24 もうひとつの瞳
時計の規則的な秒針の音が、部屋に響いていた。
わたしは英語の過去問に目を落とす。英語の文章が黒々と紙面を埋め尽くしている。
最近先輩の帰りが遅い。朝霧とかいう女と一緒に、行方不明者の行方を追っているらしい。そんなの探したって見つかるはずないのに、無駄なことに時間を使って……。
あの朝霧とかいう女がいなければ、先輩は今頃家にいて、わたしが作ったごはんを食べていただろうに。あの女さえいなければ。
やはりあの女は邪魔だ。一刻も早く消してしまわないといけない。
もしも、先輩がわたしのしたことを知ったら、どうしよう。
きっと先輩はわたしのことを見てくれなくなるだろう。
先輩は誰にでも優しいけど、わたしはその「誰にでも」から除外されてしまう。
だから、ほかの誰に知られても、先輩にだけは隠さないと。ううん、誰かに知られたら、きっといつか先輩にも伝わる。絶対に、誰にも知られてはいけない。
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その日は朝から学校を病欠ということにして、先輩を尾行する。
学業を疎かにするわけにはいかない。わたしは確実に先輩と同じ大学の、同じ学部に入らないといけないのだから。万が一にも落ちることは許されない。主席合格を目指す勢いでないと。
別々の学校に通っている今の不便さときたら。日中の行動を追うだけでこんなに骨を折る必要がある。
恰好は私服。地味で目立たないパーカーにジーンズ。先輩の前で一度も着たことのない服。
髪飾りは外し、伊達眼鏡を掛ける。帽子を目深に被って目立たないように細心の注意を払ってある。ふだんこういった系統の恰好はしないから、見られてもすぐにわたしだと気づかれることはないだろう。
もう尾行は慣れたものだった。先輩に気取られず、しかし見失いはしない適切な距離を維持する。彼の姿を見落としても、いざとなったらGPSがあるが、常に先輩が視界に入るこれぐらいの位置取りが、ベストであることに変わりはない。
見慣れた先輩の後ろ姿。それに歩調を合わせる。いつも一緒に歩いているときは、先輩はわたしの歩幅に合わせてくれる。だけど、今はそうではない。
彼の一歩一歩は大きくて、ペースが速くて、着いていくのは大変だけど。歩数を増やして追う。
少しずつ息が乱れる。パーカーのナイロン繊維の内側に熱が籠って、全身が夏の温度に
「先輩……」
そう呟いても、彼が振り返ってわたしを見ることはない。当たり前だ。この声が届くはずないし、届いてもいけない。でも、不思議と嫌な気はしなかった。何にも妨げられていないから。
こうして、先輩を見ながら先輩と一緒に歩く。
背筋を伸ばした歩き方。
端然とした佇まい。
風になびく先輩の髪。全てを瞳に焼き付ける。
その時間を裂く影。
派手な色の髪をなびかせているひとりの女性。先輩と同年代に見える。どうやら待ち合わせをしていたようで、会うなりふたりは会話を始める。
何の話をしているのだろう。
わたしは、先輩の鞄に縫い込んだ盗聴器の受信機に耳を傾ける。周りから見ればイヤホンで音楽を聞いているようにしか見えないだろう。
高性能なものを選んで使用しているが、さすがにいくらかノイズが混じる。
たとえどれだけ雑音だらけでもわかるであろう、先輩の声。
もう片方は――あの女。
やはりあの女が朝霧らしい。会話の内容で、確定させる。
すらりとした長身。自信に満ちた立ち振る舞い。端正な顔立ちの美人。きっと先輩より年上だろう。
わたしとはまるで違う。
やっぱり先輩はああいったタイプの方がいいのだろうか。ああいう人と一緒にいる方が、ずっとずっと楽しいのだろうか。だからこんなことに時間を割いているのだろうか。
先輩が楽しそうに笑うたびに、わたしはどうにかなってしまいそうになる。先輩の楽しそうにしているところなんて見たくない。わたしは先輩のことが大嫌いだから。
あんな表情、彼はわたしに向けるだろうか。いや、きっとそんなことはない。やっぱり彼女といる方が楽しいのだ。
先輩の関心はあの女に向けられていて、きっと今先輩の中にはわたしの存在なんて欠片も残っていないのだろう。先輩の中であの女の存在がどんどん大きくなって、いずれわたしと一緒にいるときですら、わたしに見向きもしなくなるだろう。
あんな女、一刻も早く消してしまいたい。
あの女さえいなければ――
「そうだな、実は昨日、瀬名に暗号を解いてもらって、進展があったんだ」
その言葉で、思わず固まる。
先輩がわたしの話をしている。わたしの、話を。
「ああ、紙を見せたらするする解いていって、驚いたよ。これまでの暗号でも、瀬名に出してもらったヒントに助けられたし」
「…………」
先輩なんて大嫌いだ。
先輩なんて、先輩なんて。
こんなに大嫌いな人、ほかに存在しない。
彼らは道端で迷子に出会い、ファミレスに入っていく。さすがに店内にまでついていくと気づかれる可能性がある。わたしは店の外、少し離れた場所で立ち止まると、盗聴器に耳を傾ける。
声は聞こえてくるが、先輩の姿を実際に確認できないと落ち着かなかった。今度からは盗聴器だけではなく隠しカメラも仕込むべきだろうか。
いや、先輩が身に着けているものにカメラを仕掛けても、先輩が映るようにするのは難しい。
「ううん。あえかは死なないといけないの」
幼い声が話している内容に興味はなかった。
要領を得ないことをずっと言っているが、何か困っていることは伝わってくる。そして、先輩が心配している様子も。
また人助けなんてしているのか。何の関わりもない、通りすがりの人間なんてどうだっていいだろうに。
先輩はこんなふうに誰にでも優しくて、誰にでも手を差し伸べる。
だから、彼に親切にされたからといって、そこに好意を感じるのは間違っていた。
もしもわたしが優秀だったら、先輩はわたしを好きになってくれたのだろうか?
こんなことをする必要なんてなかったのだろうか?
だけど、そんなものは無意味な仮定だった。
そんな世界は存在し得ないのだから。
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迷子を送り届けて、彼らは家路に就く。
「じゃああたし、ホテルに帰るから」
朝霧の言葉。
ホテルに帰る? あの女は旅行者なのか?
またぞろ大学の知人だと思っていたのに。
あの大学の関係者でなければ、あの女を殺せない。だって、今行方不明になっているのは、安曇大学の学生だけだからだ。その法則は、絶対だ。
でも、いいか。
既に行方不明者が多発するこの街で、旅行者ひとり消えてなくなったところで、何の問題があるだろう。既定のパターンを破ってでも殺す必要が、あの女にはあるのだ。
あの女……先輩と同じ大学ですらないのに、どうして一緒にいるんだろう。一体、何の資格があって。
許せない。あんな人間がいるからいけないんだ。あの女さえいなければ何も問題はないのに。
朝霧の方を尾行して、彼女が由緒あるホテルに入っていくのを見届ける。
逗留先はつかめた。これで帰り道に襲える。
先輩は大学の駐輪場に寄ってから家に帰るだろうから、その時間を利用すれば先に家に着くことができる。
既に夕食の下ごしらえはある程度済ませてあるし、決してわたしが尾行していたことには気づかれないだろう。
最短ルートを選んで帰宅したわたしは、エプロンを身に着けて料理に取りかかる。
先輩の所在を確認すると、案の定まだ大学からの帰途にあった。
携帯が振動する。先輩が近くに来ている証拠。
わたしは通知を切ると、料理の仕上げに入った。
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夜道を、街灯が照らし出している。
今日は先輩とお祭りに来ていた。名残惜しいけど、もう家に帰る時間だ。
わたあめも、りんご飴も、おいしかった。
来年も一緒に来られるだろうか。
そう思って、さりげなく横の先輩を見上げる。
先輩は笑いかけてくれる。
「…………」
なんだか恥ずかしくなって、わたしは目を逸らす。
先輩は、また一緒に来てくれると約束してくれた。来年も、再来年も、その来年も。
ずっと、一緒に、いてくれる。
――もちろん――というか、来年と言わず、毎年来てもいいくらいだよ。
小指に残る感触。
先輩は約束してくれた。わたしとずっと一緒にいてくれるって。
先輩と、ずっと一緒に――くだらない。でも、もしそれが本当だったら、悪くないと思う。だって、わたしはずっと先輩を苦しめないといけないのだから。そう、ずっと。
左手は、先輩としっかり手を繋いでいた。
もう夜が更けても、別れる必要はない。同じ家に帰るのだから。
一緒に。
明日も明後日も、ずっとずっと永遠に。
そう、約束してくれたから。指切りまでして。
急に、明日が来るのが楽しみになってくる。
来年が、再来年が、楽しみになってくる。
こんなことは初めてだった。今のまま時間が止まってしまえばいいのに、と思ったことは何度もあるけど。
早くまた夏祭りに来たい。
こんなの、いくらなんでも気が早すぎる。
だけど、今はそう思えてならなかった。
だって、先輩はずっとずっと一緒にいてくれるから。
もしかしたら、わたしはもうあんなことをしなくても――
「――――」
突然。
先輩に手を振りほどかれた。
わたしの左手は空を切る。
駆け出していく先輩。
遠ざかる背中。
それは何回も何十回も何百回も何千回も嫌になるくらい見たもので。
もう見たくなかったのに。
どうしてだろう。
ずっと一緒にいてくれるって約束してくれたのに。
身体中から力が抜けていく。崩れ落ちそうになって、辛うじて食い止める。
鼓動が急激に早くなって、痛いくらいだった。
わたしは、どうしてここにいるんだろう。
どうして浴衣なんて着ているんだろう。
今日のために散々迷って選んで、髪型も、アクセサリーも、慎重に考えて、着飾って。
バカみたいだった。
先輩に見てもらえないのに。
こうして置いていかれるのに。
自分を構成するもの全てが無意味だった。
先輩は、電柱につながれた柴犬に駆け寄っていた。
犬?
ああ、そうか。
そのときようやく理解できた。
その犬のところに行くために、わたしの手を振りほどいたんだ。
犬は、先輩と旧知の仲らしい。随分なついているようだ。
先輩の目は、その犬にだけ向けられている。
先輩の笑顔は、その犬だけに向けられている。
「……うそつき」
わたしは、仕方なく先輩に近づいていく。
こんなふうに優先順位を突き付けられたくない。視界の外に置かれたくない。もうこんな気持ちになりたくない。
わたしはただ――
どうすればいいんだろう。
こんなものさえいなければ、先輩はわたしとずっと一緒にいてくれたのに。こんな気持ちにならずに済んだのに。
こんなものさえ、いなければ。
みんなみんな消さないと。
そうしないと先輩はわたしとずっと一緒にいてくれない。
まだ足りない。
もっともっと、邪魔なものはみんな消してしまわないと。
そうすれば何も問題はないんだから。
「お知り合いですか? かわいらしい犬ですね」
発した声は、いつも通りだった。
大丈夫。何も問題はない。
「こいつの母親の代からの長い付き合いなんだよ」
先輩はそう言って、犬を撫でる。のんきな顔をしたこの動物が、忌々しくてたまらなかった。
どうして存在しているんだろう。
どうして邪魔をするんだろう。
こんなもの、存在していてはいけないのに。
「ふふ、仲がいいんですね」
わたしは、手を伸ばす。
憎くて仕方がない存在へ。
その瞬間、痛みが走った。
指から血が滴り落ちる。
赤い、と思った。
それは当たり前のことではあったけど。
なんて鮮やかな色なんだろう。
どうせすぐに黒く酸化してしまうのに。
低く唸る犬の声。むき出しの警戒心。
今この犬に、手を噛まれた――
殺意を気取られてしまったのだと、悟った。
だけど、先輩の目の前で消したりなんてするはずがないだろう。やるとすれば後日人目につかないところで消す。それなのにこの犬と来たら……。
いや、それともまさか、わたしは本当にこの犬を消そうとしていたのだろうか? こんなところで?
そんなはずはない。
だって、わたしが触れた途端に犬が消えれば、さすがの先輩もわたしを怪しむことだろう。ごまかしようがない。
先輩に露見しないこと。それが、たったひとつの制約。
だから、ここで消すはずがない。
「瀬名、大丈夫か!?」
先輩は、わたしの傷を見て随分慌てる。
「は、早く消毒しないと……! ごめん、瀬名、ちょっと待っててくれ。コンビニ行ってくる」
別に、こんな傷どうだっていいのに。応急処置なら家に帰ってから行えばいい。明日空いた時間にでも、外科で診てもらえばそれで済む。
消毒液等を買ってきた先輩は、慎重にわたしの左手を取ると、丁寧に応急処置を施す。そのまなざしは、真剣そのものだった。
「染みるか?」
「大丈夫です」
先輩がわたしのことを見てくれている。わたしのことを心配してくれている。
うれしい、と思ってしまった。
わたしの腕が折れて、脚がねじれて、もっとぼろぼろになったら。先輩はわたしとずっと一緒にいてくれるだろうか? わたしだけを見てくれるだろうか?
……いや、そんなはずはない。
大切なのは、期待に応えること。優秀であること。役に立たないものなんてすぐに捨てられてしまう。
手に包帯が巻き付けられていくのを見ながら、わたしは、よかった、と思った。
先程まで胸に広がっていた感情はなくなっていた。
先輩がわたしを見てくれる限り、何も問題はない。
見ていてくれる限りは。
「瀬名、今から救急外来に行こう」
「え、そんな……いいですよ」
「大丈夫じゃないよ。感染症が怖いし、診てもらった方がいい」
先輩のそのまなざしが、言葉が、この上なくわたしを苛む。
永遠にわたしを離してくれそうにない効力を持っていた。
どうしてこの人はこんなに特別なんだろう。
だからこそ、こんなにも苦しい。
わたしは少し背伸びして、彼に口づける。
先輩のことが大嫌いだけど、油断させるためにはこれくらいやっておかないと。
そう、全ては先輩を苦しめるためだ。
今、彼の世界は、わたしが独占できているだろうか。他の誰でもない、わたしが。
正直、この時間は嫌いではなかった。
先輩は誰のものでもないって確認できるから。
先輩なんて大嫌いだ。
今すぐここで殺してしまえたら、どんなにいいだろう。
でも、わかっていた。わたしは先輩を殺せない。だって、わたしは、先輩のことが――
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