22 顔のない犠牲者
教師の声と、チョークが黒板を擦る音。退屈そうにあくびする生徒。
もう十二年目になる、お決まりの授業。
先輩は今頃何をしているのだろう。今は空きコマの時間帯だけど。
わたしは机の下でこっそり携帯電話を操作して、GPSで居場所を確認する。
地図上に表示されるポイントは、多少のずれこそあるものの、恐らく先輩行きつけの古書店を指していた。
先輩は本当にこのお店が好きだった。いつ見てもここにいるんじゃないかと思うくらいである。なんでも、もう絶版になっている古典文学書の品揃えが良く、いくら入り浸ってもまだ足りないらしい。
その熱中ぶりは度が過ぎているように思うけど、本にかかずらっている分には何も問題はない。店主だってちゃんと確認した。初老の、いかにも本の蒐集に熱を上げていそうな人だった。定年退職後、道楽で店を構えたタイプだろう。
先輩のほかには同年代の客もいないようだし、願わくば、ずっとこの店に興味を傾けていてほしいものだ。そうすれば面倒事が少なくて済む。
それにしても、古典文学というのはなかなか便利だった。
ネットオークションで高値がついている古書辺りを落札してプレゼントすれば、先輩は大学の講義に行くのが危うくなるほど読みふける。それでもわたしが声を掛ければちゃんと食事は摂るし。全く、どうしようもない人だった。ずっと家でそうしてくれればいいのに。
居場所を確認したら、すぐに携帯電話を仕舞う。
こうしてこまめに先輩の監視を行うことも肝要だった。
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「瀬名ちゃん?」
一緒に昼食を摂っているクラスメイトが、声を掛けてくる。
「箸、止まってるよ」
「ああ……すみません、ぼうっとしていました」
「もう、しっかりしてよ? それでね、昨日――」
彼女の話など、ほとんど耳を傾けていなかった。先輩を苦しめるためにある程度の人脈は持っていた方が役立つかと思って交友しているが、正直何の興味もない。
適当に相槌を打ちながら、わたしはごはんを食べる。
先輩のそれと寸分違わぬ弁当。おかずも、配置も、全て同じ。
先輩も今頃これを食べているのだろうか。
もしかしたら……他の誰かと?
そう考えると、すごく胸が苦しくなる。焦りと不安で、呼吸の仕方まで忘れてしまう。わたしはこんなことをしている場合じゃないのに。こんな、どうでもいい誰かと一緒にいる暇なんて。
……昔は彼と一緒に食事を摂ることなんてあまりなかったのに。それが当たり前だったのに。どうしてだろう。
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最近、先輩の大学で行方不明者が多発しているらしい。
一切痕跡を残さないまま、何人もの人が消えている。
行方不明。
思い当たる節があった。
もしかして、誰かがわたしと同じ方法で人を消している?
人を消す力の原理は不明だった。黒く消えたものが、どこに行くのかさえも。
とはいえ、神庭みたきは消えてから五年経っても全く姿を現さない。死んだと見て間違いないだろう。
彼女はこの力について知っているようだったし、ほかに知っている者が存在する可能性はある。わたしに害をなす存在でなければいいが……。
だけど。
もしかして、今なら邪魔な人間を殺せる?
木を隠すなら森の中。死体を隠すなら死体の山の中。
今なら、先輩と同じ大学に通う人間を一、二人消したところで、何も問題はない。先輩に怪しまれたりしない。
だったら――だったら。
消さないと。
邪魔で邪魔で仕方がない人たちを。
しかし、考えるべき事柄はそれだけではなかった。
先輩の大学に通う学生が狙われている……ということは、当然先輩も危ない。
彼がどこの誰だか分からない人間の手で簡単に消されてしまっては、全て水泡に帰してしまう。それだけは避けなくてはならない。
幸いなことに、わたしはそれを防ぐ術を持っていた。
「先輩、これあげます」
「え、なんだ? これ」
わたしは、先輩に首飾りを渡す。
竹紐につながれて、月長石に似た石が揺れている。昔、神庭みたきのいた蔵から持ってきたものだ。
これまで特に使い道もなく持て余していたが、やっと活かせるときが来た。
この石が、人を消す黒色を弾く効果を持っているのは、確認済みだ。身に着けている人間を、謎の殺人者から守ってくれることだろう。
「ふふ、お守りですよ。肌身離さず着けて、わたしだと思って大事にしてくださいね」
いつも通り笑顔を作ってみせると、先輩は笑顔を返す。
「ありがとう、大事にするよ」
これで先輩が最悪の結末を迎えることはないだろう。彼はわたしが殺さないといけないのだから。ほかの誰でもない、わたしの手によって。
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日が傾き、暗くなった街並み。
ひとりの女を、わたしは尾行していた。
先輩の同級生で、随分親しくしているらしい女。
名前も顔も、先輩の携帯電話から情報を入手したし、住所も後を追って突き止めた。
彼女は片手に持つ携帯電話に目を落としながら、歩いている。これは好都合だった。周囲になんて一切気を配っていない。
人通りのない道。誰も見ていない。
わたしは足早にその女に近づくと、そっと背中に触れた。
彼女がこちらに振り向くよりも先に、全身が真っ黒に染まる。
かしゃん、と。目の前の女が手を離した携帯電話が、アスファルトに落ちる音。
つい先程まで確かにいた存在は、消えてなくなっていた。
だって、邪魔で邪魔で仕方がなかったから。
久々に人を消したものの、とてもあっけない。人間とはこんなに簡単に塵にしてしまえるものなのか。
わたしは地面に落ちた携帯電話を拾い上げた。画面は人工の光を放っており、ちょうど誰かとメッセージを送り合っている最中だったらしい。
数分前には「ママ」という送信者から、「今日のごはんはハンバーグだよ」と書かれたメッセージが来ていた。未送信の入力欄には、「楽しみ� もうすぐ家に着くから」というテキストが残っている。彼女を消すまでにあと一秒でもあれば、これを送信していたのだろう。
彼女のために用意した食事の分はきっと無駄になった。だって彼女が家に帰ることは二度とないのだから。
だけどこんなやりとりなんて、どうだっていい。わざわざ送信ボタンを押す意味もない。
わたしはメッセージの一覧をスクロールして、目当てのものを見つける。
先輩の名前。
最新のやりとりはたった数時間前。
すぐにそれを開いた。
内容は講義に関する他愛もないもの。そろそろ小テストが来そうだとか、だったら一緒に対策しようだとか、明日大学の図書館でやろうとか、そんな会話。
「…………」
やっぱりこの女は邪魔だ。今日消すことができてよかった。間に合ったのだ。こんなくだらない約束、ダメになるべきなのだから。
わたしは携帯電話を握る手に力を込める。持ち主をなくした端末は、すぐに霧散した。
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帰宅して夕食の支度をしていると、先輩も帰ってくる。
彼は、鞄からお弁当箱を取り出す。
「今日の弁当、肉巻きおにぎりが入ってただろ? 味が染みててすごくおいしかったよ」
よかった……先輩、喜んでくれたんだ。
「瀬名」
先輩は、わたしの腕を取った。彼の大きな手は、細い腕などがっしり掴めてしまう。
「どうして髪飾りを着けてないんだ?」
髪飾り? あの花韮の髪飾りのことだろうか。
「あ……」
そういえば、あの女を消しに行くときに外してから、それきりだ。目立つ特徴は、問題になる可能性があるから。
「すみません、髪を整えるときに少し外していて。すぐに着けますね」
そう答えると、先輩は腕を離す。
「そうか。いや、ちょっと気になっただけなんだけど」
わたしは慌てて髪飾りを着ける。それを見た先輩は、微笑んだ。
「やっぱり似合ってるよ」
その言葉を、わたしは、うれしいと思った。
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今日も先輩が眠った後、彼の携帯電話を調べる。
連絡先として、様々な人間の名前がずらりと並んでいる。
ここに載っている人間全てを消してしまおうか。それはなかなかいい考えに思えた。きっと先輩はすごく悲しむだろうし、その分だけわたしの心は浮き立つ。
だけど、さすがにそれは露骨すぎる。やはり避けるべきだ。消すのは一際邪魔な人間だけに限らないと。
一体誰を消そう。
連絡先を上から下まで眺めながら、わたしはじっくり考える。
どれも邪魔だ。消してしまいたい。
先輩と親しい人間。小学校から大学まで先輩と同じ人間。履修している講義がよく先輩と被る人間。
どれにしよう。
一体誰を跡形もなく消してしまおう。
まるで、ケーキショップのメニューを見ている気分だった。
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わたしは行動した。
前々から邪魔だと思っていた人間を、ひとりずつ消していった。
人を消すのはあっけなさすぎるほどに簡単だった。何せ、触ればいいだけなのだから。誰もそれを警戒しないし、気づいたところでもう遅い。一瞬で終わる。
たとえば、人気のない道ですれ違ったとき、ほんの少し触れればそれで済むのだ。怪訝に思われる間もなく、相手は消える。
案の定、あの一連の行方不明事件に続くものだとして処理されているようだ。
最近街をパトロールする警官やPTAの姿が増えてきた。別に、大学生しか狙わないのに。周囲に目を光らせる児童交通誘導員を見ながら、わたしは思う。
だけど、それも大した問題にはならなかった。精々中学生に間違われて、早く帰宅するよう促される程度。誰も、わたしが手で触れただけで人間を消せるなんて思っていない。
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やりすぎてしまったかもしれない。
最初は本当に目障りな人間だけ消そうと思っていたのに、今では手当たり次第に消している。
でも、こんな機会はきっとなかなかないから。今の内に消しておかなければならない。邪魔な人間は、みんな。
邪魔な人間を消すたびに、わたしはどうしようもなく高揚していた。
確かな実感があった。
あたかもこうすればこうするほど先輩をわたしのものにできるような、そんな実感が。
実際はただ不穏分子を排除しているだけにすぎないけど、でも、きっとこういうたゆまぬ努力が、重要なはずだ。
その日も、先輩と夕食を摂っていると、テレビからは行方不明に関するニュースが流れ始める。
新たな失踪者として名前が挙げられていたのは、先日わたしが消した人間だった。
テレビを見る先輩の表情は、どこか悲しげだった。彼の知人なのだから、当然だ。
「……この人、俺の友達なんだ」
「へえ、そうなんですね」
そりゃ、先輩の友人だから消したのだが。
「ほかの友達も、もう何人もいなくなってて……見つかるといいんだけど。どうにかして手がかりをつかまないとな」
「先輩、まさか探すつもりなんですか?」
「ああ、みんな大事な友達だからな」
……そんな、演習で先輩と同じ発表の班になったからというだけの理由で消した女もいるのに、その程度の相手も大事だと言うのだろうか。どうせ探しても見つかりっこないのに。
「先輩、その、お願いですから危ないことには関わらないでください。先輩の身に何かあったら、わたし、耐えられませんから」
そう言うと先輩は、
「わかった。瀬名がそう言うならやめるよ」
よかった。消えた人間を探すなんて無意味なことに時間を割く必要はない。
彼にはそんなことをする必要などない。
「そういえば、今受けてる講義で――」
先輩は、大学であった出来事を話し始める。
演習の授業で発表を行っていた人の洞察力が鋭くて、目を瞠ったこと。
思わず講義の後に声を掛けたら、趣味が近くて意気投合したこと。
自分と同じく、研究の道を志していて、話していて色々と刺激を受けること。
どうして。わたしと一緒にいるのに、他の人の話をするのだろう。
そんなに楽しそうに。
先輩が他人の名前を呼ぶだけで、自分の中で暗い感情が煮えたぎって、抑えることだけで精いっぱいになる。
それとなく話題を変えてしまいたかったが、そのまま耳を傾ける。消してしまうために、必要だから。
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またひとり、邪魔な人間を消した。
闇に包まれた路地裏には、人の息吹が全くない。
先輩が話題に出した途端に消すなんて、露骨すぎるだろうか。
だけど、あんな人間、一刻も早く消さないといけなかったから。
「先輩……」
わたしは、大嫌いな人を呼んだ。
すると、不思議と高揚する。
もう先輩は、あの女を話題に出すことはないだろう。出すとしても、いなくなったことを惜しむ内容だけ。
未来永劫、戻ってくることはないのだから。
「先輩、先輩、先輩……」
噛み締めながら、わたしは帰途に就く。
邪魔な人間は、全て消してしまうべきだった。
必要ないのだから。
「もっと頑張らないと……」
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