悪はつかめなかった。

 誰に対しても一定の態度を崩さない。等しく笑顔を向ける。


 彼は、誰かに対して特別な感情を抱いたりしないのだろうか。

 誰に対しても……本当に?

 こうして一緒に暮らしているのに、全くわからなかった。


「先輩は、どんな人を好ましいと思いますか?」

 それは何の含意もない質問だった。


 彼は少しわたしを見つめると、口を開く。

「黒髪のショートカットで、小柄で、真面目で頑張り屋で料理上手で家庭的で、花の髪飾りが似合う女の子かな」

「なるほど」


 黒髪ショートカット、小柄、花の髪飾り……外見的特徴はわたしと一致する。花の髪飾りは、いつか先輩が似合うって褒めてくれたし。あとは、もっと真面目に、家事を頑張らないと……。

 そう考えていると、先輩の視線に気づく。


「先輩? どうしたんですか?」

「いいや、なんでもない」

 彼は少し笑みを浮かべると、わたしの頭の上にぽんと手を置いた。本当にどうしたんだろう。


「瀬名は、どんな人が好きなんだ?」

「そうですね……」


 わたしは、どういう人が好きなんだろう。よくわからない。誰かを好きになったことなんてないし。

 しかし、この状況で言う台詞は決まっていた。


「もちろん、先輩ですよ?」

 当然こんな言葉は嘘である。必要だから言っただけだ。


「……瀬名は」

 先輩は、短く言葉を切った。

「俺のどこが好きなんだ?」


「え?」

 別に――先輩のことなんて好きじゃないけど。でも、強いて言うなら――

「全部、ですかね」


 わたしの答えを聞いた瞬間、彼はひどく冷たい顔をした。

「先輩……?」

 何か間違ったことを言ってしまったのだろうか。

 先輩はたまにこういう表情をして、そのたびにわたしは、何を言えばいいのかわからなくなる。


 だが、彼はすぐにいつも通りの表情に戻る。

「そうか、ありがとう」




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 先輩が寝入ったことを確認してから、わたしは身体を起こす。

 こうなると、朝まで起きないのは確認済みだ。


 いつからか、あまり眠らなくても平気になっていた。いや、そもそも長く眠ろうとしてもできないのだが。精々二、三時間で目が覚めてしまう。調子が悪いときは、数十分しか寝付けない。

 だけど、それで構わなかった。むしろ活用できる時間が増えるのだから。


 眠っている先輩を見るのは楽しい時間だった。とても無防備で、弱点を曝け出していて、簡単に殺せる気がするから。

 ほかの誰も見ていない。彼を見ているわたしを見ていない。


 先輩の胸には、大きな手術痕がある。幼い頃、心臓を患っていたらしいのだ。今はもうなんともなく、健康そのものらしいが。


 彼はあまり語らないが、きっと生死の境をさまようような経験だっただろう。わたしには、想像もできないくらい。

 その跡を見るたびに、触れるたびに、先輩の基盤に触れている気分になる。


 先輩の寝顔を見ることに満足すると、彼の携帯電話を取って、キッチンに入る。先輩の腕を取って、指紋認証のロックを解除しておくことも忘れない。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16816927860650095661


 床に座り込んで、シンクの下に背中を預ける。

 廊下は暗く、冷蔵庫の稼働音しか聞こえない。暗闇の中の木目に視線を向けてから、携帯電話に焦点を合わせる。


 念のため携帯電話のインターネット接続をあらかた切って、充電の減りで不審がられないようモバイルバッテリーとつないでから、メールやメッセージ、SNS等に全て目を通す。

 これは最早毎晩のルーチンワークとなっていた。


 先輩に隠し事なんてさせない。

 交友関係も余さず把握しておく。

 これで、不穏分子を早めに排除できる。


 他愛もない会話や、連絡事項の数々。

 相変わらず先輩の交友関係は広かった。

 ……この連絡帳にある人間が、全て消えてしまえばいいのに。そうすれば、どれだけ清々することだろう。


 そもそも、この外部と繋がる端末が邪魔だった。こんなものがあるから、家の中にいても先輩の意識が外に向いてしまうのだ。


 先輩にはそれと気づかれないようにしてあるが、この携帯電話にはGPSも仕込んである。これで、先輩の所在は常時わたしに筒抜けだ。


 それに、この携帯電話――先輩が一定以上の距離に近づけば、わたしの携帯電話が振動するように設定してある。

 これで、先輩に見られたくない場面を見られないようにできるわけだ。無論一緒にいるときは通知を切っているが、先輩が不審な行動をしたら、これですぐにわかる。


 念入りにチェックして、メモなども交えていたら、終わる頃には空が白んでくる。

 わたしは携帯電話を元の場所に戻すと、ベッドに身体を横たえる。

 先輩はやはり眠っていた。


 目を閉じて、先程仕入れた情報に思いを巡らせる。

 どうやって邪魔なものを排除しよう。邪魔なものは、全てなくなってしまえばいいんだ。


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