23 ロータスイーター
夢の中で、わたしは先輩を殺していた。
すぐに、これは夢だと悟った。
手の感覚があった。身体が思い通りに動かせた。
わたしは包丁を持っていた。普段料理をしている際に使っている、至ってふつうの文化包丁。それが、柄まで真っ赤に染まっている。
場所は、いつも生活している狭いアパートの部屋の中。
足元には、先輩の死体が転がっている。何度も包丁を突き立てたせいで、穴だらけだ。
試しにその頬に触れてみる。先程息の根を止めたばかりだから、まだ暖かい。眠っているだけのようだ。
この死体は消さないでおこう、と思った。
そもそもそうするつもりなら、初めからそうしていた。こんなふうに部屋中に彼の血をぶち撒けたりしない。
だって、やっと先輩を死に至らしめたのだから、消すなんてもったいない。記念としてずっとずっと残しておこう。
生ぬるい血液の感触も、鉄の臭いも、鬱陶しくはなかった。
あまりにもリアルだ。道具も場所も、何もかもが現実の延長線上としか思えない。
ひょっとしたら、これは夢ではないのかもしれない。
わたしは、とうとう先輩を殺し得たのかもしれない。
それは、なんて素晴らしいことなのだろう。
これまで彼に対して抱いていた憎悪や殺意が急速に晴れる。
だって、死んでしまったら全てが終わりだ。これ以上何があるというのだろう? 先輩の未来も何もかも全て、わたしの手で絶やしたのだ。
いわば、先輩はわたしのものになったようなものだ。
とても気分が晴れやかだ。
なんだか先輩のことが愛おしくすら思えてくる。床の上の死体を抱きしめたいとすら感じた。
わたしは座り込むと、膝の上に先輩の頭を乗せる。
柔らかな髪。指を滑らせる。
なんて静かなのだろう。何も聞こえない。誰の心音も。
先輩はもう動かない。物言わぬ存在になり果てた。
ワンピースも、腕も、真っ赤な血でべとべとになってしまった。少ししたら、全て酸化し、黒く染まってしまうのだと思うと、無性に残念に思えた。
カーテンの隙間から、まばゆい朝日が差し込む。こんな清々しい気分で朝を迎えるのは久々だ。
だけど、これからはずっとこうだ。
ずっとずっと、先輩と――
そこで、目が覚めた。
さっきまで血まみれだった部屋には、一切その痕跡がない。
楽しい夢だった。とてもとても。
横では、いつも通り先輩が眠っている。
念のためその胸に手を当ててみる。当たり前だが鼓動があった。耳をすませば呼吸の音も聞こえる。
もう少し夢の中にいたかった。
まぁいいか。
夢の中でなら、先輩を何度でも殺せる。
わたしは身体を起こした。
あと少しで先輩は目を覚ますだろう。それまでに、朝食の支度をしなければいけない。
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夕方、洗濯物にアイロンを掛けていると、先輩は帰ってくる。
なぜだかじっとこちらを見てくるので、気になる。
「先輩? どうしたんですか?」
「あ、いいや、なんでもないよ」
一体どうしたんだろう。
「そうだ、瀬名は秋萩っていう男、聞いたことないか?」
「秋萩?」
先輩は、説明してくれる。朝霧という知り合いが、弟を探していると。
先輩の知人に、朝霧という名前の人間なんていないはずだが。毎日の地道な
だったらこれは、嘘?
いや、そもそもそんな嘘を吐く必要もないだろう。新しく誰かと知り合ったらしい。
またこの人は懲りもせず……。
邪魔な人間は早く消してしまわないといけない。
そう、いつものようにやるだけだ。
まずは先輩を尾行して、その女を突き止める。それから彼女の行動パターンを把握して、隙を見計らって近づく。幸いわたしの見た目だと、相手に警戒されることは全くない。不審がられないタイミングでその人に触れれば、終わりだ。目撃者に気を付ければいいだけ。難しいことなんてない。
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夜中、先輩の携帯電話を漁ってみたが、それらしき人間の連絡先は見当たらない。
朝霧なる人物とは連絡先を交換していないようだ。どうして?
まさか、わたしが毎晩盗み見ていることを感づいたのだろうか。いや、だとしたらもっと別の対策を講じているはずだ。ほかの人間とは変わらずやりとりを続けているのだし。
先輩は一体何をしている?
何をしようとしている?
それを把握できないのは、非常に問題だった。
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わたしは、夜の道を駆けていた。
邪魔な人間を消しに行っていたら、予想以上に時間がかかってしまった。早く家に帰って、夕食を作らないと。
慌てて玄関の扉を開けると、先輩は既にいた。
「先輩っ、遅くなって、ごめんなさい……っ」
「瀬名、おかえり。心配したんだぞ? 何か事件に巻き込まれたんじゃないかって」
心配? わたしを? そんな必要ないのに。
そうか、先輩はわたしの帰りが遅いと、心配してくれるんだ……。
夕食は、先輩が用意してくれたらしい。
おいしかったけど、家の仕事は全部わたしの仕事で、義務なのに。先輩にさせてしまうなんて、失格だ。
……こういうことは、今後ないようにしないと。
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キッチンで夕食の準備をしていても、まだ先輩は帰って来ない。
魚の小骨一本一本を丁寧に取り除きながら、わたしは先輩のことを考える。
今何をしているのだろう?
一体誰を見て、誰と話しているのだろう?
小骨を一本ずつ抜くごとに、自分の中で感情が沸騰していく。ふつふつと泡立って、自分自身を揺るがすようだった。
それに耐えられなくなって、携帯電話を操作して先輩の現在位置を確認する。
地図上のポインタが示しているのは――神庭みたきの家だった。
「…………」
どうして?
一体何のために?
あんな人間、とっくの昔に消したのに。蔵の中にあるものも全部消したのに。
先輩はもうあんな人間のことを考える必要は微塵もないし、ましてや家に行くなんて、そんなことをするべきではないのだった。
そう、あんな女のことはさっさと忘れて、早く家に帰ってくるべきだ。それ以外に何の必要があるというのだろう?
先輩は、調べている。現在の連続行方不明事件を。そして、過去の行方不明事件も。
――わかったよ。瀬名がそう言うならやめるよ。
そんな言葉が、何の意味も持たないことなど知っていた。
引き止める、わたしの言葉なんて。先輩の行動に何の影響も及ぼさない。
だから、わたしも行動するだけだ。
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夕方のスーパーは、だんだん人が増えていく。
必要なものは全て買った。早く立ち去ろう。
サッカー台に買い物かごを置き、わたしは携帯電話を取り出す。先輩は今何をしているのだろう。こまめにチェックしないと。
地図上のポイントは、茶屋を指し示していた。
……茶屋? どうして先輩が?
GPSの位置情報がずれているだけ? でも、正しい可能性もある。
もしかしてほかの誰かと――
そう考えると、いてもたってもいられなくなる。
先輩が誰かと軽食を摂るなんて……。
わたしの知らないところで、そんなことをしないでほしかった。
ただでさえ最近の先輩は、動きが怪しいのに。
この位置なら、買い物帰りに通りがかっても不自然ではない。
わたしは急いで袋に荷物を詰め込むと、スーパーを出た。
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物陰から、ひっそり茶屋の様子を窺う。幸か不幸か先輩は、店先の野点傘の下に座っていた。
もうひとり、白衣を着た男と一緒に団子を食べている。
誰だろう、あの男は。
知らない。
何やら真剣そうな顔で会話していた。
「先輩?」
話が途切れた瞬間を見計らって、彼らに話しかける。
さも偶然通りかかったふうに。
白衣の男も、こちらを見ていた。前髪が目にかかるほど、黒い髪を伸ばしている。見覚えのない顔。
なぜ白衣を着ているのか、不可解だった。
「先輩、この方は?」
「大学の同期だよ。尾上っていうんだ」
尾上?
そんな名前、先輩の携帯電話の連絡先にない。
どうして?
これでは、いつものように調べられない。
こんなことが、二回連続で起きるなんて。
「先輩、何の話をしていたんですか?」
「大学の話だよ。最近物騒だから」
「先輩、もしかして行方不明事件について調べているんですか?」
「ああ、ごめんな。心配掛けるようなことしちゃって。でも、もうそれはやめたから大丈夫だよ」
やめた、か。
それならいいけど。
あまり長居しても怪しまれるだけなので、すぐに立ち去る。
だが、胸中の不信は消えなかった。
どうしてなんだろう。
どうしてわたしに隠し事をするんだろう。
どうしてほかの人と仲良くするんだろう。
どうしてほかの人に笑い掛けるんだろう。
どうしてわたしから離れていこうとするんだろう。
許せない。
わたしは先輩のことが大嫌いだから。
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今日は七月十三日。先輩の誕生日だった。
しかも、二十歳を迎える特別な日。
あんな大嫌いな人のこと祝いたくもないけど、気の利かない人間だと思われたくないし、最低限の体裁は整えておかないといけない。去年はそんな雰囲気ではなかったからやらなかったけど、今年はきちんとやらないと。
そう、何があろうと先輩は家に帰ってくるのだから。
あのときみたいに心配する必要はない。
計画は随分前から練ってある。
プレゼントは腕時計。貯金の一部で購入した。
今日は早めに家に帰って、支度しないと。先輩が帰ってくるまでにはケーキが完成するだろう。これまで何度もこっそり練習していたし、スポンジやマルチパン等は既に完成している。
頭の中で計画を振り返りながら、通学路を歩く。
そうだ、先輩の居場所を確認するか。ポケットを探るものの、そこには何もなかった。
「あれ?」
携帯電話がない。
どうやら家に忘れてきたらしい。
まずい。誕生日の用意で頭がいっぱいだった。あの携帯電話には、先輩に見られてはいけないものが色々と入っている。
邪魔な人間のリストはもちろん、先輩に関する細かなメモ等も見られたくない。あんなの、ストーカーか何かだと思われてしまう。先輩の弱みを探る目的で、趣味嗜好や日々の行動を記録しているだけなのに。
特別な手段を使わない限りロックは突破できないだろうが、それでも非常にまずい。
わたしは急いで家に戻るが、誰もいなかった。先輩はもう出かけてしまったらしい。
部屋の中を探し回るが、携帯電話がない。どこにも。
もしかして、先輩が持っていったのだろうか。
先輩に連絡を……しまった、携帯電話がないのではそれもできない。
では、公衆電話から……? いや、あまりにも必死すぎる。そんなことをしたら怪しまれてしまいそうだ。気にし過ぎだろうか。
でも、先輩に怪しまれたら終わりだ。
不審がられる行動は取りたくない。
仕方なく再度学校に向かい、席につくものの、何も手に付かない。
携帯電話がないと、先輩のGPS情報も見られない。
先輩の居場所が確認できないのは、落ち着かなかった。
今先輩はどこにいる?
何をしている?
誰と一緒にいる?
わたしはずっとずっと先輩を見張っていないといけないのに。
携帯電話がないと。
先輩がどこかに行ってしまう。
「韮沢さん、大丈夫? 顔色が悪いよ?」
隣の席の生徒が、声を掛けてくる。
「……いえ、大丈夫です」
どうでもいい人間との会話を続けたくなくてそう言ったものの、すぐに考えを改める。
学校なんて早退して、すぐに先輩を大学まで探しに行こうか。
それはすごくいい考えのように思えた。
わたしは、先輩がいつ何の講義を受けているかも、どこの教室かも全て把握している。だけど、今は確か空きコマだったはずだ。GPSなしでキャンパスの中を探すのは骨が折れるだろう。
とはいえ、ここでこうしているよりもずっとよかった。
そうすれば先輩をずっとずっと見張っていられるし、何も問題はなかった。
午後は確か小テストがあったはずだけど、病気で早退して一回くらい休んだって大した問題にはならないだろう。
どうせ今日は元々準備のために早退する予定だったのだ。
授業が始まるが、内容に身が入るはずがなかった。
先輩の居場所がわからないなんて、左右もわからない暗闇の中に明かりなしで放り出されたようなものだ。
早く、先輩のもとに行かないと。
急がないと間に合わなくなってしまう。取り返しがつかなくなってしまう。
先輩、先輩、先輩……。
そればかりがぐるぐると頭の中を巡る。
……気持ちが悪い。
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どうにか一時間目の授業は耐えたものの、もう我慢できなかった。
早退しよう。それで、すぐに先輩を探しに行くんだ。
とりあえず保健室に行って、気分が悪いとでも言えば、帰してもらえるはずだ。幸か不幸か、わたしは周囲から見て体調が悪い様子らしいし。
保健室はユース棟にはない。隣の校舎に移らないと。
このわずかな距離を移動するだけで、永遠の時間のように感じられた。
わたしは早く先輩のところに行かないといけないのに。こんなことをしている場合じゃないのに。
わたしは、高等部棟の廊下で立ち止まる。
「先輩?」
一瞬幻覚でも見たのかと思った。そこには、いるはずのない姿があった。
� �
まさか先輩が夜臼坂学園に来ていたなんて。
無事彼から携帯電話を渡してもらえた。
わざわざ届けに来てくれるなんて……。
携帯電話を握りしめると、無機質なそれが熱を持っているような気がした。
先輩の位置情報を確認すると、確かに夜臼坂学園を指している。
……お祝いの準備、頑張らないと。
� �
先輩の誕生日のお祝いは、滞りなく上手く行った。
準備をしている最中、もしも先輩が帰ってこなかったらと心配だったけど、無事に帰ってきてくれたし。
夜中、先輩が寝入った後。
わたしは、彼が持ち帰ったプレゼントの数々をひとつずつ検めていく。
お菓子や、入浴剤など。大学の友人知人から色々と受け取っていた。
こんなもの、跡形も残らず全て消し去ってしまいたかった。だけど、今この状況でやったらさすがに怪しまれる。先輩に疑われることだけは避けなくてはならない。
だけど。
贈ってきた人間本人を消せば、何も問題はない。
そう、贈った人間を消せばもう二度と贈られてくることはないのだし、それが一番いい。
送り主の名前を全て把握する。消す順番の優先順位を上げるために。
幸か不幸か、先輩は携帯電話のメッセージで送り主それぞれにプレゼントのお礼を送っていた。
次は、誰を消そう。
誰が一番邪魔だろう。
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